A3 上 (集英社文庫)

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本棚登録 : 279
レビュー : 27
著者 :
澤田拓也さん ノンフィクション   読み終わった 

オウム信者と、信者側から見た周りの人々を描いたドキュメンタリー映画『A』、『A2』を撮った森達也のオウムに関する著作。それまでの「A」は、撮影対象者の荒木広報部長やオウム真理教のイニシャルだったかもしれないが、この『A3』は麻原彰晃のイニシャルだという。公判で見た麻原彰晃の姿と、それに対する周りの反応とのギャップに愕然としたことが本書の執筆の出発点となっている。その上で、あの地下鉄サリン事件にまで至ったオウム事件の意味を月刊誌への連載という形で問い続ける。真実の追求をすることなく、迅速な審理(死刑判決)に傾く裁判に対して反発する。あの事件についてはその動機も、事件に至ったメカニズムも明らかになっていないのだと焦る。その焦りにも関わらず、審理は閉じられ、麻原への今後の接見も行われることなく死刑判決は確定され、早晩処刑される身となっている。そして、この本も売れず、忘却にさらされていくのは耐えられないという著者の焦りが伝わってくる。

著者が麻原彰晃の審理を初めて傍聴したのは、2004年2月、一審の東京地裁の判決が出されるときであった。そのときに、正常とは思えない挙動不審な麻原の様子に対して、メディアでは一様に卑劣な詐病や不遜な態度であったと報じ、死刑を強く求める論調に終始したことに著者は違和感を思えた。さらには、日常的に失禁をし、接見時に自慰行為まで行っているという話を聞きおよぶ。明らかにおかしい。何故一度治療をした上で裁判をやれないのか。そもそもリムジンでの謀議というストーリーも、あまりにも単純で矛盾が多すぎる。この大事件に対して、司法とメディアはその役割を放棄しているのではないか。著者のその思いの表出は、実際のところ多くの批判を受けることとなるのだが。

著者は、連載の期間中に、麻原の故郷八代市にも行って取材を重ねる。そこでは、一種報道においてタブーにもなっているチッソによる水俣病の原因ともなった水銀汚染の視覚障害への影響についても言及する。早川、新実、中川、井上といった側近にも直接取材しているし、麻原の次女にも接見時の様子を語らせている。神仙の会の時代の麻原についても当時の関係者を取材し、薬事法違反で逮捕されたときに取調べを行った刑事にも取材を重ねる。その上で出てくる主張にはしっかりと受け止めないといけないと思うのだ。

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本書において提示された問題は大きく三つあると言える。
一つ目はオウム事件を起こした組織共同体の問題。ここには問題を麻原個人の資質に帰するべきではないという問題提起が含まれている。二つ目が司法の問題。特に裁判における精神鑑定の問題が挙げられる。三つ目は、メディアの問題。この事件を境にメディアが変質してしまったとでもいう主張に全面的ではないにせよ頷ける。著者からすると、メディアに携わる一人として特にここには忸怩たる思いがあるのだろう。

著者は、ナチスのホロコーストを主導したアイヒマンについて本文で一度、文庫本で追加された最終章の中でさらにもう一度触れている。その意図は、オウム事件をどうしようもない悪人が世間に対する悪意をもって起こした事件であるとしてはいけないというメッセージであると受け取った。検察が裁判用に描くような、極悪人たちがリムジンの中で計画した謀議だったとしてしまうことは許されない。そこには、オウム信者に誰よりも多く取材を行ってきたジャーナリストとしての矜持もあるだろう。

著者は、保坂正康の『あの戦争は何だったのか』を引きながら、こう書く。

「最悪の事態はこうして起きる。何度も書いてきたように、かつての日本だけでなく。ヒトラーのナチスドイツにしても毛沢東の文革にしてもスターリンの大粛清にしてもポル・ポトのクメール・ルージュにしても、幹部や側近がトップの意向を過剰に忖度しながら暴走するという組織共同体の負のダイナミズムは、まったく珍しいことではない。
オウムの場合はこの構造に死と生とを転化する宗教のダイナミズムが加わり、さらにはトップの位置にあった麻原がほとんど盲目で、おまけに最終解脱者を自称していたとの要素が相乗する」

著者の結論はこうだ。「麻原と側近たちは互いにレセプターであり、互いにニューロンだ。危機意識という神経伝達物質のやり取りを続けながら、互いに互いを刺激し続けてきた。そして同時に麻原は、側近たちにとっては唯一のマーケットであり、側近たちは麻原にとってかけがえのないメディアだった。」ー 「過剰な忖度」という言葉が著者が事件の本質を示すキーワードとして何度も出てくる。官僚的組織共同体における側近の過剰な忖度とそれによる組織としての暴走、ということであれば誰しもいくつか心当たりも出てくるであろう。

アイヒマン裁判への言及には、著者が麻原の裁判に期待するところが見える。
「この判決(アイヒマンの死刑判決)が意味を持つためには、アイヒマンと(おそらくはヒトラーも含めての)ほかのナチス幹部たちのほとんどが凡庸な存在であることを、多くの人が認識することが前提だ。彼らは悪ではない。行為が悪だったのだ。そして彼らは自分たちでもある。その認識を持ったうえで歯を食いしばりながら、有罪を宣告せねばならないのだ。」

しかし、現実の裁判はまったくそのような方向に向かうことはない。
本書の記述を見る限りにおいて、麻原は心神喪失状態にあるといっていいように思う。顔や体を引き攣らせて、失禁や脱糞を日常的に行う人間に対して、それを否定することはできない。少なくとも早期段階にて正式な精神鑑定を受ける必要があっただろう。心神喪失状態と判断されることにより免罪されてしまうことや、少なくとも結審までの時間が伸びることを恐れたのだろうか。サリン事件が起きたことは事実であり、オウムが実行犯であることも動かしがたい事実だ。そうであれば、現状の司法の即して死刑に値することには疑いはない。裁判を罪に対する懲罰を決する場とする立場であれば、なぜにこんな茶番のような裁判に時間とお金を使うのかということになる。しかし、著者はこれとは立場を大いに異にする。殊に、これだけの事態を結果として社会が起こしてしまったことに対して、真実と論理を明確にすることが必要だと訴えるのだ。そのために麻原の治療が必要であれば、その時間と手間をなぜに惜しむのか、という主張だ。麻原や側近を単に死刑にして、それ自体で何かの益があるわけではない。社会に対して抑止になるわけでもない。ここで長期的に犠牲になるのは、社会システムと司法システムだ。永遠に失われてしまう事実について、それを急いで失う理由がない。

司法システムに関する問題提起の中でも大きなものは精神鑑定にかかわる部分となる。明らかに訴訟遂行能力に強い疑義がある中でも裁判を押し進めることで、司法における精神鑑定の意義を揺るがせにしてしまった恐れがある。特に精神鑑定の結果に検察や裁判所の意図が色濃く反映されてしまうことを結果として是認することは長期的に見て瑕疵を残すこととなるのではないか。司法であっても、法ではなく組織や空気によって動いてしまう前例を作ることは、後に暗黙的にも影響を与えることになるのではないか。組織共同体の中での過剰な忖度、ということではオウムという組織だけでなく、司法の組織の中にも存在していることを皮肉にも示していさえするのではないだろうか。

そして、過剰な忖度については、メディアという組織にも図らずも浸透することとなった。
著者は、麻原彰晃の「圧倒的な質量」という表現をするが、メディアは彼を絶対悪として名指しし、それに反する言論を自粛する空間が醸成された。そこには「空気」に寄り添うという意味での忖度も含まれる。自分はそのような断層があると判断することはできないが、著者はオウム以降マスコミ、特にテレビ、の報道の論理が変質したという。そうであるなら、その変化は社会に与える影響において実は大きなものなのかもしれない。オウム裁判の終了は、これらの変化への省察の機会を奪うものだと。著者はオウム事件を機会にモザイクが躊躇なく多用されるようになったという。技術面での機能向上という条件もあったと思うが、過剰な忖度による事なかれ主義の敷衍という事実に他ならない。

もちろん著者が他の著作でも繰り返すように、メディアは受け取り手である消費者のミラーでもある。メディアが変わるためには、まずは受け手たる消費者が変わる必要がある。逆ではないのだ。

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日本は、麻原を世紀の極悪人に仕上げることで矮小化したのではないか。そして熱病のような祭りの後の「圧倒的な無関心」によりオウムの問題をねじれた形で黙殺した。果たしてそれでいいのだろうか、というのが著者による、もはやどこにも届きそうもない問いである。

自分もそのことには同意するのだが、著者は本書の中でも何度も繰り返すように、本書はもっと世間に影響を与えることができてしかるべき本だというように考えている。しかし一方で同時に著者は、世間からの無関心により黙殺されることについても正しく予想している。

上九一色村にサティアンの痕跡はもうないという。悲劇の現場は後世のために残しておくべきではないのか。すでに事件の翌年からサティアンの取り壊しが始まっており、執筆時点で何もなくなったかつてのサティアン跡を見て、この裁判と同じではないか、なかったことにしたい、自分とは異質なものがやったことだということにして安心したい、という心理が検察・マスコミそして一般市民に広がっていることの証ではないのかと著者は問う。自分がその立場にあったかもしれないという責念があれば、その建物を保存しておくべきではないかと思うのではないだろうかと。忘れたい、という圧力にあらがうことが必要だ - それが著者の根本における姿勢になっている。「悪夢の記憶なら抹消すべきでない」。

レビュー投稿日
2014年12月28日
読了日
2014年3月30日
本棚登録日
2014年3月30日
4
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