中村一成さんの本は「ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件」以来なのだが、この人の書く本はなぜこんなに引き込まれてしまうのだろうと思う。
この「ルポ 思想としての朝鮮籍」は、後半の3人にぐーっと引き込まれた。
わたしはこれまで「日本人」とは、「日本国籍を持つ者」だと自分の中で定義していた。が、この本を読んで「日本人」とは、「自分が日本国籍を持っていることに悩んだことがない者」ではないかと思うようになった。もちろんこれは「帰化」した元外国人はいつまで経っても外国人のままだ、という意味ではない。「マジョリティとしての日本人」を考えるとき、その「日本人」とは単に日本国籍を持つ者という意味ではなく、日本国籍を持つことに悩んだことがない者ではないだろうかと思ったのだ。
「火山島」という小説があるというのは知っていた。それが「4・3事件のことを書いた小説である」というのも知っていた。まだ読んだことはないのだが、あるとき、何気なく知り合いの在日の人に「この本、読んでみたいんですよね」と言ったとき、その人に「この本は襟を正して読まなければならない」みたいなことを言われて、それが妙に頭の中に残っていた(ちなみに「襟を正して」という表現はされず、わたしの中に「きちんと正座して」とか、そういう印象を持たせた言葉を言われたが、正確になんと言われたのかは覚えていない)。
この著者の金石範さんが一番最後に出てきて、なおかつこの本を中村さんが書くきっかけになった人でもあるらしいが、これを読むと知り合いの在日の人がなぜそんなことを言ったのか、とてもよく分かる。
というか、在日が戦中、戦後と非常に過酷な立場を強いられたことについては、もちろんそれなりには知っていた。が、この本で新たに「なるほど、そうだったのか」と知ることがたくさんあった。それは多分、わたしが今まで「何か在日の人は複雑な、よく分からないものを持っているが、それを聞き出すことはできないような気がする」と思っているようなことだったのだろうと感じている。というか、日本人のわたしは、このような話は知っておかねばならないとは思うが、このような話は直接聞けるような立場の人間ではない。
ここに出てくる6人はみな、1940年代から1950年代という「同時代」を生き抜いてきた人たちなのだが、人の置かれた状況、立場でこんなにもみな経験した歴史が違うのだということを考えると(にしても、この人たちには今でも「朝鮮籍」であるという共通点があるのだ)、なんとも言い難い思いがこみ上げてくる。
在日の複雑さ、について一端が垣間見えた本だった。
- 感想投稿日 : 2017年3月31日
- 読了日 : 2017年3月31日
- 本棚登録日 : 2017年3月18日
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