短篇集

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ricaerururuさん    読み終わった 

・「私たちは半時間ほども、穏やかな木陰に休んでいたでしょうか。空は灰色の霧に覆われ、針のように繊細な雨が、いつの間にか辺りに降り始めていました。私は幹に寄りかかり、目を閉じて、その雨の音に耳を傾けます。瞼の暗闇の中を、雨の音は深い余韻を残しながら、いつまでも降り続けていました。そしてその余韻は、やがて最後のしずくが砂の上に落ちきったのと殆ど同時に、私の心から遠のくようにして、木陰の外へ失われていきましたが、私は雨の余韻が消えていく、その最後の瞬間を意識していた時、自分たちはいまいるべき場所にいるのだなと、なぜか認識できたのです。―あるいは言葉では、上手く伝わりにくい話かもしれませんが」

・狂ふべき時に狂hず花は葉に

角川春樹という人の句であった。初めて聞いた名前であった。花とはたぶん、桜の花。その花が、狂って咲き乱れることなく、そのまま枝に残って葉になってしまうという。無念のにじむ一句だった。

・”邪魔者になるな。”この一行を私は、編集者人生を貫く警句とした。尊敬し惚れ抜いた作家であればあるほど、無闇に近づきすぎないよう細心の注意を払い、彼らの視界の最も目立たない片隅に居場所を定めた。ただしその一隅は秘密の通路で鼓膜とつながっていなければならなかった。
役目の大半は耳打ちであったからだ。

・他の何かとぶつかった時、自分が光となることを素粒子は知っている。その光は宇宙で最も美しい形を描き出し、誰にも感嘆の声をあげてもらえないまま消えていく。空中のそこにも、ここにも、素粒子は降ってくる。誰かを求めて通り過ぎる。女の話は渦を巻き、環を作り、うねってゆく。始まりも終わりもなく、素粒子の旅は続く。時折、痰が絡んで咳が苦しそうに震える。私は声にならない声で、「大丈夫です」と耳打ちする。それから以降の人生まで、幾度となく繰り返すことになる言葉を口にする。

・女が物理の館を出て行ったのは、私が小学校を卒業した春だった。いよいよ不法に住み着くことが難しくなったからなのか、単なる彼女の都合なのか、そしてどこへ行ったのか、誰に尋ねても知っている人はいなかった。そう言えば最近、姿を見ないなという噂が流れ、すぐにひょっこり戻ってくるだろうと、皆、根拠もなく思い込んでいるうち、いつしか誰もが女の不在に慣れ、そんな女がいたことなど忘れてしまった。

レビュー投稿日
2016年11月15日
読了日
2012年5月24日
本棚登録日
2012年5月24日
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