『少女の友』とその時代―編集者の勇気 内山基

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  • 本の泉社 (2004年1月1日発売)
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感想 : 5

大正デモクラシーの予兆が感じられる明治41年、1つの雑誌が創刊された。進歩的な家庭の女の子のよき「友」となったその雑誌は、その名も『少女の友』。その後、昭和30年に至るまで発行され続けた。実に48年間。日本の少女雑誌ではいまだ破られない最長記録という。その愛読者の中から多くの知識人・文化人が育っていった。瀬戸内寂聴、田辺聖子、神沢利子、中村妙子。中原淳一の絵に代表されるような美しく抒情的な世界は、都市部の知識層家庭の少女たちを虜にした。「良妻賢母」を作るという枠には収まらない、芸術や文学を知らしめる広い世界の窓となり、明るいユーモアをたたえるそれは、「凛と美しくあれ」と少女たちの背中を押す、そんな雑誌であったのだ。

その長い歴史の中で、最も暗い時代と言えるのが、満州事変(1931)から太平洋戦争終結(1945)までの15年間だろう。ちょうどその時代、1人の編集者が『少女の友』を支え続けていた。主筆、内山基である。主筆というのは、編集長と論説責任者を兼ねるような存在であるようで、まさに雑誌の背骨と言ってよいだろう。
今、『少女の友』を懐かしむ世代は内山主筆時代のものを読んでいた人が大半と思われる。
本書はそうした愛読者の1人である児童文学者による、『少女の友』と内山基の時代を振り返る1冊である。

雑誌というのは時代の花だ。世相を映し、流行を描き出す。人々のひとときを楽しませる雑誌の1冊1冊は、その性質上、長寿を保ちにくい、ある意味、読み捨てられる存在でもある。
中でも、少女雑誌は、少年雑誌に比べても扱いが軽く、読者に与えた影響力の割にはまともに論じられる機会も少なかった。加えて『少女の友』は主力読者が都市部の少女たちであったことから、空襲で焼けてしまった例が多く、保存も十分ではなかった。
本書は元々、著者が高齢者向け月刊誌に書いていたエッセイが発端になっている。あれこれ、思い出されることをぽつりぽつりと書き継ぐうち、かつての読者たちから連絡が来るようになり、資料が集まり、判明していったこともある。

この雑誌に特徴的であったことの1つは、「友ちゃんくらぶ」と称する読者投稿コーナーがあったこと。そこには、主筆と読者、あるいは読者同士のこまやかなつながりがあった。他の雑誌に見られるような架空のキャラクターではなく、主筆や選者が読者と人と人とのやりとりをしていたのである。
内山主筆は読者の作品を丁寧に論評し、欠点を指摘しつつ、励ましている。優秀者には銀時計などの賞品が授与された。「友ちゃん会」と呼ばれる集まりが開かれることもあり、投稿者・愛読者同士で手紙のやりとりがなされることもあったという。

結核などによる死がさほど珍しくなかった時代、読者自身やその家族が亡くなることも多く、交流欄に訃報が届くこともあった。掲載作品であった川端康成の「乙女の港」や「花日記」、「美しい旅」(『川端康成全集〈第20巻〉小説 (1981年)』)にも肉親の死がさらりと出てくるが、これはそのまま、読者である少女たちの日常であったのだろう。

1つ、本書で知ったのは、川端の「乙女の港」が中里恒子原案であったということ。平成元年に判明していたというが、寡聞にして知らなかった。原案に加え、もしかしたら女学生同士の細かな描写に関しては、中里の手による部分が大きかったのかもしれない。川端によるその他の少女小説にもやはり協力者がいたのではないかと著者は推測している。
投稿者も筆名を使うことが多く、また画家も中原や松本かつぢといった有名な人はともかく、本名を明かさなかったり素性が明らかでない人も多かった。このあたり、自分の名前で作品を発表することのハードルが高かったのかとも思わせる。特に一般家庭の子女が表現者の看板を掲げることはなかなか大変なことだったのだろう。

時代を感じさせるエピソードは、「あしながおじさん」や「クォ・ヴァディス」といった西洋の作品を紹介する際、恋人としてではなく、兄と妹に置き換えている点だ。恋愛などは御法度、異性を思うのはいわば「汚らわしい」ことだったというわけだ。
(*こちらは『少女の友』ではないが、手塚治虫の「火の鳥」エジプト・ギリシャ・ローマ編でも、主役カップルが「クラブお兄様」「妹のダイヤ」と呼び合うところがある。戦後数年の作品だが、こうした時代の残り香なのだろう)

戦争へと向かう時代、当局の介入も厳しさを増していく。中原淳一のある意味、「抒情的すぎる」絵は当局から掲載を禁じられる。中原の才能を見いだし、育て上げたのはそもそも内山だったという。断腸の思いであったことだろう。
人気を博した川端の少女小説「乙女の港」「花日記」に続いたのは「美しい旅」。女学生生活を描くものから障害を持つ少女の話へと大きく趣を変えたわけだが、これも抒情的な女学校の描写が当局を喜ばせなかったためではないかと著者は推測している。その後、「美しい旅」の続編はさらに満州の障害児教育のドキュメントと変動し、ついには障害児教育も戦時には無用とされたのか、連載自体打ち切られている。
(*障害児教育に熱心であった月岡先生のモデルは評論家秋山ちえ子氏であるとのこと)

頁数が削られ、ファッションや芸術などの心躍る記事が減っていっても、雑誌自体の発行は続けられた。
真っ向から当局に反抗することなく、しかし、現状でできるベストのものを少女たちに届けようとする意志を持ち続けた、それが内山主筆のスタンスだったのかもしれない。「乙女の港」などの作品にも感じられる、少女たちを励まそうとする「想い」は、作品の作者だけではなく、雑誌自体の「想い」だったのか。
時代の制約の中、ストレートに表すことには限界があっても、単に良妻賢母たれと説いたわけではなく、内山の求めるところは「自立し、自ら考える少女」だったという。
そのことは読者の少女たちには深いところで伝わっていたのだろう。いまだに誌面を覚えている愛読者たちの存在がそのことを物語っている。


*平成11年、弥生美術館で「少女の友」展が開かれ、その際、復刻版を求める署名が集められた。本書出版時の平成16年には実現していなかったが、その後、本書の著者と解説者が監修した、”『少女の友』創刊100周年記念号 明治・大正・昭和ベストセレクション”が出ている。

**川端康成「美しい旅」の変容を追う読書は、ひとまず小休止としたいと思います。肝心の「時代の波の中で生きること」、「戦争と文学」には迫りきれていないのですが、こちらはまた機会があれば改めて。川端作品も初期のものなど、日を置いてまた追ってみたいと思います。この時代の満州の暮らし、障害児教育に関しても適切な本があればまたいずれ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 歴史
感想投稿日 : 2015年5月19日
読了日 : 2015年5月19日
本棚登録日 : 2015年5月19日

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