<「多彩」な言語学の世界への誘い>
門外漢なので、言語学というのは論理学とか記号論とかそんな感じなのかな?と漠然と思っていた。本書を読んで堅いイメージがずいぶんとカラフルな親しみやすいものに変わった。比較文化人類学のようでもあり、認知心理学のようでもあり、また脳科学のようでもあり。実に多彩で可能性を秘めた学問のように思える。
言語学者である著者は、そんな学問の横顔を、興味深い数々のエピソードで楽しく描き出している。
その発展に寄与した言語学者も何人か登場する。世に科学者の評伝は数多いが、言語学者の列伝にはなかなかお目にかかれない、と思う。
色彩の認識。音素の複雑さ。時制や格。自己中心座標と地理座標。男性名詞・女性名詞。
さまざまな話題に触れられているが、個人的に興味深かったのは以下の話題:
・オーストラリアのグーグ・イミディル語の話し手は地理座標を元に位置関係を語る。これは、幼少時から、自分がどちらの方向を向いているのか訓練を重ねていることにもよるようだ(cf. 『イマココ』、『ソングライン』)。*グーグ・イミディル語の語り手とアボリジニが重なるのかどうかがよくわからなかったのだけれど。
・男性名詞と女性名詞を持つ言語を使う詩人が作る詩には、その名詞に伴う「性」のイメージまでも内包された豊かな情景が宿っている。名詞のジェンダーを失ってしまった言語に翻訳したときに、そのニュアンスは消えてしまう。
言語と言語を比較するというのは、非常に複雑で困難なことなのだと思う。
直感的に、日本語で考えるときと英語で考える(拙いのだが)ときでは発想が変わるような気がしているが、実はそれは言語のせいではなくて、例えばアメリカでは一般に、はきはきと主張しなければならないというような、そんな文化の背景が影響しているのかもしれない。
言語は言語だけを切り離せるものではないから、解明はそれほど単純ではないのだろう。
現実的でもないし、科学的でもないが、もしも100や200の言語を自在に操れて、自分がそれぞれの言語を使うときにどのように感じるのか、いわば内からの観察ができたらおもしろいのだろうな、とちょっと思ったりする。
本書では言葉をレンズや鏡にたとえている。
言語は牢獄という言葉も出てくるが、個人的には、牢獄のように囲うものというよりも、道具のように使い方次第のものなのだと思う。使いようによって枷にも翼にもなるものなのではないかと感じている。
この分野、まだまだ鉱脈がたくさん眠っているように思える。著者のような、専門家でありつつ、一般読者の興味を上手に呼び覚ますような書き手が、またその後を教えてくれるのを待ちたいと思う。
- 感想投稿日 : 2012年12月16日
- 読了日 : 2012年12月16日
- 本棚登録日 : 2012年12月16日
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