平成史―昨日の世界のすべて

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  • 文藝春秋 (2021年8月6日発売)
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《小さな政府のアジェンダ、新鋭の学者によるブレーン政治、意思決定プロセスの公開、情報化社会への対応。平成の序盤には輝かしい未来を約束するものとして頻繁に説かれたこれらの要素を、あたかもコラージュするかのように集大成する異形の政権が出現したとき、実はピックアップされた諸要素はその来歴を無効化され、母体だったはずの論壇——言語による筋道で討議する空間は衰弱していった。
 その意味で小泉政権は、「改革か保守か」・「新自由主義かコーポラティズムか」といっった政策論の次元を超えて、歴史や一貫性を脱臼させる(=踏まえないで無視する)行動様式こそが富や権力をもたらすという、今日につながる文明史的な転換こそを象徴していたのです。》(p.235)

《小泉政権下の靖国問題に見るべきは、むしろいまなお「歴史を生きる社会」(中国、ないし韓国)とそうでない社会(日本)との、巨大なコミュニケーション・ギャップ)ではなかったか。平成を終えたいま、それが最もアクチュアルな総括に思えます。
 A級戦犯を祀ることで国際問題を惹起している神社に参拝しながら、彼らについて問われると「戦争犯罪人だと思っている」と即答する小泉氏の言動は矛盾していましたが、そうした歴史を無化した態度が日本ではかえって「別に極端な人じゃない」「キレる中国のほうが大人げない」といった印象を醸し、高い支持率を維持したままの退陣となりました。》(p.274)

《そもそも平成の劈頭、江藤淳が連載をまとめて刊行した『昭和の文人』は、彼なりの転向文学論でした。共産党員歴のある中野重治の「終生廉恥を重んじ、〔時代の変転に際して〕慟哭を忘れることがなかった」誠実さに、左右の違いを超えて共感を示す半面、自身の出自を偽造した堀辰雄や、戦時下の体制協力を「ひとつの偶然」と嘯いてごまかした平野謙(文芸評論)を酷評したことで知られます。
 しかし平成の末期に生じた「景気をよくする政策」への一億総転向は、もはやそうした文学的な葛藤を不要とするほどに、メカニカルで軽やかだった。そうした圧倒的多数の人びとの姿こそは、国の過去から現在の自身へと連なる、「自分に筋を通す」媒体としての歴史が、一貫して薄らいでいった時代の果てでした。
 なにより歴史を無効化する姿勢の持ち主は、安倍政権を翼賛する「極右の政治家」やキャラ萌えゲームを手放せない「ノンポリ化した大衆」だけでなく、大学の教壇で滔々と日本批判の詫宣を垂れる「左翼の知識人」にも多くいます。歴史は、なかんずく当時まだ現在進行形であったはずの平成史は、とっくに社会の不要物として扱われ、足蹴にされる対象になっていた。》(p.458-459)

《平成の約30年間が、マクロに見れば「アメリカの衰退」と「中国の台頭」の時代であったことを、いま疑う人はいません。この事態を日本人としての視点で捉えなおすと、冷戦体制下では「もっとも進歩的な、米国の衛星国」だった自国の輝かしい側面が薄れ、むしろ「なにをやり出すかわからない中国の、危険な辺境」としての位置づけが、誰の目にも色濃くなってゆくプロセスと言えるでしょう。》(p.514)

《そうした志向の先にはおそらく、個人単位の「信用スコア」で受けられる社会サービスが相違してくる、あたかも「中国的」なようで実は世界共通かもしれない日常がほの見えています。そうした社会の端緒を、シリコンバレー勃興機のアメリカ西海岸で目撃した西部邁は、すでに1978年にこう述べています。

 これらマンチャイルドたちがこの巨大な自然の中で、しかも雑多の人種の種差を調整しながら作り上げる社会のメカニズムは、ぞっとするほどハードでなければならないでしょう。
 あらゆる質的差異を加算可能な量的次元の上に変換するという、人間にとって絶対的に不可能なはずのことを、あたかも可能であるかのようにみせかけるもの、それがアメリカの夢なのだと思います。夢の結末がどうなるにせよ、その過程で、大概の日本人には及びもつかない硬質のニヒリズムが練磨されるに違いありません。

 政治的なパワーとしての米国が衰退の途上にあっても、人間性の摩耗をテクノロジカルな数値化で埋め合わせる機械仕掛けの「アメリカの夢」は、グローバルな生の基底として冷戦終焉後の世界に広がっていった。そしてGAFAAはおろか、ファーウェイやサムスンさえも生み出さなかった日本は、端的にその上での覇権争いに、破れたのでした。》(p.529-530)

《未来ではなく、過去に向かってボールを投げてみる。現在でさえ青く濃い霧に覆われたいま、それは文字どおり闇に向かって球を抛る行為です。投げ手の誰も、その先になにがあるのかは、わからない。多くの場合、ボールは闇に吸い込まれてゆくだけで、なにも戻ってはこない。
 それでもごく稀に、投げた球に汚れがついて帰ってくる。一見すると、それは自分の手もとでだけ白球を転がして戯れている、子どもの遊びと見分けがつきません。しかし実際には、誰よりも遠く強いボールを投げ、過去に起きたこと・かつて生きた人びとと互いに響きあえたことの、証明であり勲章である。》(p.544)

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感想投稿日 : 2021年8月12日
読了日 : 2021年8月12日
本棚登録日 : 2021年8月6日

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