海に生くる人々 (岩波文庫)

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レビュー : 4
著者 :
ravenclaw55さん 本 :小説   読み終わった 

私が読んだのは、筑摩現代文学大系36、葉山嘉樹集。
以下ページは、同書中の数字。

(1)
「日本文学の長い歴史の上ではじめて革命的労働者の生活と闘争が高度な美的表現において描きだされた――これが一九二三年(大正一二)の葉山嘉樹の長編小説『海に行くる人々』である。」(p479)

「日本文学がかつて表現したことのなかった、階級対立の現実の仮借ない追求と、労働者階級のなかからの新しい人間の誕生、その確かな存在を示す人間的な活気と能力と魅力、それと結びついた新しい美、すべてこれらが存分にくりひろげられている」(p487)

社会主義文学における最初で最後の「記念碑的作品」(p488)

と、解説の小田切秀雄は大絶賛であるが、そこまで手放しに誉められるほどの作品とは思えない。

読者を混乱させる語り手の三人称から一人称への突然の転換や、会話の主が誰だかわからなくなるといった技術上の不手際、ドストエフスキーの明らかな模倣――こういったのはささいな点でほほえましいぐらい。料理屋の売春婦の長広舌は十分効果的だし、本家を見習って、もっと延々とやってもらっても大歓迎だ。

一番の欠陥は、社会主義イデオロギーの用語が不自然に、無理矢理はめこまれている点で、これが説教臭くてかなわない。せっかくの物語の世界を損なっているとしか思えない点だ。たとえば中世的世界を舞台にした波瀾万丈の物語を読んでいる最中に、突然キリスト教会のカビ臭い通俗道徳の説教がはさみこまれたようなものだ。

そんなことをいうのは資本主義に毒された堕落したブルジョワジー的感性だとかなんとか、昔なら激しく罵倒されたものらしいが、いま読んでいるのは小説であってマルクスやレーニンの政治パンフレットを読んでいるのではないので、そんなことを言われても困る。

小説は○○主義のプロパガンダであるべきだとか、特定のイデオロギーに奉仕する道具だとか考える者にとってはそういう理屈になるのかもしれないが、小説は、芸術作品とは、そういうものではないだろう。作者がそういうものを目指していたとしても、こうミエミエでは、その試みは失敗に――空中分解に終わっている。

理論は理論、物語は物語、宣伝は宣伝であって、それらをミックスさせて芸術作品として結実させるのは至難の技である。いくらマルクス主義が正しいからと言い張ったって、そうまくはいかないわけだ。

そうしたイデオロギー用語をいっさい使わずに社会的不正義を厳しく糾弾したスタインベックの「怒りの葡萄」(1939年―昭和14)の圧倒的迫力と真実性を思い出してみるべきだ。物語の力のみでなしとげたあの感動に、この作品は及ぶべくもない。葉山嘉樹の「海に生くる人々」は、物語としての完成度が、そういった異物によって妨げられておりこそすれ、けっしてその逆ではない。

それはなぜかというと、物語がさらに対象を追求しなければならないまさにそのところで、いつもこの専門用語が、それ自体で事柄を説明してしまい―物語をそこで止めてしまう。作者がそこで追求をやめてしまうからだ。読者も作者もそこで判断停止におちいってしまうからだ。

作者がさらに踏み込んで描かなければならない地点で、考えなければならない処で、マルクス主義の言葉が持ち出され、それですべてが解決され、描かれてしまったような気になるという――作家としての知的怠惰、不誠実さのためである。つまり肝心なところでマルクス主義によりかかってしまっているのだ。とすれば作家にとってこれほど楽なことはない。登場人物とってもこれはラクチンだ。読者にとっても同じ。

悪いことはすべて階級対立に収斂される。

オレはなぜ失恋したんだろう――資本家と労働者の階級対立のためだ。
オレはなぜモテないんだろう――階級対立のためだ。
オレはなぜニートなんだろう――階級対立のためだ。

おれはなぜ一日二〇時間もゲームをしているんだろう――階級対立のためだ!
いや、オマエが怠け者だからだよ。全然関係ないとは言わんけど。


(2)
さて、こうした欠点にもかかわらず、「海に生くる人々」は、十分読み応えのある魅力的な小説である。
だがそれはこの小説が社会主義文学の記念碑的作品であるからというよりも、作者の物語精神が、そうした理論の足枷を吹き飛ばしているからだと思えるのだ。
表現への欲求、物語ることへの欲求が、通俗道徳(マルクス主義的な)の下から吹き出している。

「その夜は全く悪魔につかれた夜であつた。人間の神経を鏝で焼くやうに重苦しい、悩ましい、魅惑的な夜であつた。極度の歓びと、限りなき苦しみとの、どろどろに溶け合つたやうな一夜であつた。
三上にも、小倉にも、それは回視するに忍びないやうな、各々の思ひ出を、その夜は焼きつけた。それは永劫に覚めることのないほどの夜であるべきであると思はれた。それほどその夜は二人にとって大きな夜であった。」(p58)

万寿丸の乗組員二人にさまざまな出来事が起こった夜の説明だが、いかにもドストエフスキーの作品に出てきそうなこの文章を、作者はおそらく嬉々として書いている。

「人間の一生のうちに、その人の一切の事情を、一撃の下に転倒させる様な重大な事件があり、社会に於ては、全社会を聳動せしめるやうな大事件がある。そして、それ等の事件が必ず夜か昼かに行はれ、その事件とは全で関係なしに、夜になつたり、朝になつたりすることは、個人として、社会として、その事件に当面したものに、馬鹿げた、不思議な感じを屹度起させるものだ。中には「ああ、俺にとつて、あれほど重大なことがあつたのに、どうだらう、夜が明けた」と思はせるのである。(p58)

ここは作者独自の表現で、こうしたすぐれた心理的描写とともに、情景描写が見事である。
有名な冒頭の部分と、冬の海での作業シーン。

「雪は北海道の全土を蔽うて地面から、雲までの厚さで横に降りまくつた。……
万寿丸甲板部の水夫達は、デッキに打ち上げる、ダイナマイトのやうな威力を持つた波浪の飛沫と戦つて、甲板を洗つてゐた。ホースの尖端からは、沸騰点に近い熱湯が迸り出たが、それがデッキに五尺流れるうちには凍るのであつた。五人の水夫は熱湯の凍らぬ中に、その渾身の精力を集めて、石炭塊を掃きやつた。」

こうした表現力は、作者の文学者としての豊かな才能を示しているこというまでもない。
作者の社会の不公平への怒り――それはスタインベックの怒りと異質なものではないだろう。そして不公平が起こってくる社会の構造を把握するための理論を、マルクス主義が与えてくれた。そしてその怒りや不公平撤廃の訴えを表現する方法としてかれが選んだのは、政治的実践よりもむしろ、かれの才能に見合って、物語の形式だった。

しかし物語として表現するにあたって、物語に独自に備わった論理からではなく、マルクス主義の公式セオリーから出発しようとした。少なくとも彼自身の主観としては。

だがそれはたちまち物語に裏切られ、マルクス主義イデオロギーの用語は漂流する。物語が生き活きすればするほど、そうした言葉は宙に浮いてしまう。もともと無理な企てだったのだ。物語の根源性が、マルクス主義の硬直性を逆に浮かびあがらせる結果になっている。最初の意図とは逆に、物語にイデオロギー用語がしがみついた形になっている。

だがそうしたとってつけたような感じを、作者自身が気がつかないでいる筈がない。そして作者の作家性は、物語とマルクス主義理論との埋め難い乖離を、いずれどこかで決別しなければならないことを、予感していたのではないだろうか。

弾圧下の戦前戦中において、葉山嘉樹はマルクス主義からの「転向」を余儀なくされるのであるが、そういった外部からの強制力の有無にかかわらず、恵まれた才能にとっては、「離脱」は必然ではなかったかと思う。そうした束縛からの脱却は、マルクス主義に立つ側がどう言おうとも、葉山の作家性の勝利ではなかったか。

とはいえ、束縛を脱却した後のかれの作品が、あのように衰弱しているのはなぜかという課題を提起するのであるが。

レビュー投稿日
2020年4月22日
読了日
2013年2月13日
本棚登録日
2020年4月22日
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