神聖ローマ帝国 (講談社現代新書)

3.66
  • (35)
  • (63)
  • (78)
  • (5)
  • (3)
本棚登録 : 564
レビュー : 60
著者 :
サイトムさん 歴史   読み終わった 

菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社現代新書,2003年

 ルターがケンカをうったのは、「神聖ローマ帝国」七選帝侯の筆頭マインツ主教だし、中国にきたアダム・シャル・フォン・ベルは選帝侯の住むケルンの生まれなのだが、どうも、この「神聖ローマ帝国」というのがよく分からないので、積ん読だった、講談社現代新書『神聖ローマ帝国』を読み出した。
 ローマ帝国滅亡後(476年)、カール大帝(=シャルル・マーニュ)によって、800年、「ローマ帝国」(西ローマ帝国)が復活するが、843年には「ウェルダン条約」で帝国が三分割、911年には東フランク断絶、フランケン公コンラート1世をへて、919年、ザクセン公ハインリッヒ1世(狩猟王)がドイツ王となり、「ザクセン朝」が始まる。 962年にはオットー1世が教皇より戴冠し、「帝国」と称する。
 1024年、ザクセン朝断絶。 フランケン公コンラート2世がドイツ王になり、「ザリエリ朝」がはじまり、「ローマ帝国」と称する。1076年に教皇と皇帝の叙任権闘争があり、「カノッサの恥辱」やら恥をかかされたハインリッヒ4世がドイツ司教をたきつけて、対立教皇を擁立するやらの事件がおきて、1125年、「ザリエリ朝」断絶する。
 ズップリンゲンベルク家のロタール三世をへて、1137年、コンラート三世によって「シュタウフェン朝」が始まる。1152年、フリードリヒ1世(赤髭王・バルバロッサ)が即位、ミラノを攻撃し、ハインリッヒ獅子公などドイツ諸侯も潰した。バルバロッサは教皇が嫌いだったらしく、俗界の皇帝権力だって神授であるといい、「神聖帝国」と名のった。1190年、第三回十字軍の遠征中にバルバロッサは溺死する。ハインリッヒ6世をへて、1215年、「玉座に座った最初の近代人」といわれるフリードリッヒ2世が即位、教皇から十字軍に行けとせっつかれてもノロノロかわして、出発はしたけど、アホらしかったのか病気で帰還したら、グレゴリウスから破門されてしまった。破門のまま、アイユーブ朝のスルタン、アル・カーミルと交渉して、1229年、一兵も使わず、エルサレムを統治することになる。このフリードリッヒ2世は、シチリアに生まれ、英才教育をうけ、六カ国語を話し、アラビア語も堪能だったそうだ。ドイツ王の在位期間は35年だが、ドイツに住んだのは8年とのこと、ほとんどイタリアで過ごした。晩年は息子に裏切られる。破門なんてアホくさいと本人は思っていたらしいが、まわりはもっと純朴だったらしい。
 1250年、フリードリッヒ2世が没し、「ザクセン朝」「ザリエリ朝」「シュタウフェン朝」とつづいた「三王朝時代」が終わり、「大空位時代」になる。1254年、ホラント伯ウィレムが名前だけはかっこよくしようと「神聖ローマ帝国」の呼称を用いるようになった。フリードリッヒ2世はドイツをローマ帝国における「属州」扱いにし、分割して相互牽制させようとし、教会領を味方にするべく「聖界諸侯との協約」(1220年)なども発していたから、ドイツ・イタリアは始末に悪いほど分裂していた。教会領も野盗どもに襲撃される有様だったから、ローマ教皇が「自分たちで王を決めないなら、おれが決める」といいだした。七選帝侯がいつできたのかはよく分からないらしいが、マインツ大司教・トリーア大司教・ケルン大司教・ライン宮仲伯・ザクセン公・ブランデンブルク辺境伯・ボヘミヤ王らが王を決めることになる。しかし、それぞれが相手の強大化を嫌ったので、傀儡を建てようということで、1273年、スイスの片隅の伯爵ルドルフ・フォン・ハプスブルクを立てることになる。ハプスブルグは秀吉のような人で、義理人情と心遣いで出世したらしい。もっとも、ボヘミヤ王だけは、こんな小物の下につけるかと反発し、1278年、マルヒフェルトの戦いで、ルドルフ1世(ハプスブルク)とボヘミヤ王オタカルが激突する。圧倒的な兵力差だったらしいが、当時は「伏兵」という概念がなく、50人程度の伏兵によって、ボヘミヤ側は総崩れとなり、ボヘミヤ王までも戦死する羽目になった。ここに、ハプスブルク家の躍進がはじまる。
 ルドルフの死後、選帝侯はハプスブルク家の強大化をきらい、ドイツ王の地位をナッサウ家に与える。しかし、ナッサウ家の新王アドルフが愚鈍だったので廃位され、ルドルフの長男アルプレヒト一世が王位につく。アルプレヒトは英邁だったが、地元スイスの統治が苛烈でけっきょく弟に暗殺される。ちなみに「ウイリアム・テル」(シラー)が描いているのはアルプレヒトの苛政だそうだ。アルプレヒトの後、選帝侯らが選んだのは、ルクセンブルク家のハインリッヒ七世である。ルクセンブルク家はボヘミヤ王にもなっていた。1310年にローマで戴冠をするが、1309年にはフランスによる「アヴィニョン捕囚」があり、教皇庁もフランスにあった。フランスは皇帝位をドイツから奪取しようとしていたのである。ハインリッヒ七世はシチリア軍が駐屯するローマで枢機卿により戴冠された。しかし、ハインリッヒ七世が謎の死をとげる。そして、バイエルン公ルードヴィッヒと、ハプスブルグのフリードリッヒ美王が争い、ルードヴィッヒ(ヴィステルバッハ家)が勝つ。ルードヴィッヒ四世は皇帝の権力は神の代理人である教皇からではなく、神から直接授けられているとし、1328年ローマで市民からの推挙という形で戴冠する。そして、フランスにいる教皇ヨハネス二十二世を廃位しニコラウス五世を対立教皇にたてる。しかし、ニコラウス五世はローマから逃げ、アヴィニョンに保護をもとめた。その後、教皇クレメンス六世により、ルードヴィッヒ四世は破門される。このころ、ハインリッヒ七世の孫、カール四世は祖父の暗殺を画策したかもしれないフランス宮廷で育てられていた。父のヨハンがヴィステルバッハ憎しでフランスに接近したのである。1346年、選帝侯への工作がきいて、カールがドイツ王となる。
 ルクセンブルク家(ボヘミア王)のカール四世は、はじめ「坊主王」とよばれた。教皇に従い、ルードヴィッヒ四世の行った政策の無効とし、皇帝即位は教皇の裁可が必要とし、帝国とフランスの係争には教皇を仲裁にたてること、シチリアに教皇の宗主権を認めることなどを宣言した。1347年、カール四世はローマで戴冠するが、「代金をうけとる商人」のようだといわれる。カール四世は屈辱に耐え、皇帝となると「坊主王」の仮面をぬぎすて、1356年「金印勅書」を発布する。この勅書は帝国議会で承認される。神聖ローマ皇帝の選挙規定であり、帝国議会の法整備である。ここで正式に七選帝侯が定められ、選帝侯位の長子単独相続、国王選挙の結果に従わない選帝侯の廃位、私闘の禁止などがうたわれている。選帝侯には特権が与えられた。マインツは帝国大宰相、トリーアはブルゴーニュ王国大宰相、ケルンはイタリア王国大宰相、ボヘミアは献酌侍従長(酒宴のときに最初の杯を皇帝にわたす世俗選帝侯の筆頭)である。また、選帝侯には自領で貨幣を鋳造することもできた。要するに、カール四世は戦乱にあけくれていたドイツを選帝侯を柱に整理したのである。
 1359年、ハプスブルク家のルドルフ四世(建設公)が8つの称号を書いた偽書をもって、帝国にあらわれる。最後のひとつは「プファルツ大公」というもので、「大公」というのはそれまでなかった官名であった。司教の上の大司教から発想したらしいが、ルドルフ四世はこの大公家は自領で爵位を授ける特権があると主張した。ペトラルカがこの文書の鑑定にあたったが、七通の特許状のうち、二通はカエサルと皇帝ネロのもので、オーストリアが形もないころのもので噴飯ものだったが、この「おおうつけ」に脅威を感じたカールは大公家詐称をうやうむに付した。これがやがて帝国議会の規程になり、オーストリア・ハブスブルク家は大公家になっていく。カール四世相手に大芝居をうったルドルフ四世は26歳で死去。
 その後、1376年、金印勅書に反し、シュヴァーベン都市同盟が成立、諸侯と都市同盟の対立がはじまる。1378年カール四世死去、長子ヴェンツェルが即位、1400年ヴェンツェルが廃され、ルプレヒト・フォン・プファルツ即位、1410年カール四世の次男ジギスムントが即位、1417年、ジギスムントがローマ教会の分裂を解消。1419年、ルクセンブルク家の本領ボヘミアでフス戦争勃発。1438年ジギスムント死す。ハプスブルク家アルプレヒト二世が皇帝即位し、ハプスブルク王朝が始まる。
 フリードリッヒ三世をへて、1493年マクシミリアンがドイツ王となり、1495年「永久平和令」をだし、裁判権が各諸侯の手に移される。1499年シュヴァーベン戦争によりスイスが事実上独立、1508年マクシミリアン、教皇の戴冠をうけずに神聖ローマ皇帝となる。以後、教皇による皇帝戴冠は消滅。1512年から「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という国号を正式に採用する。1516年まマクシミリアンの孫カール(五世)がスペイン王(カルロス一世)に即位、翌年(1517年)ルターによる宗教改革のはじまり、1519年、選挙でフランス王フランソワ一世をやぶり、カルロス一世が皇帝カール五世となる。1555年、アウクスブルクの宗教和議、領主の宗教が領民の宗教になる。翌年、カール五世退位。皇帝位は弟フェルディナントに、スペイン王は息子フェリペに譲位する。オーストリア・ハプスブルクとスペイン・ハプスブルクに分裂した。
 1618年、フェルディナント二世がカトリック普遍主義からボヘミア反乱を弾圧し、以後、国際戦争に発展する(30年戦争)。1648年、ウェストファリア条約、帝国の諸侯が主権を確立、ネーデルラントとスイスが神聖ローマ帝国を離脱した。1683年、オスマン・トルコによるウィーン包囲、1700年、皇帝レオポルド一世がブランデンベブルク選帝侯フリードリッヒ三世がプロイセン王(フリードリッヒ一世)になることを承認し、プロイセン王国が誕生。1701年、スペイン・ハプスブルク家が断絶し、スペイン継承戦争がおこる(〜14年)、1740年、皇帝カール六世没し、ハブスブルク家に継承者がいなくなり、オーストリア継承戦争がおこる。1745年、マリア・テレジア(カール六世の長女)の夫フランツが皇帝即位、七年戦争(1756年〜)をへて、1804年フランツ二世、オーストリア初代皇帝を名乗る。1805年、フランツ二世軍、アウステルリッツでナポレオン軍にやぶれる。1806年、フランツ二世、神聖ローマ帝国の解散を宣言する。(ハプスブルク家オーストリア帝国は1918年まで存続)

レビュー投稿日
2015年5月4日
読了日
2015年5月4日
本棚登録日
2015年5月4日
0
ツイートする
このエントリーをはてなブックマークに追加

『神聖ローマ帝国 (講談社現代新書)』のレビューをもっとみる

『神聖ローマ帝国 (講談社現代新書)』のレビューへのコメント

まだコメントはありません。

コメントをする場合は、ログインしてください。
ツイートする