横浜だかどこからのよくウソをつく転校生、太郎左衛門。彼に何度も騙された主人公たちだが、最後には切羽詰まった場面では人間ウソはつかない、分かり合えると確信する。話自体より、めくらを演じる太郎の姉から感じられる独特の迫力や、太郎の左右の眼の大きさから全く違う二面性を一人の中に見出す少年の眼力に文才を感じた。

2015年11月16日

 自信が持てない。真面目に生き、ひそかに読書などすらしている。努力し、結果を出している。しかしそれは私に自信を与えるどころか、一層それを奪っていく。
 自信が無いことの原因を、社会に転嫁するようなことはしない。この「自信の無さ」に向き合い、卑屈の克服ではなく、卑屈をあるがまま肯定することで、今までにない自己認識・自己肯定・社会の好転等 が得られることを記念している。
 読んだときは誌的でステキ、自分の自信の無さもその肯定から発展の土壌になるかと考えたが、意味を考えるにイマイチしっくりこなくなってしまった…
 結局、人より少しだけ社会的に成功している自分が自己肯定を持てない自己肯定をするため、または自己肯定を安易にしてしまうような他人を嘲る意図が無いとは言い切れないのではないかな、と思う。

2015年11月16日

読書状況 読み終わった [2015年11月16日]

人の思いをいつまでもとどめておくための象徴として用いられる石。確かに、石の建物や墓、それに像などははるか昔のものが残っている。しかし、当然それらも悠久のものではない。例えば魏(晋)のヨウコやドヨの様に死後の名声を気にして石碑を立てる者もいが、それは300年もすれば文字もなくなり、苔も生えて伝えるものもいなくなってしまう。彼らを現代にまで伝えているのは石などではなくひとえにその業績によるものである。

ヨウコは晋の武将で、晋と呉の国境を守った。晋の版図を拡大させただけでなく、敵である呉の武将リクコウ(あのリクソンの息子)や呉の領民と信頼を築いた清廉潔白な人物として知られる。ドヨも同じく晋の武将で、呉を降伏させた功績を持つ。その進軍から「破竹の勢い」の語源となった。文化人でもあり、春秋の左伝の解釈書は現在でも使われている。子孫に杜甫がいるとされる(これはうろ覚え)。

彼らの様な人をたたえる石碑やその墓でさえその行方が知れない。しかし、それは土地の管理が難しく、災害を収めるすべを持たなかった昔だから。現代では墓標や碑はいつまでも残るだろう。それは逆に、石のみ残ってその人のことを誰も知らない状況を生む。石は、なくなるより残っていた方がみっともない気がしてくる。自分で建てた石ではなく残した業績を誰かに評価され、300年先も誰かが自分に思いを馳せてくれるのがカッコいい

2015年1月7日

ネタバレ
読書状況 読み終わった [2015年1月7日]
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