神を哲学した中世 (新潮選書)

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  • 新潮社 (2012年10月26日発売)
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感想 : 14

中世ヨーロッパの「神学」が具体的にどんなことを追究し、どんな文化がその根底にあったのかということを書いた本である。こういう雰囲気は中国古典の「経学」と似ているので分からないではないが、本書は中世神学の再評価を願っているので、記述にやや「相手をさげて自分を上げる」式のルサンチマン(怨念)を感じる。とはいえ、全体としては「神学」の具体的な姿を知るにはいい本だと思う。ただ、フリーハンドで書いていて注がないので、ほかの研究を検索するのは不便であり、思い切った断定もあるので疑問符もいくつかつくのではないかと思う。第一章は「中世」の時代と場所についてである。基本的に500年から1500年の1000年間がヨーロッパの「中世」で、地域的にはアルプス以北がその主要な場所である。キリスト教の修道士が、自然崇拝の土着民族の住む土地を「祈り」(=呪い)の力で開拓し、時間割にしたがった秩序ある生活を築いたこと、ギリシア・ローマの哲学遺産がアラビア経由で入ったこと、人間が神に似せられて作られたこと、光の形而上学などのキリスト教の基本的要素を確認している。第二章から第四章までが、「スコラ哲学の父」アンセルムス、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥスの神学をテキストから紹介している。アンセルムス(1033-1109)の部分は『プロスロギオン』(信仰以前)から「神の存在証明」を解説している。要するに「神は完全であり、存在しないものより存在するものの方が完全だから、神は存在する」という理屈である。アンセルムスはアリストテレスの全貌を知らなかった世代で、新プラトン主義からこの証明を行っているそうである。トマス・アクィナス(1225-1274)の部分は『神学大全』から社会問題の部分を解説している。守護天使・魔女・不法行為に対する原状回復の思想、神の二重性(自然の秩序にみられる神は一つだが、各人の理性には神は「異なる顔」をみせ、この神の恩寵によって自由が可能になる)などの点を指摘している。トマスは「主知主義」の神学者で、理性が自由の根拠で意志が自由の働く場であるとする。スコトゥス(1265-1308)の部分では、主に経済理論を紹介している。スコトゥスは神の摂理よりも、神の自由を強調する「主意主義」である。神は自然の必然を自由につかうことができ、神は完全に自由なので過去についても改変可能で、たとえ悲惨のうちに人生を終えた人も、神に背かなければ天国ではその人の人生は幸福に改変されうるそうだ。この点は神の摂理を強調するトマスとは異なる。私生児の相続問題(不義密通の子が自分のものでない財産を占有しているとき、その母はどうすべきかという問題、基本的に暴露しても誰も幸せにならないから聖職者になるか、貧者に施せという解答)、商業の価値(商業は国家にとって有益、商人は自分の配慮と危険の対価を利益という形で得てよい。ただし、転売による値のつり上げは取引を妨害しているから不正)、利子論(種籾の例えから利子は正当だが、良識の範囲で決めるべき、時間は神のものなので時間そのものを売るのはウスラ、不正利益である)などである。第五章は「中世神学のベールを剝ぐ」という題名で、内容が多岐にわたり理解しにくい。普遍論争、法則と普遍、神の存在証明、「理性の情」(理性は推論能力、感情はpassioだから受動のこと、純粋理性の存在である天使や悪魔にも喜怒哀楽がある)、ペルソナ(三位一体・自己)、天使の堕落論(天使は傲慢によって悪魔になった。神のようになろうとすることは正当だが、自分だけの力に頼って神のごとくあろうとするのは傲慢、修道僧の欝の問題や学者の驕りと関係がある)などを論じている。第六章は修道院の概説、聖書の『詩編』から「信仰」がどのようなものかを書いている。最終章はフランシスコ会聖霊派の指導者ヨハニス・オリヴィ(1248?-1298)の思想を紹介している。彼の思想はオッカムやスコトゥスにも影響を与えたそうである。オリヴィは神学をやればやるほど、信仰から遠ざかっていくという矛盾を考えた。そもそも神学というのは無信仰な者を信仰に引き入れる役割もあるから、俗な感覚をもっていなくては神学はできないそうである。これに対してオリヴィーは神学それ自体は悪くないが、学問には秩序がないといけないとする。聖書は完全な理性には分かるけど、人間のような頼りない理性しかもっていない者には理解できない所がたくさんある。だから、神学なしで聖書が分かると思ったら間違いである。ただ、クレルヴォーのベルナルドゥスが言うように、アリストテレスの論理学に夢中になって、煩瑣な項目の論証に血道をあげるのは本質を忘れていると批判する。最後のキリスト論は難解である。キリスト(救世主)というのは、神が人の罪を購う(買い戻す)ために人間として生まれ侮辱され死んだ者である。とすると、人間イエスには人と神が混じっているのであるが、オリヴィは水に水を混ぜても水であることが変わりないように、神が人に入っても神であることには変わりはないそうである。こういう理論が後にスコトゥスらに伝わって、「加速度」の研究の萌芽になっていくそうである。著者は大学ではなく修道院で教えつづけたオリヴィに中世神学の本質をみている。この著作に注釈がないのも、オリヴィのような本質的学問をやっているという表現なのであろうか。本書には、歴史的事項や語源(宗教religioとは「再び結びあわせること」)などもあるが、本質は「空手」で「哲学する」ことを実践しているのであろう。神学が科学の種を播いた点があるにしても、異端審問などの暗黒面にあまり言及していないので、片手落ちの感は否めないとは思う。トマスが魔女狩りに根拠を与えたことは否定できないのではないかと思う。主知主義と主意主義は朱子と王陽明のちがいに似ている。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 哲学
感想投稿日 : 2014年1月16日
読了日 : 2014年1月16日
本棚登録日 : 2014年1月16日

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