トムトム・クラブの「おしゃべり魔女」がちょっとしたヒットになっていた。これが僕のラップとの出会いである。(81年)キラキラ社で演劇活動をしているとき。
 八七年秋ベスタックス主催のDJコンテスト開催で優勝。
P122 ヒップホップが与えてくれた「楽器が弾けなくても音楽ができる」というプレゼントの包みを大喜びで開けている若者たちという感じである。マイクを持つこと、スクラッチをすること、それだけで楽しくてしょうがないのだ。
 九〇年。MCバトルを目撃するECD(P131)
 九一年。チェック・ユア・マイク・コンテスト。スチャダラパーと高木完のマネージング事務所として設立された「スクール・プロダクション」主催。川崎クラブチッタ。優勝したのはZINGI。プロ志向の本格派が増えることより調子に乗ってマイクをつかんでしまったような子達がまだいることのほうに僕は日本でのラップの可能性を感じていた。
 九二年。出演順で出演者がもめる。それらは後に伝えられる日本語ラップ冬の時代の到来の兆しだったのかもしれない。
 ライムスターのMC・シロー(宇多丸)と顔を合わせれば必ずと言っていいほど日本のヒップホップの今後について見通しの暗い話ばかりしていた。
93年、P142 黒人二人に殴られて日本人の女がくっついていた場面。94年になるとDAYONEの大ヒット。売れる気配のまったくなかったアンダーグラウンドのラッパーたちの閉塞感はよけいにきわだった。
P156 ラップが世間に認知され、ラップを世渡りの道具にする者が現われる。ラップに限らず音楽、芸術はむしろまともな人生を踏み外すためにあると僕は信じていた。日本語ラップが認知され、まともな世界の仲間入りをする。そんな行く末は僕には耐え難いものだった。

 九九年グレイトフルデイズの評価で論争。P165 「処世術でしかない音楽」サラブレッドに大きな顔されてたまるか。

 2004年小泉義之一冊をのぞいてすべて読破している。P181宮沢賢治的厭世感を吹き飛ばしてくれた。
 日本のヒップホップでマスターピースとよべるのはキミドリの「キミドリ」くらいだろうP186

2019年3月4日

カテゴリ HIPHOP

P25 フリースタイルで勝つためには「今フロアがいちばん盛り上がる話題は何か?」という感覚を磨くことが必要。

韻は「メッセージのインパクトを強くするためのひとつの手段」コピーライターの仕事とかと近いんじゃないかな。(P29)

「必ずしもすべてがリアルである必要はない」「リアリティがあることが大切」「リアルよりリアリティ」P46

NWA 本当は、そこそこ育ちがいい人たち でも暴力的な日常をおくってきたわけではないが、メッセージのためにそうした。
「自分の信念を表現する上で、誇張や脚色をするのはいいと思うよ。」「だから、大げさな言い方をするのもひとつのテクニックなんだよ。」
P56

晋平太の分析では
韻を踏むことを重視しつつオールマイティなR-指定くん、キャラを生かして戦うDOTAMAくん、相手とのキャッチボールのやり取りで勝ちに来るNAIKA(MC)くんの3つに大別できる。あと鎮座DOPENESSさんみたいに、あまり相手に合わさないで、自分のラップをひたすら続ける人もいるから4タイプかな。P106

P177 「みんな全部できないとアカン」みたいな空気ができたのは、俺らの世代の特徴で、その空気は良くも悪くも俺が作ってしまったのかな・・・・・・というのは感じますね。<むかしは、特殊能力のバトルだった>

すっげーダサいことを、カッコいい顔して言う。そのあたりは大阪のMCの特徴。(晋平太)KBDの「ありのとわたり」、チプルソの「ねんしらねえごん」がそうだろう。
韻踏のひとたちを引き継いだのかも。(R指定)
ストリート的な価値観や不良が重視されていたころにはじかれた人たちではじめた。ライブや表現であって、練習ではなかった。
ダークホースからキングへ 技術からお客さんにつたわる気合いへ(呂布カルマでいえば正義)

韻と韻をつなげる文脈のセンスとか、ムリのなさがスキルP192

フリースタイルとは「ツカミ」「魂」「でまかせ」(R指定)
「コミュニケーションツール」(晋平太)

2019年3月4日

読書状況 読み終わった [2019年3月4日]
カテゴリ HIPHOP

 ごりごりの左翼に対して、ストリートの運動のノリは保守化するメディアや論壇にたいして、「左翼」を敗北から取り戻す試みなのだ。

 現在のポストモダン的な状況では、どれほど強力なイデオロギー批判もやはり相対的なものでしかなく、けっして真実の言説にはなりえない。正しいかどうかではなく、おもしろいかどうかである。(左翼の敗北は、ダブルスタンダードを説明できないからではないか?猿川指摘)

ストリートの思想とは何か
・常に過渡的な思想のあり方であって、その体系は事後的にしか把握できない。
・人を動かさない。動くことで思想が生まれる。人を動員しようとする指導的な思想とは対抗的関係にある。
・音楽、映像、マンガ、ダンスといった非言語的実践を通じて表現されることも多い。
・消費主義、メインストリームのカルチャーと対抗的である。対抗的なおもしろさや快楽を作り上げる。(猿川指摘:プロの仕事から学んだドタマをふくめ、メインストリームの仕事力をなめるな)
・金銭に従属せずに、既存の資本の流れとは別の自律した場所で、いかにカッコよく、いかに魅力的な生活を作り出すことができるか。
・オタクとストリートは対立している。オタクは文化中心の営み。ストリートは身体的営みだ。(猿川指摘:オタクの聖地巡礼はどうなのか)
・活字の中には回収できない息遣いやにおい、肌ざわりといったものだ。

 しかしそういう運動も、「古い左翼の「政治」の中に、いつのまにか回収されてしまっている。(これは正しい)

 発達した情報テクノロジーのネットワークに覆い尽くされ、切断と接続をたえず繰り返しているような都市は、「劇場」ではなくむしろ「工場」として捉えるべきだというような話だったと思う。(P53)

 新自由主義は、ポスト・フォーディズム生産様式に対応する政策である。(地元で大量生産、機械的に動くものよりも、柔軟にグローバルに動くポストフォーディズムは新自由主義とマッチしている)

「スペクタクルの社会」を著した思想家ギー・ドゥボールをはじめとするシチュアシオニストたちは、商品経済とメディアによって徹底的に支配された現代社会を「スペクタクル(見世物)の社会」と名づけ、この社会では私たちの生が徹底的に受動的なものとして封じ込められていると考えた。(見せ物の側が、百万回きけというのが梅田サイファーの革命だろう)

 みんなが好き勝手踊る対抗的ダンスカルチャーと、よさこいのように規律訓練の組織をもった反動的ダンスカルチャー。(ではライムダンスは?)P77

 P110 ディック・ヘブディジ「サブカルチャー」パンクロックやレゲエなど若者たちの文化の実践を、ロラン・バルトの記号論やアントニオ・グラムシのヘゲモニー論、ルイ・アルチュセールの構造主義的マルクス主義を理論的な枠組みとして、「抵抗」への契機として読み込んだ本(ずっとこんなことやってるんだな)

 生権力に対抗する公共圏とマルチチュード。

P190 ECDに代表される初期の日本のヒップホップが、しばしばマスメディアで誤解されているように、単なるブロンクスの黒人文化のファッショナブルな輸入でも、六〇年代や七〇年代のソウルやディスコミュージックの延長にあったのでもなく、七〇年代末の日本のパンキッシュなインデペンデント文化の発展形であったということである。

P214 ウィキペディアへの楽観的記述はあまりにも浅い。

P240 本来多様な欲望をひとつの方向へとまとめあげ、動員しようという全体主義的な志向がまぎれ込んでいるのではないか。個人的な「怒り」を媒介とし、共通の「敵」を特定することによって、本当に「右と左は手を結ぶ」ことができるのか。そこで「手を結ぶこと」からこぼれおちてしまうものがある...

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2019年3月4日

読書状況 読み終わった [2019年3月4日]
カテゴリ HIPHOP

 認識と個人をともに変容させるような類いの経験。その変容的な経験がこうなるだろうという自分の考えに基づいて合理的に選択することはあなたにはできない。あなたはその経験をすることを合理的に選べず、その経験を避けることも合理的に選べない。それが許容可能で合理的な規範的基準を満たすことはおよそ可能なのか?という問いを徹底して考える。どっちが好きかというのは、この選択では効力を発揮しない。
 期待をもって決断したいと願う。しかし、決断後の主観がどのようなものになるかは特定できない。好みといった主観は変容的経験の後に適用することは出来ない。よって、主観的な熟慮に置き換わるものではなくてはならない。【よって、その経験をすることの価値だけを目的としてその経験をしたいと思うのかどうかに基づいて、ドリアンを食べてみることを選びうるのである。】(P122)もし本当に決めようとするのなら、意思決定主体は科学の力に頼るしかなくなる。どんな自分になるか、変化そのものを好む自分なのかどうか、その経験から何か啓示がもたらされるとか、たとえば、ジョジョのディオとジョナサンとの対決の構造に似ている。ディオは吸血鬼そのものというよりは、その変化の持つ啓示によって選択した。変容的選択はその人の「才能」に近いもので決断される。

2019年3月2日

読書状況 読み終わった [2019年3月2日]
カテゴリ 哲学

 思わず、梅干しを買いに行こうと思う本である。
 この本の「態勢」とは「対象種ごとに特有の迎えいれ方をする生のかかわり方である」と定義している。梅干しにかかわることなしに、梅干しの疑似知覚体験をあたえるような態勢を形作ることなどできはしない。(P234)
 メルロ=ポンティは「赤を感じることは赤が世界にかかわる仕方を見て取ることである。対象の生の形に共感し、それを自らに引き受けることである。」という。人は、赤をみると、赤にふさわしい態度をとる。しかし、共鳴、共感だけでなく、梅干しを食べた、もしくは梅干しを見たときの反応のように、「すっぱ!」と、同じ生ではなく異なる生としてのリアクションもある。しかし、その「すっぱ!」が反応であるか、共鳴であるか、それは確言できない。
 また、幻影肢というのがあるように、人間の身体のあり方は、もしくは「世界の意味は、現在、現実の身体のあり方というより、習慣的な身体のそれに対応した習慣的なものであり、そして今のこの瞬間の現実的明示的志向がなくても、習慣化した世界の意味は提示されている」という。
 P132には【いらだっている他者を見て私にそのいらだちがうつることがある。しかしうつってきたときでも私は彼のいらだちの対象を知らないことがある。このとき、私は彼の内面に入りこんで内面を認識したとはいいがたい。むしろ他者の内面の認識を介さず、直接に私に感情がうつってくるのである。「共鳴」という概念ではこのように、知的認識を必ずしも介在させない直接的なものを想定している。】の記述がある。
 そして直接的にやってきた共鳴は「自らのうちで複製することによれば理解できるだろう。人間やサルはそういう手段をとっているのだ、というわけである」と書いてある。
 感情とは世界へのかかわりとして存在する。かかわりの文脈のなかでのみ何であるかが明瞭に規定できる、とメルロ=ポンティは述べる。
 手という自然的所与が文字を書く道具として利用され、キーボードを打つ道具として働くようになるのと同様である。(P209)これも「かかわり方」である。
これを「実存様態」=世界へのかかわり方、と言う。コウモリはまがまがしく、赤は攻撃的で熱く感じる。これは象徴的意味理解という。
 バケツリレーのように、協調、同期しつつ、他者の行動を習得し、微妙にタイミングをあわせたり違う行動をする。機械的に何も考えずにやるのではなく、「認識」をするのだ。【認識とは受動的にあたえられる情報を理性的に解釈する過程ではなく、むしろ能動的な情報収集によるものだからである】(p223)
【共鳴は、他者理解の時間的起点にあるわけではない。共鳴すべき相手の態勢が何かがわからないと共鳴は発動されないからである。むしろ象徴的意味理解が起点にあり、共鳴するべき他人の態勢が何なのかを教える。そして共鳴は相手の態勢と同調することで、より詳細で立ちいった他者態勢の知覚を可能にする。この共鳴の過程を通じて、ひとつの理解の形式として象徴的理解は共鳴的な深い理解を支えつづける。】(P230)
 ボールが飛ばされる、のではない。ボールが飛ぶという。無生物であっても、世界とのかかわり方を持っている。音楽がかかると、人は音楽になる。ここまでは良い。なら、言葉がかかると、人は言葉になる。いわば言葉人間が言葉を認識・情報収集し、自らのうちで複製する、言葉がしゃべりだすのだから、人はそれに注目するし、そして知的ではなく直接的に入ってくる。そうして習慣化した世界がその関わり合いの土台になっている。
 この本は、実存主義の本でもあると思う。白黒のメアリーの延長に、この態勢論はあると思う。
 

2019年3月2日

カテゴリ 哲学

 客が去って、また客が来るあいだの牡丹。または、散った後の牡丹。
「桑田はどんな歌詞もダブルミーニングすると確信した」(P26)
 これは何かをあらわしているし、これから何かがあらわれてくる。
 模倣は社会活動の基礎。
 破壊の悪魔を飼い慣らすための英雄譚や昔話。
 交換、お裾分けとか、ちょっと分ける感覚。
 ラップバトルでいえば、死ねとかいう言葉を別の仕方で韻で包み込むようなものか。

 日本に革命せよといっても、ローマ教皇に革命せよといってるようなもの。さらに、仁義のあるものが君子になるのではなく、日本のトップは最初から神の末裔であり、中国とは国の形が違う。天から見放されることもない。また、日本の古代の天皇が「仁義」をのべ、万葉や古事記に、仁義エピソード伝説が残っているだろうか。ヤマトタケルをみてわかるように、戦うことが嫌になって嘆き悲しむドラマである。また、そもそも島国で、小さく、中国ほどの凄まじい全滅と悪政がないのではないか。香具山なんてほとんど丘みたいだし、大戦争をしているようで、戦場が狭かったりとかあるのではないか。

 面影は二項同体にこそ出所する。鬼子母神が慈愛と人食いがまぜこぜになっている。椎名林檎のポップソングの一節にも面影が起動する。

 凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ

 擬装すること、ものまねすること。世の中をものまねすること。ものまねするということは、本物がくっついてきている。どっかに本物が背後霊のようにいる。それが面影。そして、背後霊にまた背後霊がいる。
 歌い手はオリジナルではない。何かを物まねしている。オリジナル(過去)とオリジナル(未来)のあいだに挟まれているにせもの。それが私達なのだ。宇宙のはじまりからしてそうである。宇宙も何かの物まねである。
「井上陽水・桑田佳祐・椎名林檎らに起爆したポップソング」は、「世」の本質。もどきの本質とは、昔話や童話にある、不思議な部分、物語作者だったら校正して無くす部分、起承転結にしてキレイにおさまらないところ、そこが大事だ。表象された物語性の中に多様な擬態がコンティンジェントに併存している。
 音楽、ライブを楽しむ人間はそれを自分のものまねとして、おもがけをみて楽しむ。ぶちあがるのかもしれない。

2019年3月2日

カテゴリ 国の学び
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ドタマによる分析では、MCバトルラッパーを三つのタイプに分けている。
①しっかりリズムをキープしながら、2小節毎に5~8文字の堅い韻をキレイに脚韻で踏む「押韻タイプ」
②正統派なB-BOY的詩表現やリリシズム、上手い言い回しを駆使する「パンチラインタイプ」
③拍をゆっくり取ったり、リズム解釈の斬新さ、フロウの格好良さで戦う「フロウタイプ」
そしてドタマのように早口のオフビートで責め立てる四番目のタイプ。

作中、DOTAMAの負ける姿を見たい、成り上がりを見たがる観客に対する苦しさも吐露している。(P40)

また、私と同じで、「Dragon Ashの歌詞に、ヒップホップに、初めて自我を揺り起こされたような気がした」とはっきり書いている。「Deep Impact」のミュージックビデオの真似をしているのは私も同じで、ベースのババイクゾウの真似をして、ベースをめちゃくちゃ低く持って、ウッドベースのように弾いたりしたものだった。
それから、この本で一番目立つのは、ホームセンターで働く人から学んだことの多さだ。ホームセンターの描写、または段ボールを運ぶアルバイトの絶望的経験がこれほど出てくるものはないし、映画の撮影でのプロの段取り力・映像への拘りで、仕事の意味を知り、いまの日本語ラップ活動につながっているのは、仕事とラップが対立的に考えられがちな観念をひっくり返すものだろう。ホームセンターから映画『TOKYO TRIBE』撮影まで、プロの仕事から学んだこと鍛えられたことは、本著で繰り返し強調されている。

また、本当にこの人は正直で、いい自伝だとおもったのは、母の影響について述べているところ、弟の自殺についても同じくだ。「ステージでマイクを握った際に出す瞬間的な突破力。観客や対戦相手が自分に対して抱く違和感。それらの自分の特徴は、母から譲り受けたものだと思っている」と述べている。母の過剰なまでの母性の異常さがルーツなのである。あの、死闘に続く死闘が、ラップバトルが、母性の延長にあったのだ。「まじか!」と、読みながらひっくりかえってしまった。ラップバトルを聴きながら、「なるほど、母性だ」とDOTAMAから感じられる人は、絶対にいないだろう。
2012年10月、お金がないから、ブラックバイトを始めるところがあるのだが、(P159)「音楽ワルキューレ」といい、ドタマは関東でとっくにライブで食っていっているものと思っていた。むしろ、「ドタマほどの活躍を、しかも関東でやっていても無理なのか……」というほどで、R指定が恐るべき執念で優勝し続けていた理由がわかる。ラッパーで食っていくハードルは、小説家になるハードルより高いのではないか。

またP181にある2013年UMBのとき、R指定とのバトルだが、「どう考えても一本目は勝っていた。なのに延長にさせられた」と怒っているが、私もその場に居た身として思うのは、正直全員が「Rが負けるところを見たい」または「Rをちゃんと負かすやつがでるだろうか」「でも、Rが何か新しいラップをやって、俺たち観客が勝手に作ったようなハードルをこえていくものをみたい」といった、複雑な感情を抱いていた。そして、R指定の言葉をサンプリングして「撤回させてやる、それが理由!」のところではめちゃくちゃ上がった。そしてRの返しのところで、全然踏んでなくて、ちょっと「アルバムも出した」のところで噛んだような感じがあった。私も「あ、あ、あ、Rが負ける。このまま何も言わなければ負ける」となって、体が空中に浮くような感覚になったあと、「全部クリア。もうないだろ? つけいる隙は」で終わった瞬間、全員が「あああー!」となったのを覚えている。「うっわあ~~~」としか言えないのだが、鳥肌たったのだから、延長は納得だった。そして、あの大会の...

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2019年3月2日

読書状況 読み終わった [2019年3月2日]
カテゴリ HIPHOP

 川原繁人氏の論文を読みたくて買ったけれども、色々と興味深いことが載っていた。
【近年の研究によって、実は私たちがある単語を発音するときに、脳はその単語に似た他の単語も活性化させていることが分かっています】【ですから、「拡声器(kakuseeki)」という単語を発するときには、母音が共通しており、かつ子音も似ている「核兵器[kakuheeki]」が同時に活性化されている可能性は十分にあるわけです。】

 また、音声学のアプローチにより「ま、ま、ま、な、な、な」といった【[m]-[n]のペアは抜きん出て、とてもよく日本語ラップの韻でペアにされます。】と述べていて、韻の組み合わせを分析するためには、その音の音響(音がどのような空気振動に変換されるか)や、知覚(音が人間の耳にどのように聞こえるか)まで考慮に入れなければならない、というのは凄かった。ようするに、「m」の子音が入った音で踏んだ後、次の小節で「n」が入った子音で踏むことが多いということだ。「韻において子音は無視される」とは私も考えていて、母音さえあえばいいと考えていたが、「子音」の法則に注目するのは凄まじい研究だ。そして「子音の近似性」があがると「韻の踏みやすさ」もあがる傾向があることを書いている。この「似た」は舌の動きを意識してもらえれば分かると思えます。たとえば、「n」と「r」の発音は同じように下を上の顎のほうにくっつける。これは似た子音であるということである。

 ほか、掲載されている論文はどれも興味深いものばかりだった。

2019年3月2日

読書状況 読み終わった [2019年3月2日]
カテゴリ HIPHOP

 GOCCIの優勝で、分断されていたアングラのフリースタイルとメジャーな日本語ラップシーンが再び繋がるきっかけになった。DABOの札と月にもある。
 チャンピオンが音源を出さない問題も興味深い。

 2005年、ハチ公前サイファー。

 ありかなしかのスタイルが鎮座で、なしと思われたら一回戦で負ける。

 2010年~2015年を押韻新時代とのべている。

P98 ヒップホップ美学と必ずしも一致しない。観客判断のきつさ。

 梅田サイファーを二〇〇八年にははじめていた。P119
彼らの世代に交代していくプランを考えていた。

 二〇一二年のBBPのひどさ。二〇一二年七月に開催。MCバトルを身内が優勝できるようにしたり、ラッパー軽視の大会運営がなくなった。
 この本はいかにMCバトルのラッパーに利益が還元されるか考え続けられた本。名前のでない人々がこわい。
 ただ、本人の極私的MCバトルとなっている。

2019年3月4日

読書状況 読み終わった [2019年3月4日]
カテゴリ HIPHOP

 1973年8月11日、ニューヨークのウエストブロンクス。モーリスハイツ地区のセジウィック通り1520番地にあるプロジェクトと呼ばれる公営住宅の中の娯楽堂で開催されたパーティーがヒップホップ誕生の地とされている。(P20)
 即興で言葉を紡ぎ、自分が用意してきた歌詞も交えながらラップを乗せる。これがヒップホップの原型。当初の主役はDJで、ラッパーはそのサポート役。
 ヒップホップの国歌(アンセム)と呼ばれるのがIncredible Bongo Bandの「Apache」という曲で、聴くとわかるけれども、演奏の部分とドラムだけになる間奏部分があって、このドラムブレイクのところをターンテーブルとミキサーで永遠にループして続ける。このノリノリのパーカッションの部分を爆音でながすと馬鹿ウケしてみんな踊り出す。そこに、客を煽ったり、コール&レスポンスしたりするサポート役としてラッパーがいて、ライブが成り立つ。それはなぜかというと、DJの機材の珍しさや技術の高さに客が見入って、棒立ちで様子を観察してしまうので、ラッパーが客を動かす必要があるからという。
 DJPEKOの日本語ラップオンリーでかけ続ける十時間ソロイベントを見に行ったときも、ケニーダズをはじめ、梅田のラッパー達が次々でていて、客を煽り続けていた。ラッパーがいなかったら、爆音のなか、みんな聴き疲れて寝ていたか、棒立ちでPEKOを眺めていただろう。これはPEKOのDJへのディスでもなんでもなく、それくらい10時間はめちゃくちゃで、ノートパソコンかどこかの機材から水が出るという謎の現象が起こったり、会場が熱くなりすぎて、パソコンがオーバーヒートして勝手に曲が早くなったりする。そういう時、MC達が、巧みにギャグとかを交えながらフォローして盛り上がりを落とさないようにしていた。

 1977年のニューヨークの大停電のあとに、急にDJをやるやつが増えたというのも面白かった。ヒップホップのシーンが急に拡大したのは大停電で機材をみんなかっぱらってきたからだという。(P24)

 また、いとうせいこう氏が韻を踏む実験を色々として、日本語は「~である」「~ではない」と最後に意味を決める構造になっている。でもそれでは韻を踏みにくい。だから倒置法を延々と繰り返して「○○ではない××」(たとえば、抗争ではない共闘、それこそ妄想ではない上昇、など)とやってみたけれども、最初は伝わらなかった。でも「倒置法理解脳」になった、と、人間の耳、聴き方が進化することを述べている。あわせなくても客が進化する、ということだ。

 日本人がラップしようとしても、「虐げられた黒人の怒りをぶつける」とか、筋肉むきむきでごりごりするのは難しい。そんな中、デ・ラ・ソウルとかニュースクールの登場は日本人のラップに影響を与えたというのも知らなかった。マッチョラッパーを揶揄するものに、日本人は勇気をもらったという。
 P134では、Boseがインタビューで「悪い不良みたいなラップがあってのカウンターで、オタクみたいなのが変なことを言っているラップをやりたかったの」と言っている。137ページでは「ヒップホップっていうのは、共通ルールの下、世界同時進行で進んでいくスポーツ」と宇多丸は述べている。

 また、ZEEBRAが出てくるP146ではKダブの韻の気持ちよさへの工夫を知って、これだったら英語のラップを聴くときと同じように「次はなんて韻を踏んでくるのかな?」って楽しみながら聴けるな、と述べている。それと同時に、レジェンドと呼ばれる世代と僕らが違うのはP152でZEEBRAが言っているように「USのヒップホップが、かつて日本でヒップホップが流行ったときのように流行っていない」という指摘は重要で、日本語ラップを学ぶためにあるもの、洋...

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2019年3月2日

読書状況 読み終わった [2019年3月2日]
カテゴリ HIPHOP

 終章「龍田道の桜」のところを読み終わった時、私は泣いていた。犬養孝や中西進に、寂しい人、家を離れようとして離れられなかった出世の道を絶たれた人、敗北の人、芥川のようなところのある人。
 このような「読み方」がなされる、高名な学者の本を二冊続けて読んだ後に、この本に出会って、私は号泣した。
 あまりの、その鮮やかさに。これぞ学問だということに。この世の中に、実に感想文ばかりの論文が散らばっていることに。そして、虫麻呂が、宇合と共に歩んだことを教えてくれたことに。
 この本に登場する虫麻呂と宇合は、実に生き生きとしている。まるで、昨日まで生きていたかのように、虫麻呂が立ち上がってくる。満開の桜の下で、宇合卿を待つ虫麻呂の姿が、映像として見えてくるほどの、素晴らしい論文だった。これぞ、人文科学である、と思った。
 この本を読む前に、まずは犬養孝の虫麻呂論の一冊を読んで欲しい。次に、しんどいだろうが、中西進の虫麻呂論を一冊読んで欲しい。最後に、この本を手にとって欲しい。「ああ、これが、学問というものか……」と、学問は、行き着くと、名作映画のような美しさを帯びることを、教えてくれる。

2019年1月24日

読書状況 読み終わった [2019年1月24日]
カテゴリ 国の学び

 最も興味をひかれたのは、稗田阿礼と柿本人麻呂。帝皇日継や先代旧辞を誦習した稗田阿礼に接して、柿本人麻呂は神話を身につけたという説には驚いた。

2018年8月12日

読書状況 読み終わった [2018年8月12日]
カテゴリ 国の学び

すれ違いと、いじめと嫉妬、それから日都子を攻略していくまでのプロセス、怪獣のバラードは好きな歌なので、ほんと、青春ど真ん中、良い話だった。金魚の死をめぐるすれ違いの物語。それから、病的な、子どもをもののようにしか思わない母親像、教師像がイカしている。

2018年8月4日

読書状況 読み終わった [2018年8月4日]
カテゴリ 日本小説

 こんな怖い人はいない。おそらく、学問的にはまったく相いれないだろうが、初期万葉論で、中西進や梅原猛や吉本隆明をぶった切っていく白川静のようなスピード感と、それからまるで京都人のようないやらしさ、遠回しやけれど、直で言ってるようなどぎつさを兼ね備えた人で、ほんと怖い人だと思う。また、この本は今年、ちくま文庫でまた再度販売されるようで、絶版ではない。絶版させてはいけない本だと思う。

 まず、この人の、日本語への宿命的欠陥という指摘がよかった。
「日本語と漢語の大きな違いは、音韻組織が、漢語は複雑、日本語は簡単ということだ。たとえば、成功、製鋼、性交、精巧は漢語では全然別の言葉だが、日本語ではみなセイコウになってしまい、漢字のうらづけがないと意味を持ちえない」
「つまり漢語のcheng(成)、xing(性)、gong(功)、jiao(交)などは固有の意味を持った音だが、日本語のセイやコウはそれ自体では何の意味も持ち得ない。成功とか精巧とかの文字が言語の本体で、セイコウという音はその本体が裏にはりつくことによってかろうじて意味を持ち得るたよりない存在なんだよ。だから、漢字の本家の中国では漢字を廃止しても大丈夫だろうが、日本語は漢字のうらづけがないと成り立たない」
「だから、文字が背後からしっかり支えてやる必要がある。したがって、文字そのものや、文字と音とのつながりを変更するのは、よほど慎重でなければいけないということだ」
「中国文化と日本文化は誕生の時期がちがう」「もし漢語と漢字が入って来なかったら、日本語は健全に成熟して、やがて日本語の生理にあった表記体系を生み出していただろう」
「日本語における放送、包装、法曹、疱瘡などをそれぞれ別の語として支えているのは文字である。語彙の半分が、文字に寄り掛からなければひとりだちできない。日本語の宿命的欠陥である。」
 白川静が漢字は日本語であると言ったのと結局は結びつきそうなところだ。

 語源についてのエッセイもいろいろあって、灰の「は」は「果て」の「は」であり、あるいは木の葉の「は」という「ばらばらになったもの」である。旧字で読むと、手で枝なんかをもって火を消している様をさす。
 ほか、子どものことをいうのになぜ「息」という言葉を使うのか。
 呼吸をしていて生きていれば自然に次の世代を増やすので、ふやす、ふえるの意味。生ずる、ふえるということだ。「そく」は漢語、むすは和語だが、どちらもふえるという意味なのは面白いという。

 また、書評部分では、「書評は短いほど力量が必要だし、「文章はわるいが内容はすぐれている」なんて本はない。」という定義は参考になる。「三十五のことばに関する七つの章/久保 忠夫」や、1960年代の初め頃中国で一番愛読されている日本の作家江馬修について。それから林鶴一とか、いろいろ初めて知ったことが多かった。また、よくある新聞の記者の文書に対して「細心の配慮が望まれる という言い方は気に入らない。われわれは細心の配慮を望むといえばいい。注文はつけるが、注文をつけた責任は取らないよ、というつもりか」と最もな意見。とにかく意見が鋭いのだし、ぜんぶよくぞ言ってくれたと思えることばかりだ。
朝日新聞紙上での「女たちの太平洋戦争・中国編」に対する違和感も鋭かった。どこに違和感があったかというと第一に、それまでの投稿者は日本の普通の婦人たちであったが、こちらの談話者は、当局に指名され、その監督下でしゃべる語り部であること。第二に、日本の婦人たちが戦争体験回想と違って、これらの談話が、政治的色彩の濃い、国家の政策に沿ったものだということ。また、結論部に「真の友人」にならねばならない、という言葉にも、個人同士ならば真の友人はいくらでもなれるが、国家と国家には経済や歴史経...

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2018年8月4日

読書状況 読み終わった [2018年8月4日]
カテゴリ エッセイ

 姪っ子に買って与えてみたが、祖母が「何これ」と馬鹿にしているのが影響してか、さっぱりやってくれない。少しだけやってくれたけれども、あんまり受けなかった。
 姪っ子はめちゃくちゃゲームをやるし、なんかタブレットで文字やら算数やらをすでに習得しているので、5歳や6歳やらの時点で、これはもう子どものするものだと子どもに思われる可能性も高い。小学一年生で男の子とかなら喜んでくれるのだろうか。とにかく、全然うけなかった。だめだった。

2018年8月9日

読書状況 読み終わった [2018年8月9日]
カテゴリ その他
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