集団的自衛権と憲法解釈、改憲の議論が持ち上がる中で、もっと勉強しなければと思い、まず手っ取り早く、私と同じ年で若手の憲法学者として活躍中の木村草太さんの本を読んだ。奥平康弘さんとの対談本で、第一章は立憲主義について、第二章は改憲論議について、第三章は現代の憲法をめぐる状況と課題、第四章は憲法の可能性と日本の進路についてまとめられている。

いくつか個人的に面白いと感じた箇所について。
なぜ日本人は天皇制に強く惹き付けられるのか?という問いに答えている部分。
日本では、多くの人が今ある事象や体制に対して消極的肯定、消極的賛同とでも言える態度を示していて、それを変えようという人たちは、説得力のある論理展開を出来ていない。これは天皇制の廃止に関しても、改憲に関してもそうだ(安倍政権はそれを力の論理で押し通そうとしているからたちが悪い)。変える変えないは別にして、一人一人がもっと積極的に天皇制や憲法とは何かを理解し、捉え直すという作業が必要だと思う。


次に、「あいまいで情緒的な」自民党について。集団的自衛権をめぐる安倍さんの発言も、自民党の改正草案に関しても、この人たちのロジックのなさと情緒的なレトリックの多用に惑わされている人が多いと思う。強いものやつよい言葉、情緒的なことばに流されるのは、自分が弱いからなのだけど、基本的に人間は自分が弱いことなど認めたくないので(世の中で強いと思われている人や、強くならなきゃと思っているひとほど特にそう)、彼らの出すレトリックを批判的に見るのは決して易しいことじゃない。

本の中では、自民党憲法草案のQ&Aの中にある『国を守る義務』について、奥平さんから「憲法が自分たち国家権力を縛るものだという大前提がわかっておらず、「国民を管理する法律」だと本末転倒の誤解をしている、と痛烈な批判が寄せられている。


現代の憲法をめぐる課題に関しては、表現の自由の箇所でタトゥーについても触れられていた。今までグレーゾーンと見なされてきた様々な問題を「表現の自由」との関連で議論することの意義と難しさを感じた。

最後に、人の心に抱く信条というのは結局のところ歴史感覚である、という箇所。これは日本国内の憲法談義だけでなく、国際関係においても大事な視点だと思う。相手の信条の深さとそれをもたらす歴史感覚を理解しないと、異なった意見を持つ人の間での議論は始めることさえ難しい。


今回のことも含めて、憲法が守っていることやそのあり方について国民全体のリテラシーを上げていかないと、待っているのは衆愚政治だ。この本では特に奥平さんのかたりの中で疑問に思う箇所があったけれど(例えばヘイトスピーチを解決するための「文化の力」の部分や)、憲法に関しては高校レベルで社会科を教えられる教員が最低限持っていなければいけない程度の知識しかなかった私にとっては、大変分かりやすく読みやすい本だった。

2015年2月1日

読書状況 読み終わった [2015年2月1日]
カテゴリ Input

震災の話を聞くと、そこにたくさん詰まったひとりひとりの人生の重みに、その思いにいつも心を動かされ、多くの場合たくさん泣き、そのあと自分が生きていることや自分の周りの状態に、今までよりもまっさらな感覚で向き合っていけるような心持ちになる。

誤解を恐れずにいうのなら、バックパッカーで2、3ヶ月1人旅に行って帰ってきたとき、人間として、生きていくなかで大切な日々のひとつひとつを大切だとおもう感情がわき上がってくるのに似ている。

日本にいると忙しい。色んな仕事や付き合いや、手続き、支払い、イベント。この資本主義社会でそつなく、損せず、より合理的に生きるための様々な工夫とシステムに否応なく巻き込まれて生きている。

そういうのが全部0になる。
もちろん、人も街もいなくなって、持ち物も全部なくなる、という計り知れない喪失感や絶望感は私には想像できない。想像できるとか理解できるといったら、あまりにもおこがましい。でも、「あなたへ。」のような本を読んで、過ぎ去ったたくさんの人の思いや人生にひとつひとつ心を寄せるなかで、人の痛みや喜びや、這い上がる力や這い上がれなかった気持ちや、無理矢理鼓舞した心や抑圧した悲しみや、色んなものへの想像力をのばしていくなかで、ちょっとでも誰かに寄り添える人間に、ちょっとでも誰かの役に立つ人間になりたいと心から思う。



テレビには写らなかった、そして私が震災後半年以上たって現地入りしたときにはもう見ることのなかった震災直後、救助活動や遺体と言う命のやり取りに関わった警察官の方達の手記。行動やことばのひとつひとつがあまりにもリアリティに溢れていた。

最初の半分を読んだ時は、10代のときにこれを読んでいたら、私もきっと警察官になりたいと思っただろう、と思った。直接的に人を助け、誰かに手を差し伸べることができるという仕事は、本当に尊い。その尊い仕事の末席に、自分も加わりたいと思ったし、こうやって直接的に人の役に立つような仕事こそ自分がすべきことなんじゃないのか?なんて、震災直後からずっと感じていた今の自分への疑問を何度も反芻した。でも後半を読み進めていくと、こんな極限状態のなかで誰かのためになることを一生懸命する、ということが、すごく尊いことであると同時に、ものすごくしんどく、そして迷いやためらいや無力感を持って活動していることをひしひしと感じる。警察官への賛美や安易な憧れじゃなく、その迷いや葛藤こそを理解することが大事なんだと思った。

2014年3月26日

読書状況 読み終わった [2014年3月26日]
カテゴリ Something meaningful

大変ためになる読み物だった。全力士のプロフィール+元力士達による解説を大変興味深く読んだ。3人の相撲ジャーナリストによる有望株遠藤関分析も読み応えがあった。問題は、このデザイン飽和の時代において町内会新聞のような紙面デザイン!そしてこの紙質と写真とデザインで880円というのはやはり相当な相撲ファンでかつお金に余裕のある人しか買わないであろう。値段を780円にして、どこか駆け出しのデザイン会社に頼めばどうだろうかと思う。

2014年3月12日

読書状況 読み終わった [2014年3月12日]
カテゴリ Input

女で未だテニュアのないPDの研究者(のたまご)である私は、まだ「実力があればテニュアは得ることができる」という理想世界を信じている方です。

でもたとえ今後テニュアという特権を得たとしても、それを自分の実力のおかげだと正当化して得られなかった人を仕方ないと考えるような、排除の論理を振りかざさないようにしたいと改めて思いました。

あと、今のように私が非常勤の立場を楽しめるのも、今は一時的に学振のおかげ、そしてそれが切れたあとも楽しめるとしたら、旦那や比較的余裕のある実家の存在や自分が女であることの「おかげ」であり、それは裏返せば自分の首を絞める甘い蜜であることを再確認しました。

2014年3月4日

読書状況 読み終わった [2014年3月4日]
カテゴリ feminism

俳優さんの匂い立つような演技と若松孝二の撮る画面を見ているだけで心を奪われるような二時間。ストーリーラインを追おうとせず、三味線の音と一緒に二時間見ているだけで昭和のあの集落の空気感に飲み込まれそうになる。

寺島しのぶ+佐野史郎という演技派に加えて、高良健吾、高岡蒼甫、染谷将太というエロくて男臭い若手俳優セレクション。興行的な引きはないかもしれないけど、数あまたの中からこの三人を選んだっていうキャスティングがすごい。『軽蔑』の時も感じたのは、高良健吾が外道な役をやると、その整っていて線の細い感じがとたんに軟派で儚い男の性を体現しちゃうこと。外道さをのせても品を失わずエロさが出せる数少ない俳優だと思う。高岡蒼甫は根っからの自分勝手な男だけど弱いところも持っている、っていうおそらくこの人自身にも通じるところがあるんだろうあなって思う。染谷将太くん(年下過ぎて呼びつけできない)は抑圧された狂気を持つ役(『ヒミズ』)や人道派のいいやつ(『永遠の0』)っていう役しか見ていなかったので、今回の男っぽさにドキドキしてしまった。ほんの数分の出演なのに、トリのエピソードの印象が一番強く心に残った。

原作との世界観の乖離でいくつかの批評があるようだけど、私は原作を読んでいない。寺島しのぶの住む家に人が息を切らして駆け上がり、様々な出来事を伝えて行くシーンが印象に残って、さすが長年の映画人の撮る映画だなあと思ってしまった。合掌。

2014年1月23日

読書状況 観終わった [2014年1月23日]
カテゴリ movies

・女子校にカーストはない、ただ島がいくつもある
・媚びる女は、「自分ツッコミ」がない女
・「共感に至るまでには、お互いのことを相当知ってからでないとできない」(→にもかかわらず、facebookとかで安易な上っ面の共感が増えているのを見るといらっとする)
・「最後は、ブスの壁にぶつかる」
・「女がカツアゲシステムを作った」(女が家にいて、男が外に出て金をかせいでくることを指す、うさぎさんの創作語。「カツアゲシステム」これから使わせてもらおう)
・「エロス権力」(©うさぎ。美人や男受けの良い女はその後を考えて結婚した方が良いと考えエロス権力を行使する)
・「女子は捨てた選択肢に常に復讐される」(そうなの。キャリアと結婚と子育てと安定の間で、捨てざるを得なかったものはみんな何かしら持っている。その捨てたものに、勝手に復讐される。自分の中でね)。

以上が面白いと思った部分(括弧内は解説および私の意見)。

対談としてはかなりやっつけ仕事的な本で、買って通して読む価値があるかどうかは疑問ですが、私は三浦しをんさんの作品が好きなので買いました。しをんさんに印税がいきますように。

2014年1月12日

読書状況 読み終わった [2014年1月12日]
カテゴリ feminism

慰安婦問題に関する歴史的流れや議論点がまとまっており、歴史事実委員会の声明に対するカウンター言説になっている。

女性の人権や尊厳に対してあたりまえにすべき配慮や賠償に加え、男性である兵士の尊厳に対しても問題があるのではないか?というところまで考察がなされていて勉強になった。

戦地での性欲解消やストレス発散のためとを軍部に女性をあてがわれることに対して、男性として抵抗はなかったんだろうか。実際に慰安所を利用していた兵士達の回顧録がいくつか引用されており、鶴見俊輔さんの対談『戦争が遺したもの』で触れられていた慰安所の女性と兵士の間にあった愛情のようなもの、と合わせて、この問題を被害者=女性、加害者=軍(日本)、という枠組み(それはもちろん前提だと思うけれど)以外の側面からも見なければいけないと思った。

2014年1月2日

読書状況 読み終わった [2014年1月2日]
カテゴリ Regional Integration

在特会を語ることで、在特会を生み出したこの社会や普通の人々に潜む「在特会的なるもの」を描き出した圧巻のノンフィクション。最終章で、安田さんは「理解でも同情でもなく、ただ在特会に吸い寄せられる人の姿を知りたかった」と書いているが、最後まで読んで思ったことは、この本は在特会を批判するものでもあげつらうものでもなく、在特会という特異な存在の下に潜む、この社会の狂気だ。家や家族としての組織がもたらす「連帯」や「団結」は、うまくいかないという焦燥や孤独をかき消してくれる。ネットの世界は現実社会と違って人々をセレクトしない。その懐の深さが多くの人を受け入れ、認めてくれるという感覚と居心地のよさを生み出している。そしてそっち側に行くのは、決して難しいことではないということ。


この本には様々な批判が寄せられているのを見る。自分が持つ思想や信条から在特会の主張自体に疑問を呈する内容に反対する在特会側の人もいれば、あまりに在特会に寄り添いすぎているという取材態度の批判をする人もいるという。ものすごい量インタビューと、綿密な取材によって描かれたものであっても、当然安田さんの会える人、安田さんから見える世界を描いたものであるから、様々な批判があるのは仕方がないようにも見える。しかし、在特会なるものへの問題提起はものすごく重要であり、それ以外の批判はどうでもいいものに思える。

在特会の人びとが「反エリート主義」や「これは階級闘争だ」と話すのを聞くと、聞き慣れた構造に安心した一方で、最後の方に書かれていた市井の「いい人たち」の中に潜む無自覚な差別の感情や、目に見えない在特会への支持を、より恐ろしく感じる。「日常生活のなかで感じる不安や不満が、行き場所を探してたどり着いた地平」が「愛国よという名の戦場」という症状は、けっして「うまくいかない」人や生きづらい人達だけに生まれているものではない、と思う。


私の担当する「多文化交流ゼミ」という授業の中で、移民に関するテーマでディスカッションをしたときも、「日本に同化できないなら帰ればいいのに」「税金もきちんと払っていないのに、権利を主張するのはおかしい」という発言をさらっと言う学生がいる。英語で話しているから、言えることに限界がある、主張が単純化されるということを差し引いても、まじめで勉強熱心で、多文化交流や国際的なことに興味がある若い学生が持つ、そのシンプルで迷いのない感覚を恐ろしいと思うことがある。優秀で難関の公立大学に入学し、何不自由なく暮らし、将来の夢に満ちあふれ、友達が多くてリア充の代表みたいな彼女たちが持つ感覚にも在特会を支えるロジックは潜んでいる。

安田さんの言うように、在特会のいる「あっち」側と、普通の人々が住む「こっち」側には明確な境界線などないのだ。だからこそ在特会の叫ぶことばは対岸の火事などではなく、それを導きだすロジックや感情は自分のなかにもきっとどこかにあって、その引き金もあっちこっちに散らばっているのではないかと思う。

2013年12月2日

読書状況 読み終わった [2013年12月2日]
カテゴリ Nationalism

最近、保育所が足りない! というニュースが話題になった。こういう話題が出てくるといつも湧いてくるのが、「じゃあ共働きをやめればいい」「専業主婦になればいい」という意見だ。その理由としては、「赤ちゃんには絶対に母親が必要」とか、「子どもは3歳くらいまではお母さんが育てるもの」などなど、あたかも愛に溢れた正論のような理由が挙げられることが多い。母子の愛は、とかく美化され、絶対視されがちな傾向にある。

思想家の鶴見俊輔さんの著書のなかで、「母親というのは、子どもにとって内心の先住民族であり、抑圧者」(鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの』)であると語られている部分がある。
主人公の作者・永子のお母さんは、永子にとっては、まさに「抑圧者」そのものだ。お母さんは「KY」で「好きなったら一直線」な人であり、物語の最後で永子ちゃんが気づくように、お母さん自身の味方をする人がいなかった人だ。だからこそ、ひとり娘である永子からの認証を求め、永子が独り立ちすることも素直に応援できず、いつまでも自分の思い描く母娘の関係の中でのみ永子を愛し、保護し、母親としての自分を認めさせようとする。


主人公である永子は、いつも自分自身に問いかけている。「私は、お母さんのこと、好きなんだろうか、嫌いなんだろうか?」でもそれは、最後まで答えの出せない問いであり、お母さんという存在の影は、永子の人生につきまとい続ける。永子にとって初めて好きになった人、タロウくんまで、お母さんそっくりのひと。あれほどいやだと思っていた環境から抜け出したのに、気がつけばお母さんと同じようなことを言う人と付き合っている…それに気付いたときの、あの絶望と言ったら! そして、永子自身が母親になろうとするときも、「お母さんみたいな親に、絶対なりたくない!!」ともだえ苦しむ。やっぱりお母さんの呪縛がとけない。


世の中には親子の美談があまりに溢れているが、母からの愛は絶対的な真理や正義なわけじゃない。それはもしかしたら確かに愛には違いないのかも知れないけれど、その愛は時に家族や子どもを抑圧したり、苦しめたりして、愛とは伝わらないこともある。母子の関係にたったひとつの絶対的真理の関係性なんてないのだ。


それでも、この本を読んでいると、親子だから絶対仲良しなんてこともないし、しんどいときには距離を置いたっていいんだ、ということを子ども自身が理解して認めるのは、実はとっても大変な作業なのだ、ということをひしひしと感じた。「お母さんが嫌い」とただ言い切れないからこそ、しんどいし、つらい。

主人公であり、筆者である永子が最後に言っていることばは、「自分の味方でいよう」。その言葉を、母と子の関係に悩んでいる人、みんなに捧げたい。


Yahoo! JAPANニュース
あなただけじゃない! 毒親の“愛”に苦しむ子どもたち(ブックレビュー)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130403-00001926-davinci-ent

元記事はこちら。
ダヴィンチ電子ナビ
http://ddnavi.com/review/131559/

2013年4月5日

読書状況 読み終わった [2013年4月5日]
カテゴリ feminism

恋愛を中心に扱った映画が一般から受ける評価は、その恋愛にリアリティを感じることができるかだと思う。今回すごいと思ったのは、高良健吾に感じたリアリティだ。例えば最初の10分以内に、ヒロインの真知子にちゃんと誘って?と言われてしまうような欲望と行動の境目のなさ。田舎の甘やかされた坊ちゃんという背景や両親との関係の中で生まれて来ただろう彼の性格や、彼を取り巻く田舎の「悪」友たちとの関係。最後に大森さんが「何故お前だけ愛されるんだ?」と聞いたけれど、何故高良健吾の役に惹かれるか、それを分かった人にだけ、この映画自体の魅力が理解されると思う。

圧倒的に嵌り役と感じた高良健吾に対して、ヒロイン役の鈴木杏ちゃんには最初どうしても違和感があって、元々は違う女優さんに配役がされていたんじゃないかと思っていた。今までの役柄からも考えても女優鈴木杏は、もっと天真爛漫だったり、おとぼけだったり、純情で明るく振る舞う中に少し影を隠し持つようなイメージだったから。あまりシリアスな役やセクシーな役は似合わないと思ったし、正直最後まで、実際に彼女みたいなダンサーがいるとは思えなかった。身体付きや、顔つきも役のイメージからは外れているのだ。

けれど観進めるうちに、彼女がいることでこのストーリーの持つ掬いようのない感じや典型的とも言える堕落の過程を、陳腐でそれっぽい映画表現から救いだしたんじゃないかなと思った。もしかしたらもともとこういう効果を期待して杏ちゃんにしたか、もしくは彼女になったことで結果的にストーリーに厚みをもたらせることになったんじゃないかとすら思った。むしろ、イメージも顔も身体も明らかに役にはあっていないのに、最後までなりきって魅せた鈴木杏はすごいと思った。

映画としては、いくつか冗長と思える長回しが気になった。最初の杏ちゃんのダンスシーン(彼女のダンサーとしての演技を観客が精査する役割になってしまっていると思う)や初めてのベッドシーン(バックからの撮り方が長く、もう少し丁寧に優しく撮ってほしかった)など、ちょっと気になる部分があって、おそらくこの映画を批判する人はこういう部分でつまんない!杏ちゃん似合わない!と思ってしまうのではないか。できれば2時間でおさめたほうが、興行的にもよかったと思う。また、最後の音楽も微妙だった。

それでも良かったのは、熊野というロケーションの圧倒的な美しさや撮影された場所のセットがみなよく作り込まれていて見応えがあったこと。熊野での素晴らしい自然と町並みの間に作り込まれた世界と、てかてかした光の中の雑然とした歌舞伎町とのコントラストは見事だった。

とにかく理由も分からないまま誰かを愛してしまうことに迷いがでたら、もう一度観たいと思う。

2012年11月10日

読書状況 観終わった [2012年11月10日]
カテゴリ movies

全文掲載されている3本のノンフィクション(人物、事件、体験)を何度も読みながら、迫り上がってくるような情景とその余韻に浸った。ノンフィクションに取り組む際のテーマの決め方や姿勢、ノートの取り方まで、精神的・技術的なノウハウをこれでもかと詰まっている。それでも単なるテクニック本ではなく、この本でノンフィクションライターの上質なノンフィクションになっているのは、興味関心を持つところから、取材をし、ノンフィクションを完成させるまでの、野村さん(著者)の一貫して真摯な姿勢が浮き上がってくるからだろう。タイトルにも「調べる技術・書く技術」とあるが、テクニックを十分に学べるだけでなく、調べ、書くことの意味や魅力を感じて自分も「叫ぶ男」(本文144頁参照)になりたい、と強烈に感じさせられる本だった。

2012年10月23日

読書状況 読み終わった [2012年10月23日]
カテゴリ Something meaningful

もしこの本を読まなければ、サイパンに行って奇麗な海で泳ぎ、そして少しくたびれた感じのオフシーズンの観光地を見て買い物をして、ああ、なんだか少し物悲しいなあと思っただけに留まってしまったかもしれない。こうしてこの本を夢中になって読んだあとは、自然と出逢う人々の歴史や、彼らの親はどうしていたんだろう、この場所は戦争の前どんな様子だったんだろうか、戦後どんな変容を遂げてきたんだろう、と考えて旅するようになった。

時々出逢う日本人らしい名字を持つ人のそぶりや、言葉や、英語の発音を聞きながら、ものすごい重くて複雑な歴史を感じる。戦前から戦後の流れの中で、日本の統治下からアメリカの統治に代わり、サイパンの人たちもお店もそこにあるものたちも、戦前とは全く異なっているように見えて、でも必ず連続している歴史の中で構築されてきたものなのだ。

万歳クリフや玉砕などの有名な歴史的事実は知っていても、サイパンに戦争前どれくらいの人がいたのか、その人たちはどこから来てどんな生活をしていたのか、こんなに興味深く知ることができるとは思わなかった。

第一次世界大戦後、日本の委任統治領となったサイパンには、東北や沖縄、朝鮮半島などから多くの「日本人」「沖縄人」「朝鮮人」(本文ママ)がやってきたという。この本では、いくつかの家族の歴史を中心に、サイパンの中心部、ガラパン地域で繰り広げられた日本人街構築の様子や、戦争の中で彼らがどのような運命を生き延びたかが描かれている。

序章と後半で書かれていた収容所の中での様子は、濃密な家族の物語を読んだ後に知るとより深々と身に迫るものだった。
友軍(日本からの軍隊)がくることや日本の勝利を信じて最後までで逃げ続けた人が馬鹿を見るという台詞や、日本の敗戦のあと、今までの怨恨をはらすかのような現地のチャモロ人や「朝鮮人」の人々の反応、食料を奪い合い、「負け組」と「勝ち組」に分かれて殺し合う「日本人」。一方で、個人的つながりの中で、「日本人」「朝鮮人」など隔てなく、究極の場面でもお互いを助け合っていた様子。

戦後何十年も経て生まれた私は、あのとき最後まで逃げ続け、抵抗した人を「馬鹿」だとも思わなければ、洗脳されていて可哀想とも言えない。かといって、彼らを国のために身を捧げた英霊とあがめるのも何か違う気がする。早い段階で捕虜となって、見方によっては敵国であったアメリカ軍におもねっていた人々を卑怯だとも言えない。
あの時の行動にベストや正解などなく、皆が一生懸命必死で、そして今よりも圧倒的な物理的、情報的、精神的制約の中で、自分のとるべき道を探していたんだと思う。

この本を読んだら、自分はサイパンのことなんて何も知らなかったということを痛感した。
レイテ、マリアナ、ガダルカナル、ミッドウェー、パールハーバー、ラバウル・・・戦争のことを学んだときにでてきた、たくさんの聞き覚えのある太平洋の地名や島名のなかでも、私はこの本を通じてサイパンの歴史の一部分を知ったに過ぎない。でもこれでよく分かった。私はまだ戦争のことをまだ全然理解しきれないんだということと、そこに埋まっているたくさんの物語を知ると、その知った部分によって、自分だけの「歴史」が構築されるってことを。そしてたくさんのことを知れば知るほど、その「歴史」が豊かになるし、歴史は一筋じゃないってことを。

2012年10月8日

読書状況 読み終わった [2012年10月8日]
カテゴリ Something meaningful

この本のすごいところは、”「5万人の個性」に火をつけろ”という副題を見事に裏切り、個性に火をつけるような取組や記述が一切書かれていないことである。

以下はこの本のレビューというよりは、現役早大院生の私(事実早稲田在籍10年目)の私の個人的感想と見解である。

白井と言えば、100ハイの閉会式で、壇上にいた主催の精神高揚会とやっと大隈講堂に辿り着いた学生たちにいっきコールされ、ぶち切れて壇上を降りたことを思い出す。みんなは「奥島は良かった」と言った。

奥島が何故良かったか、と言えば、彼には度量があった(少なくとも学生の目には)。100ハイの閉会式ではみんなを褒め称え、早慶戦にも年中現れて、学生が「奥島ーーー!!」と呼び捨てで叫んでも手を挙げてニコニコ笑い、酒を差し出されればためらわずいつでも一気した。

白井前総長がいくら「教育の早稲田」を目指しても、彼の行った「面倒見のいい早稲田」を目指した教育改革は、いくつかを除いてあまりいい方向に向かっていないと思う。早稲田が国際教養学部とアジア太平洋学部という英語による教育を創設したのは、今となっては成功だったのではないか。。それぞれの学部・研究科のレベルは、内部・外部からの評価・評判ともに、上がっていると思う。

でもそれはあくまでも、集まり参じた学生+留学生の力。
勉強のできる子が集まり、英会話やらコンピュータースキルやら、フォローというなの後片付けをしてくれるTA制度やらを大事にする、部分的に妙に面倒見のいい、普通の一流大学、難関大学と変わらなくなった。

彼(白井はん)は、「チュートリアルイングリッシュ」と「テーマカレッジ」という2つの教育改革の素晴らしさを繰り返し記述し(それはもうしつこいくらい)、早大生の情報処理能力と語学力を向上する、というまるで専門学校のような使命と同時に、教養教育の重要性をとく。
「語学+コンピュータ」ってそれ、大学じゃなくてもできるでしょう。語学も、コンピュータも自助努力ですべきことで、まともに学生生活を送っていれば、どちらも必要。そのために「英会話学校」や「情報処理科目」をあんなにたくさん作る必要はない。高校じゃないんだから。

チュートリアルイングリッシュなんて、お金のかかる英会話学校を大学内に作り、それをいくつかの学部では必修化することで学生へ負担をかけずに英会話ごっこを楽しませるから、意欲のある学生が受講してがっかりする羽目になる。英語「で」学ぶならまだしも、何故大学で英語「を」学ぶ必要があるのか。

テーマカレッジも、確かに面白そうなのはあるが、数も少なく、ほとんど先生たちの「趣味」の領域。彼らの一番の専門分野を生かしたテーマではない。なにより現実志向の現代の学生にとっては「それやって何になるの?」というような「時代設定が古い・扱う地域や分野がマイナー」なテーマが多すぎる。

最後に、素晴らしい業績を残す早稲田の卒業生として、芥川賞作家などの名前を挙げているのだけど、間違いなく彼らは、面倒見のいい教育改革によって生まれた人材ではないし、ましてや「チュートリアルイングリッシュ」うや「テーマカレッジ」の産物でもない。
ほおっておいてもやる人間だから、業績を残したんだよ。


早稲田みたいに大型の大学ができることなんて限られている。
学部レベルでの大学の役割は、種まきみたいなものだと思う。
存分に種まきをしたら、水を用意しておけばよい。
みんな水を取りに来て、自分で肥しを見つけて、花を咲かせたり実をつけたりする。

最近の早稲田は、肥料ばっかり与えて、しっかりプランターの中に生えることばかり期待しているんじゃないの。
それでプランターのそとの平野で、大きな花を咲かせた人を、「さすが早稲田生だ!」なんて...

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2012年2月12日

読書状況 読み終わった [2012年2月12日]
カテゴリ Higher Education Mafia

お金のため方、使い方、稼ぎ方、増やし方について、基本的な考え方のアイデアをまとめた本。大変良く整理されているが、家計を管理している人なら誰でもある程度知っている内容なのだろうと思う。

私自身は、家計簿などをつけるのが嫌い、基本的にすべてクレジットの一括で買う、高給では決してないが自分一人を食わせるには十分な給料と時間があってお金に不自由はしていないという状況にあり、お金の管理に関してはかなり適当だったので、この本からいくつかアイデアを盗んで実行することにした。

私が有効だと思ったアイデアは以下の3点。

① 収入を2:6:2の三等分する。
2割は貯金、6割を生活費、2割を自己投資にする。
2割の貯金は、毎月自動積み立て定期などにする。
私は今自分の奨学金の返済を毎月10万(!)自動積み立て定期にしているので、それが終わったら始める予定。

② 支出の内訳をつかむための10つのボックス
家計簿をつけるのは無理だけれど、買ったもののレシートを取っておいて、あらかじめ10つの項目に分けたボックス(私は10ポケットついているクリアファイルを使用)に入れていき、月末に大まかな計算(100円単位は四捨五入)する。大まかなお金の流れが見えるし、どこをコントロールすべきかがわかりそう。

③ 定期的にお金で自分が役立てるものを作る。
できれば国内で、できれば震災に関わることで、自分がこれから先定期的に支援できること(お金+α)を見つけて続けること。

②は本日早速作り、今は①でどこに定期預金を作るのが有効か、③ではどんなことができるか、(とある学会で自分が関わっているプロジェクトも含めて)考え中です。

2012年1月14日

読書状況 読み終わった [2012年1月14日]
カテゴリ Input

巻頭の小熊英二との対談は56ページに渡る超大作。上野さんの辛辣な『1968』批判や私的な質問をするりと交わすも出てくるが、小熊さんの素晴らしい上野千鶴子の思想まとめ手腕は、さすが敏腕編集者だっただけあるなあと思った。

上野さんと小熊さんが鶴見俊輔さんにインタビューする形の「戦争が遺したもの」という本を、私は付箋だらけにしてすり切れるほど読んでいて、そのときから鶴見俊輔さんの発することばの虜だけれど、この特集の中でたった3ページだけ寄稿してる鶴見さんの文章は、上野千鶴子という研究者の的確な位置把握と、敬愛の念が現れている気がした。

他にも辛淑玉さんの一稿は、鋭くて痛快な(そしてこれに嫌悪感を抱く「男性」や「ウヨク」のひとたちを簡単に想像できそうな)コメントにも多いに笑わせてもらった。

まだすべて読み切れていないが、これほど多くの人が上野千鶴子や、彼女の思想や生きた時代について、こんなにも真剣に熱く語れるということが、上野さんが思想界にもたらしたインパクトの大きさを物語っている気がする。思想家として、社会活動家として、教育者として、そして等身大の女としての上野千鶴子に迫る、素敵な特集だった。

2012年9月16日

読書状況 読み終わった [2012年9月16日]
カテゴリ feminism

女が可愛い思われる、男に大事にされる素質のひとつに、前向きであることや、小さなことで素直に嬉しさを表現したり、(そして全力で)ドジなことをするっていうことがあると思う。男の人は、その様子を愛おしいと思うのだろう。

女のなかには、その「ちょっとの足りなさ」や「些細なことで幸せになる」を意識的に演出する人も決して少なくないとおもうのだけど、国際恋愛をしてると、否応無しにその「ちょっと足りない」部分が出てくる。言葉の不十分さ、文化的コンテクストへの相互理解の不足があって、そこで生じた齟齬が、好き同士だと「ちょっと足りない魅力・可愛さ」として変換されたりするのだ。

些細なことで幸せになれるのは、それを些細だと思うか、大きなことだと思うか、っていう差異があるから。
では何故「こいつ、些細なことで幸せになってるなー(ういやつめ)」って思うかというと、その人にとってはそれは既に存在して当たり前だったり、手に入れてしまったものだから。国際恋愛の場合、その違いは自分が生まれた社会的バックグラウンドから生まれて来たりする。そこには経済力の差異があり、文化的差異があり、政治的自由の差異があり、市民意識の差異がある。その差異を差異ではなく、優越や格差で捉えてしまう時、差別の問題が上昇してくるのだろう。

このマンガに出てくる月(ゆえ)さんは、なんて女として魅力的に描かれているか。
あくまでも男目線、というか井上さん目線で「魅力的」なので、人によっては日本人からみた「ちょっと足りなさ」などの点で「中国人嫁をバカにしている」と感じる人もいるのだろう。
(例えば、「中国嫁日記」の差別性が自覚できない奴は差別主義者!http://togetter.com/li/166146

誰がなんといおうと、井上さんが月さんをとても大事にしていて、愛している感じが紙面を通じて伝わってくるので、読後感は非常に良いし、月さんの言動を見ていても、きっと素敵な人なんだろうなと思う。
ただ私もすごく権力構造には敏感で、とにかく本人たちが幸せであればいいじゃない!という考え方にはどうしてもなじめない。何故この二人が惹かれ合ったのか、魅力的だと感じるのは何故なのかを深読みしようとしてしまう。そこに私は自分のきたなさを感じたりもする。一方で、このマンガを夫婦愛の物語の中に閉じ込めてしまうのは、やはりもったいないという気がする。

上記にあるような批判をしたり、「中国嫁」に対して中国の女の人に対するリスペクトが足りないと感じてしまう人がいるのならば、この漫画を槍玉にあげるより、そう思う自分の内面に向きあったほうがいいと思う。このマンガを読んでちょっとひっかかって感じることは、国際恋愛や国際交流をしている人に限らず、きっと多くの人が恋愛する上でぶつかる本質的な問題であると思うから。

女として、また中国人・韓国人・台湾人など、海外の男性との恋愛が多かった国際恋愛経験者として、いろいろと感じるところがあった。また時をおいてもう一度読み直してみたいマンガのひとつだった。

2011年9月4日

読書状況 読み終わった [2011年9月4日]
カテゴリ Novels

「インターネットがあり、英語さえできればもはや国家など関係がない。」中国におけるインターネット利用者の数(5億人!)とそのメディアとしての重要性についての部分。また加藤定義の「暇人」と彼らの分析をしている部分がとても面白かった。

何人かがアマゾンのレビューで書いているように、若干筆者の俺俺、という自我が箇所箇所で見えて来て、すこしざらざらする部分はある。ただ、それも若いからまっすぐすぎて、そのひたむきさとがつがつした感じの一方で、一人前の大人の男として発信していくというが全面に出てしまっていて、分かりやすい“貧困からの成功”などのサクセスストーリーを求めている人たちにとっては、彼の経験談はあまりに隙がなさすぎて気に入らないのだろう。私は割と素直に、中国の懐の中に入り込んだ人の意見として非常に面白く読んだ。フリーライターの「構成」の人が入ってくれているようで(つまり加藤本人がカタカタ文章をタイピングしたわけではないのだろう)、文章も非常に分かりやすくてすらすらと2時間くらいで読めた。

2011年9月2日

読書状況 読み終わった [2011年9月2日]
カテゴリ Input

名作すぎて、5回くらい震えて1回号泣した。号泣したのは、北原さんとこの間亡くなった飯島愛さんの関わりについて書かれた部分。それは単に自殺してしまった飯島愛さんへのセンチメンタルな共感とかじゃなくて、セックスに対する女の悲しい思いを飯島さんが象徴していたように読み取った北原さんの、セックスに纏わる女の悲しさに対する寄り添い方に、ものすごく心打たれたから。


私は筆者の北原みのりさんより10つ年下で、かつてはオリーブとかJAPANとかを購読しているサブカル女子ではあったが、アンアンという雑誌については今までほとんど手に取ったことがなかったし、アンアンはいつもセックスや「どうやったらもてるのか?」についてばかり書いてあるつまらないマニュアル雑誌、というイメージしかもっていなかった。


そんな私はついこの間、生まれて初めてアンアンを購入した。
私の恋人が会社の人たちと一緒に、「”脈あり”かと思ったら全然違った!思わせぶりな男の心理とは」という企画で紙面に載っていたからだ。生まれて初めてかぶりつくように読んだアンアンはとても「興味深く」て思わず、アンアンすごいなあ、とツイッターでも呟いた。おもしろかったのは、自分が知っている人の意見を紙面で読んだってこと以上に、ここまで女に「もてること」や「愛されること」を求める雑誌と、それを詠んでいるこの社会の女たちってなんなんだろう?と思ったのだ。



北原さんも後半で指摘しているような「愛される女になることが大事」イデオロギーや愛あるセックス至上主義。

そして愛される女になるためには、いくつものマニュアルが存在する。複雑で(でもすごく単純なところもある)プライドが高く、地雷の多い男の子たちが、肉食系・草食系・文化系など様々なカテゴリーに分けられていて、それぞれに対してより効果的なアプローチがあり、彼らの求める女の子像がこれでもかというくらい詳細に提示される。やれこういう仕草にきゅんとくるだの、こういう状況ではこんな言葉をかけてほしいだの。



アンアンから私が感じた事は、読んでる女の子たちが全然主体的になれていないっていうこと。希求する先が自分を中心とした憧れの世界じゃない。いつも参照枠があって、そこに照らし合わせながら自分の立ち位置を確認したり、男に通用する魅力を評価される世界。



私という女が中心で、女目線で書かれていたセックスから、男に愛され、認めてもらうためのセックスへ。

この本(北原みのり『アンアンのセックスできれいになれた?』)では、アンアンという雑誌の分析を通して、日本で女にとっての性のあり方やセックスがどういう風に変わっていったのかを分析し、提示している。







セックスは愛とつながるけれど、愛とつながらないこともある。

一時期センセーショナルな事件だった東電OL殺人事件の被害者は、殺されたのに「売春していたから」騒がれ、死んだあとも社会的にレイプされた。

愛とつながらないセックスをする女の子はビッチって言われる。男は言われないのに。



愛とつながらないことをすごく恐れている女の子たちがいて、それは身体にリスクがあるから。

怖いのは、妊娠したらどうしよう、ということ。それは男は絶対持つことのない(そして絶対にわからない)怖さだ。

生命を生み出すという奇跡をおこして、場合によってはそれを殺してしまわなければいけないということが自分の内部でおこるのは、はっきりいって半端ない。もし半端なくなんかなくて、堕ろしてもへっちゃら!っていう女の子がいるとしたら、それは自分が傷つかないように麻痺させているからだ。


愛あるセックス至上主義や「愛されるオンナになることが大事」イデオロギ...

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2011年9月2日

読書状況 読み終わった [2011年9月2日]
カテゴリ Something meaningful

研究とも関連して興味あるテーマなので面白く読んだ。
ヨーロッパにおける大学の成り立ち(1章)から国民国家と大学の再生(2章)、舞台を日本にうつして帝国における大学(3章)、戦後日本の大学改革(4章)という今までの、最後の章では「それでも、大学が必要だ」とのタイトルで今後の大学のあり方に関する提言が書かれている。

今後の日本に置ける大学の形を考える時、既存の大学概念の中で中世の都市ネットワークを基盤にしたポスト中世的大学モデルが参考になるのではないかと提言している。その理由として、1、世界で多数の大学が国境を越えて都市間で密接に結びついていること、2、高等教育のアメリカ化の中で
学術言語としての英語の世界化がおきており、北東アジアなどの近隣諸国の学生と知的交流をすすめるのにも英語でのコミュニケーション能力が必須であり、それを単純な英語支配と捉えず共通言語以上の可能性を持ったものとして認識することが重要であること、3、今後人類が取り組むべき課題はすでに国民国家の枠組みを越えており、ナショナルな認識の地平を超えて地球史的視座から人類的課題に取り組む専門人材を社会に提供することが大学に求められていること、などを挙げている。(pp.240-243)

面白いのだが、取り立てて目新しいものではない。
それよりも、未来の完全なインターネット社会で大学が生き残ることができるのか、との懸念をぶっこんでたことには、その懸念は理解できるもの、もう少し大学がキャンパスをもち、人と人との直接的な交流が生まれることの意義を聞きたかったなあと思う。最近のキャンパスの国際化や、地域連携などの点についても触れてほしかった。そして、すべての大学教員がマイケル・サンデルのような「白熱」議論ができるわけじゃない、という部分には素直に笑ってしまった。

2011年9月5日

読書状況 読み終わった [2011年9月5日]
カテゴリ Higher Education Mafia

この世の中を生きていく中で英語という要素が入って来た時、それとどう共存していくか、という問いに多くの著名人が答えている。英語についてだけでなく、英語ということばを取り巻く文化や社会や世界のしくみについても触れられていて、興味深かった。(すべてインタビュー形式のため、抜粋は文体を変えてあります。)


-(社会科学や人文科学の場合、発表は)言語的なパフォーマンスによるセリバリー能力の差によるところが大きい(上野千鶴子)
→同意。後半で明石康さんや本川先生など理系の先生たちが言っていること(内容があれば、言葉は形にすぎない)と矛盾しているが、私の経験上社会科学の学会発表では言語的パフォーマンスはものすごく大事で、それで内容の面白さに差がつく。

- 相手を正面切って批判しない。できるだけ婉曲に、ニュアンスや皮肉などを上手くつかい、もし相手が怒り心頭に発したら、相手が過剰反応して一人相撲をとっているように見せることで、相手の上に立つようにする(明石康)
→ツイッターにおける闘争でも同じ(謎微笑)

- いつも文系の人たちが学校英語を教えているから問題。理系の英語の方が分かりやすい(本川達雄)
→開眼。これは考えたことがなかった。実際英語の歌や詩などを教科書で読んだりしていたけれど、今思えばなぜそんな一番難しいものをはじめにやっていたんだろうと思う。

-英語で論文を書く以上、西洋の論理に従う素振りを見せなければならない。しかし実際には多様な有象無象のものがあり、違った世界観がある。一番創造的なことは、自分で土俵をつくること(本川達雄)
- 英語だけで育った人の視野や価値観の多様性には限界がある(松沢哲郎)
- 私は英語をうまくしゃべりたいと思った事がない。とにかく「通じたい」(福島孝徳)
- 英語は「モノと言葉」の連動、日本語は「心と言葉」の連動が強い(養老孟司)
- スピークアウトする、丁寧に線を追って説明し尽くす、向かっていく精神。(竹中平蔵)


インタビューの中で、一番多くの人が触れていて印象に残ったのは、「何かをするための英語」、つまり手段としての英語が大事だということ。

- こどもたちがそれぞれ興味のある世界があり、将来こうなりたいという夢がある中で、英語教育はそこから出発してそこから英語の必要性を導いていく必要がある(浅野史郎)
- なまりのない英語には魅力がない。勝負は内容でやるのだから、表現は自分なりの英語でやる。(明石康)
- 英語を学習する動機も、何か情熱的に知りたいこと、語りたいことが自分の中にあり、同じようなことを世界の人から学びとるために外国語を学べばいい。ただ楽しく「英会話」ができればいいとか
英語力をつけることだけを目標として英語をする人たちはそれだけではさびしいと思う(明石康)
- 「仕事ができる英語」が大事で、極端なことを言えば日常会話などできなくてもよい(坂東眞理子)

この人たちを始め、おそらく物心ついて大分たってから、後天的に英語を学びはじめ、英語を使って仕事をしたりこの世界で戦う人が直面している問題・・・「英語の壁」は、どこかの時点で乗り越えるポイントがくる。私個人の経験を照らし合わせてみても、一番納得したのは、最後のあとがきにあった。

英語の壁を越える事は、「多少耳がなれた」というのと、「英語で自分の気持ちを100%伝えるのは一生無理だということをどこかの時点で悟った」、ということ。

これはきっと、ある程度もがいて努力したから言えることばではあるけれど、壁はいつも自分が設定しているものだから、いつかはそう言って納得できるときがきたなら、そのとき英語は自分のものになってるんだろうと思う。

これだけ有名人がでているのに、アマゾンでバー...

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2011年7月22日

読書状況 読み終わった [2011年7月22日]
カテゴリ Language for freedom

東大駒場の本屋さんで英語系の本を見ていたら、寺沢さんが試すような目で「この本面白いですよ」と言ったので、これはきっと色々突っ込みどころのある本なんだろうと思って読み始めた。

英語に関する言説は、どれもこれも偏っていて面白い。
英語について語る事は、あたかも自分のアイデンティティや生き方に抵触するようで、みんな自分の考え方や向き合い方を正当化しようと必死だ。

もう一つ、特に日本語で書かれた多言語政策や英語関連の文献を読んでいて時々感じるのが、英語の支配に異議を唱える人の多くが、なぜかフランス語を中心としたもう一つの大言語を専攻していたり、ヨーロッパの専門家である事が多いという事である。

この本の筆者も、相当なフランス文化・フランス語(を代表とする「伝統ある」ヨーロッパ)贔屓の方らしく、
この本のタイトルである「英語を学べばバカになる」、というのは、「英語を学んでアメリカ風の考え方に染まっていくやつはバカだ」ということを言いたいのではないかと思えてくる。

英語はアメリカ帝国の繁栄によって支えられているもので、そのアメリカはここ数十年の間には没落することは必死だから、今英語に盲従しても意味がない、ということだけでなく、アメリカの民主主義のあり方は平等と同質の混同であるとし、そういう「規格同調主義」はヨーロッパ的視点からみると耐え難い、とか、奇妙である、と断言している。


英語を批判的に論じる中で、アメリカ型の民主主義をこてんぱんにやりこめ、一方でヨーロッパ型の民主主義のあり方を賛美していることが、英語の学びとどのような関係性があるのか?

筆者の前提では、英語を学ぶことは「アメリカ社会に魅力を感じ」ているからで、英語公用語論は「アメリカという特殊世界のコミュニティー主義が国境をまたいで全域化すること」(p.136)としているが、果たしてこれは本当だろうか?アメリカ式のコミュニティー主義が世界標準であると考える事を批判したとしても、そのようなアメリカ的なものへの信仰をもとに英語を学んでいる人間が殆どだとは考えるのはあまりに安易だと思うのである。

同時に、英語を「国際共通語や世界語」といった「特別な存在」だと考えてしまうことは、「英語が世界標準だ」と考えることに結びつき、「非常に危険である」、としているが(p.137)、彼はその世界基準がアメリカであるということをそもそもの根底で前提にしていて、そのアンチテーゼとしてヨーロッパ(特にフランス)でのあり方を述べるのだ。

「国際共通語」や「世界語」、「世界標準」という概念の裏に常にアメリカを嗅ぎ取ってしまうのは、残念な言語の捉え方だ。「World Englishes」ではないが、世界にはアメリカやイギリスといった英語を第一言語や公用語として使っている国もあれば、そのような特定の国に属さない、国境を越えた国際語としての英語を創出しようとする動きもでてきており、実際にアメリカやイギリスという英語ネイティブ国家から離れたところで運用されている英語も世界中に出て来ている。インドやシンガポールといったアジアで英語を公用語のひとつにしている国のみならず、例えば高等教育機関における英語による国際化プログラムや、多国籍企業の社内など、国内の限られた場所に存在するが、多種多様な人々の集まる場所も数多く出現している。

もちろんそのような場においても、アメリカ的志向やアメリカ社会への従属性を批判的に検証する姿勢は必要だが、英語=アメリカ社会の創出した世界水準と決定し前提に置いてしまう事は、あまりに時代遅れだと思うのである。

近年になり、人々の国境を越えた移動が増加し、一つの国家に属さない様々なアイデンティティや言語状況を持った人々が多く生まれてくる中で、言語と国家の...

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2011年5月12日

読書状況 読み終わった [2011年5月12日]
カテゴリ Language for freedom

タイの、性同一性障害をもつムエタイ選手の成長を描いた映画。
時たま映画の途中で、よくわからない幻想が挿入されるのはひっかかったけど、家族や仲間とのふれあいが描かれている部分は、タイという社会的コンテクストを理解する上でも興味深かった。
最後のめでたしめでたし的な終わり方はもったいなかった。

2011年2月8日

読書状況 観終わった [2011年2月8日]
カテゴリ movies

香港版、日本版の予告編を観たが、この映画はプロモーション方法を過ったな、と思う。青春群像映画、とあるけれど、トレーラーから伝わってくるようなロックではじける青春!という映画では全くないのだ。アマゾンのレビューでは散々な評価を受けていたが、そういう青春映画的なイメージを持って観たらきっとがっかりするだろう。私は大陸で公開が禁じられた作品だとパッケージに書いてあったので、社会派映画で、その危うい社会の描写を楽しもうと思う気で観ていたので、とても楽しめた。

ときどきカメラがとある登場人物の人の目に映る映像になること、コーン、犬、豆というモチーフを使って、最後の30分くらいでひとつひとつ回収しているところ、など、映画の技法としても、シンプルだけどちゃんと工夫されて、シーンのひとつひとつが印象に残るように作られているなあと思った。

社会を映すものとして、香港から来たダニエル・ウーを揶揄する北京の人たちや「人民商店」の人、若者のお酒の飲み方に顔をしかめる老夫婦、北京と田舎の対比とそれをつなぐ列車や、「どさ回り」の車という浮遊するものの描写。
そして外で寝るシーンがたくさんある。
普通の道ばたで目覚めるシーンは本当に素敵。

ほかにも例えば北京の街の様子やバンドの旅行の様子をバックに「インターナショナル」が流れる部分とか、最高。
そしてよく聴いてみてほしいのは、映画の中でバンドの皆が歌っている歌詞。相当きてるよ。

2011年2月10日

読書状況 観終わった [2011年2月10日]
カテゴリ movies

当然だけれど、現地に足をつけて取材をしていればこそ分かる事実もたくさんある一方で、知れば知るほど簡単に何が真実で何が真実ではないか分からないことがたくさんでてくる。
当初は聖戦だったというチェチェン独立派の戦いは、時間が経ち、多くの人が関わるにつれ、異なった聖戦の解釈や戦いのアプローチを持つ人々が関わる紛争に変容している。

この本の中で常岡さんは、命がけでチェチェン独立派の部隊に従軍している、友人や助けてくれた協力者などもたくさんいるので、そういう意味ではとても個人的な感情のこもった描写はしているものの、チェチェン独立派を美化したり「英雄」視しているような内容はいっさいない。実際、腐敗したチェチェン内部の人々や様子についても詳細に描写されている。

チェチェンの現実は、おそらくきっとどの現実もそうなのだろうけれど、一面的にまとめられないからこそ終わらない紛争が続いているのだと思う。どの人々や組織の思惑も、行動も一枚岩ではない。

アマゾンの批評を見て、ほとんどが好意的なものなのだが、時々この本に載っている情報の正確さに疑念を呈したり、もっとより深い「分析」を求めるものが散見されたのだが、そういう人たちは暖かいところから分かりやすい計算式を求め過ぎだと思った。



争いにはフレームワークなんてないし、答えなんてないのだ。
真実は至る所に転がっていて、その為に正義をかけて戦う人がいる中で、そこに付随してくる政治的思惑や欲望みたいなものが真実を見えにくくし、だからこそ、分かりやすい計算式では切り取れなかった真実を提示するために、こういうルポがあるのだと思いたい。それをどう自分の頭の中で整理するかは、読者がもっと頭を使って考えないといけない。

チェチェン側からの記事を書く人はとても少ないのだ。
そしてその数少ない人は命の危険に晒されている。
実際にそうやってたくさんの人が死んでいるのだから、そういう人たちの書いたものや撮ったものに対して、真剣に向き合うべきだと思う。

「ひと、点描」という章は、この場所で個人としてたくさんの人と関わり、そこで活動して来た常岡さんならではの人々の描写が読めて、とても興味深く読んだ。

ちなみに私は個人的に昔から常岡さんを知っているので、当然彼に対する感情は今回の人質事件で知っただけの人よりは親近感もあれば、贔屓に近い感情もある。講演会での彼を見れば、会場からの質問にはどんな質問でも真剣にいちいち頷きながら聞き、私がいらない寝袋があると言えば、バイクで取りにいきます、というくらい、奢らなくて変なかっこつけをしない等身大の人なのだ。そんな常岡さんのやったようなことをできる人間なんて、この日本にはそうそういないと思うから、私は好意的になる。

ジャーナリストのあり方や取材方法にどんな一家言を持っている人でも、人質の事件の際に全く興味を覚えなかった人でも、この本は読むべき本だ。

私はチェチェンのことについては、教科書的な紛争の歴史や、現在争いが泥沼化しているということと、ロシア側の動きが胡散臭い、ということ以外、詳しいことは何も知らなかった。この本を読んで、自分が今まで言葉だけで捉えていたチェチェンの様子が、すこしイメージ化された。

チェチェンのことに関して、無知で無関心あるのは罪だと思った。だって、ロシアはこの国にとって遠そうでとても近い国であり、私たちが向き合っているロシアという国は、チェチェン問題を抱えるロシアなのだから。

2011年1月29日

読書状況 読み終わった [2011年1月29日]
カテゴリ Input
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