名人伝

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レビュー : 22
著者 :
ぽんきちさん 日本文学   読み終わった 

中島敦の短編。
弓の名人を目指す男が厳しい修行を重ね、大家に学び、ついに真の名人に到達するまで、なのだが。
漢語を駆使した流麗壮大な文体なのだが、書いている内容は何だかすっ呆けている。笑っていいのか感嘆すべきなのか、何だか煙に巻かれるような話である。

趙の邯鄲の都に住む紀昌という男が弓の名人になろうと志を立てる。
紀昌はまず、飛衛という名人の弟子になろうとする。ところが、飛衛は、弓を教わる前に、瞬きをしない練習をせよという。紀昌は妻が機織りをする下に潜り込んで、妻に嫌がられながら、行ったり来たりする牽挺を見つけ続ける。ついには、牽挺が睫毛に触れても瞬きをしないようになる。
・・・いや、そんなことできるかい!?

喜び勇んで師の飛衛のところに行くと、飛衛はいやまだまだ、今度は視る練習をせよ、小さいものが大きく見えるまで鍛錬するのだ、という。そこで虱を髪の毛で結んでつるし、これを見つめ続ける。見つめること3年、ついには虱が馬ほどに見える。これを射てみると、見事虱の心臓を貫き、つるしてある髪も切れぬままであった。
・・・絶対やな、ほんまやな!?

ここに至って飛衛も紀昌を認め、奥義の伝授を行う。めきめきと力をつけ、百本の矢を連写すれば、百本が1つに連なるほどとなった。
あるとき、妻と諍いをした紀昌。妻を諫めようと目に向けて射た。矢は妻の睫毛3本を射抜いたが、妻はまったくこれに気付かず、なおも紀昌を罵り続けていた。
・・・大概にせぇよ。

さて、飛衛から学ぶべきはすべて学んだ紀昌。
次なる師としたのは、甘蠅老師であった。勇んで技を見せる紀昌だが、老師は笑って、「それは所詮、射之射。好漢いまだ不射之射を知らぬと見える」という。何だい、そりゃ、とむっとする紀昌。その紀昌に老師が見せた技がすごい。
・・・うぅむ、ここまで来ると何だか唸るしかない。

老師の元で修行を積んだ紀昌は、元の師の飛衛すら感嘆するほどの境地に立っていた。
しかし、外見は何のことはない、「木偶のごとく愚者のごとき容貌」である。
老いた紀昌は弓を手に取ることもなく、しかしながら、やはり厳然と弓の名人であり続けたのである。
最晩年、ある人の元を訪れた紀昌はそこで1つの道具を見る。はてな、これは確かに見たことがあるようだが、何というもので何に使うものだったかな・・・? 紀昌に尋ねられたその家の人は驚いた。
・・・察しのよい方なら、これが何だかもうおわかりだろう。
不射之射、ここに極まれり。

禅語に「忘筌」という言葉がある。筌は魚を捕るための道具で、大事なものだが、それに固執していてはならぬ、あくまでも大切なのは目的である。それと同様、悟りを開くにも手段は必要だが、手段に捕らわれてはならず、悟りを得ることを第一義とせねばならない、といったような意味と思われる。
何となく、この話を読んでいてこれを思い出したのだが、さて、本当に同じことを言っているのか、もう一段突き抜けているのか、何だかよくわからぬのが凡人の悲しさなのかもしれない(^^;)。

レビュー投稿日
2019年1月16日
読了日
2019年1月16日
本棚登録日
2019年1月16日
3
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