哲学の誤配 (ゲンロン叢書)

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ryohobenさん  未設定  読み終わった 

《コミュニケーションを深めればコンセンサスに達するというのは嘘で、ほんとうはその外部がないと議論は無限後退していく。(…)ぼくが提案する「データベース」は、外部でないふりをする外部とでもいえばいいでしょうか。》(p.34-35)

《他者というのは、とくに発見しなくてもあちらこちらにいるものです。》(p.37)

《あるていどまでは責任を取れても、全面的に取ることはできない。ぼくは、むしろ、そのずれこそが、人間という存在の本質を規定しているのではないかと思います。そういうことをいうために、ぼくはずっと「誤配」という概念を使いつづけてきました。》(p.89-90)

《ゲンロンのお客さんには、じつにさまざまな職業や年齢のひとがいます。彼らはけっして、最初から哲学を求めていたひとばかりではありません。でもいつのまにかゲンロンにたどり着いてしまった。哲学は、そういうひとにこそ話しかける言葉であるべきだと思います。正しいことがわかるひとに向かって、正しい言葉だけをいう、それこそ哲学ではないでしょう。》(p.101)

《率直にいって、才能が出てくるか出てこないかはわかりません。むしろ大事なのは、そのような(ゲンロンスクールという)新しい場があるとジャンルが活性化するということです。つまり、ぼくは仕組みをつくっている。コンテンツにしか関心がないひとは、いくら説明してもその重要性がわからない。ぼくの個人的な経験では、とくに出版社の編集者がそうです。そういう話を聞くたびに、ぼくの試みを理解してもらうのはむずかしいと感じます。》(p.112-113)

《デモに行くことだけがアソシエーションの実践ではありません。二一世紀の消費社会には、デモとは異なるかたちの、さまざまなアソシエーションの方法があります。それを組み合わせてどのような新しい空間をつくるか。ぼくの本はその実践のためにあります。》(p.124)

《したがって、ぼくたちはふたたび世界にパラロジーを導入しなければならない。観客を複数化し、ゲームを複数化しなければならない。グーグルやフェイスブックのアルゴリズムが定義するものではない、べつのゲームを再発明し、それを見るべつの観客の共同体を育てなければならない。その介入こそが、「正義への欲望と未知への欲望がともに尊重されるようなひとつの政治のデッサン」という言葉で、リオタールが夢見たことでもあるだろう。ぼくたちにいま必要なのは、複数の物語ではなく複数のゲームなのだ。》(p.163-164)

《一九七〇年代の学生運動の衰退を経た日本では、八〇年代になるとマルクス主義はもう古いという認識が広まり、ポストモダニズムを始めとした新しい考え方が受け入れられ、ニューアカデミズム旋風が巻き起こる。他方、韓国では八〇年代になって初めて、マルクス主義が本格的な関心の対象になった。戦後、韓国と日本がたどった思想をめぐる歴史的変遷はあまりにも異なる。この大前提は何度でも強調しておきたい。》(p.198)

レビュー投稿日
2020年6月18日
読了日
2020年6月18日
本棚登録日
2020年6月17日
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