ナチの強制収容所で死刑を告げられたある男の身代わりとなり、餓死刑を受けたコルベ神父。どのような人物だったのか。残念だったのは、私の選書が悪い所為だが、本著には収容所の出来事やコルベ神父の心理描写は細かく書かれない。あくまで布教に来た長崎での活動を中心に綴られる。
布教は何故必要なのか。宗教は布教するから、一気に低質化し、コマーシャリズムを帯びる。キリスト教には、大宣教命令という、布教を呼びかける根拠がある。解釈は多義的ながら、そもそも、何故、宣教が必要なのかという事なのだ。一人でひっそり、信じ、実践すれば良い。
これはおそらく、布教がない世界では、宗教が自然発生的に生まれないからだ。少なくとも同形質のものとしては発生しない。自らの信教に圧倒的な自信があるならば、この自然発生を信じる立場でなくてはならないのでは。しかし、宣教は自然発生を信じない。明らかに矛盾である。
従い作業標準としての聖書を要し、奇跡の泉やら十字架やらの広告宣伝をもって布教するのだろう。
では、神父の身代わりはどのように解釈すべきか。宗教とは無関係に、身代わり自体は勇気ある行為だ。しかし、ここで背中を押したのが宗教観であり、天国への確信との表現が本著にも出てくる。高次な天国欲のために、現世の肉体をも捨てる。ここでもやはり現世の理不尽を理解させる作業標準としての商業主義観を拭えない。
勿論、これは不勉強な一個人の見方である。しかし大多数が布教に乗らないのはこのような由であり、現世の理不尽は、昔より随分と減ってきたのも事実なのだろう。
- 感想投稿日 : 2019年3月21日
- 読了日 : 2019年3月21日
- 本棚登録日 : 2019年3月21日
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