ペスト (新潮文庫)

  • 新潮社 (1969年10月30日発売)
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新型コロナ禍で外出自粛を余儀なくされている中で、多くの人に『ペスト』が読まれたらしい。ペストによって普段の生活が失われ、死と隣り合わせの生活における心理描写が、コロナに囲まれて暮らす今の状況にいくばくか重ね合わせることができるからだろうか。小説の中に感情移入できることは、それを楽しむための鍵のひとつでもある。
しかしながら、あまりにも表面通りのパンデミックの物語に引き付けてだけ読むことは、この小説の豊かさを狭めてしまうことになりかねないのかもしれず、いかにももったいない。この小説が書かれた時代背景から、「ペスト」はナチズムの象徴であり、作中に出てくるペストに対する市民活動は自らも身を投じたレジスタンスを投影しているとも言われている。そのころは、そういった類の「悪」の存在の方が、少なくともペストよりも身近であり、リアリティがあったのだ。
またさらにその解釈は「悪」一般にも拡げることは可能であり、市民に襲い掛かる圧倒的で理不尽な厄災ということでは、例えば福島の原発事故に重ね合わせることもできるだろうし、水俣の有機水銀中毒を思い出すこともできるだろう。その後の近代史で繰り返されるクメール・ルージュのカンボジア、中国の文化大革命、旧ユーゴの内戦、ルワンダの民族大虐殺などの悲劇に思いを拡げることも可能だろう。

翻訳がやや古臭く、硬質な感じがすることは、もちろん、こなれた翻訳で読みたいという思いもあるのだけれど、物語や登場人物への没入をある意味で妨げることになり、逆に表面には出てこないメッセージを感じ取る助けになっているのかもしれない。

【ヒロイズムについて】
この小説は、アンチ=ヒロイズムの話でもある。少なくともヒロイズムについてかつてそうであったのように信じることはできない。その代わりに誠実さが希求されるのである。

カミュは、ランベールにこう言わせる ――「僕はヒロイズムというものを信用しません。僕はそれが容易であることを知っていますし、それが人殺しを行うものであったことを知ったのです」
リウーもそれに合わせてこう言う。
「今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」とリウー。そして、その誠実さとは何かとランベールからの問いに対して、「一般にはどういうことか知りませんがね。しかし、僕の場合には、つまり自分の職務を果たすことだと心得ています」と答える。そこにはグランのような凡庸ではあるが、献身的な行動がその頭にあったことは間違いない。

カミュにとって、「悪」に囲まれたときに、ヒロイズムと観念によって動くことは、もはや忌避すべき行動なのである。一方で、そういった場においてはヒロイズムへの強い誘惑がそこにあることにも十分に認識されている。それへの対抗力が、個々の誠実さであるべきだというのは、ひとつの行動原理であり、倫理である。果たして誠実さにより対抗しうるのかは一般論の話ではもはやなく、誠実さは個別の問題であり、そしてそこには知識や連帯の問題も関わってくるのである。それを、この小説では十分に味わうことができるのである。

【ヒューマニズムについて】
この小説が出版された1947年の欧州では、いまだ戦争についての記憶は生々しく、多くの人びとは様々な形でのその戦争の当事者であった。また、カミュがレジスタンスの活動に関わっていたこともよく知られていた。そういった空気の中で、直接的に戦争に言及したところはさほど多くはない。しかしながら、この小説がおよそ戦争について語られた本でもあることは間違いない。

「戦争というものは確かにあまりにもばかげたことであるが、しかしそのことは、そいつが長続きする妨げにはならない。愚行は常にしつこく続けられるものであり、人々もしょっちゅう自分のことばかり考えてさえいなければ、そのことに気づくはずである。わが市民諸君は、この点、世間一般と同様であり、みんな自分のことばかりを考えていたわけで、別のいいかたをすれば、彼らは人間中心主義者(ヒューマニスト)であった。つまり、天災などというものを信じなかった。天災というものは人間の尺度と一致しない、したがって天災は非現実的なもの、やがて過ぎ去る悪夢だと考えられる。ところが、天災は必ずしも過ぎ去らないし、悪夢から悪夢へ、人間のほうが過ぎ去っていくことになり、それも人間中心主義者(ヒューマニスト)たちがまず第一にということになるのは、彼らは自分で用心というものをしなかったからである」

ここには欧州が誇った人間中心主義(ヒューマニズム)が、かの戦争が起こることを妨げなかったという認識である。戦争を人間中心主義を超えるような何か(天災)であるとして、天災に備えるようにして備えなければ防ぎえないという認識ではないのか。それはどのようにしてであるのか。カミュがこの小説で試したかったことのひとつが、小説の中で、それをまた別の形で再現させることではなかったか。

全体主義の災厄についてのカミュの認識は、おそらく次の通りなのであろう。
「世間に存在する悪は、ほとんど常に無知に由来するものであり、善き意志も、豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる。人間は邪悪であるよりむしろ善良あり、そして真実のところ、そのことは問題ではない。しかし、彼らは多少とも無知であり、そしてそれがすなわち美徳あるいは悪徳と呼ばれるところのものなのであって、最も救いのない悪徳とは、自らすべてを知っていると信じ、そこで自ら人を殺す権利を認めるような無知の、悪徳にほかならぬのである。殺人者の魂は盲目なのであり、ありうるかぎりの明識なくしては、真の善良さも美しい愛も存在しない」

この小説が書かれた後にも、アイヒマン裁判などでナチズムの下で行われた多くの蛮行が明らかになり、思想家・哲学者からの優れた分析 ―― アドルノの「否定弁証法」やアーレントの「悪の陳腐さ」 ―― が行われるのだが、カミュがその時代においてリアルに感じ、到達した認識がこういうものであったと言っても差し支えないだろう。そこにはヒューマニズムへの絶望と希望とを同時に見ることも間違いないだろう。

【宗教について】
パヌルー神父を主要人物として登場させたことによって、厄災のときにおける宗教がひとつのテーマになっていることは間違いない。しかし、宗教が問題になるのは、もはや『カラマーゾフの兄弟』でそうであったような形ではない。宗教はもはや絶対の真実ではなくなった。それでも、まだ救いの一つ、人間に何とか意味を与えることのできる何かであり続けられるのかが問題となっている。

その宗教は、戦争の前で、ペストの前でそうであったように、救いにはならなかった。宗教者は、期待されたであろうその役割を果たすことはなかった。それは、不誠実であるからよりも、現実としてその役割を果たそうとしたときに、現実にひれ伏し、その辛苦を受け入れるより仕方がなかったからだ。

タルーは、パヌルー神父の姿勢に対して次のように語る ――「罪なき者が目をつぶされるとなれば、キリスト教徒は、信仰を失うか、さもなければ目をつぶされることを受けいれるかだ。パヌルーは、信仰を失いたくない。とことんまで行くつもりなのだ」。宗教家として誠実になるとすれば、それは予定説の教義のうちで自らの運命を神の選択として受け入れるしかないということなのかもしれない。そして、残念ながらそれは何かの解決になることもない。

カミュにとって、宗教と宗教者であることはこの時代においては必ずしも誠実なものではなかったということなのかもしれない。

【絶望について】
リウーはつぶやく ――「絶望に慣れることは絶望そのものよりもさらに悪いのである」

リウーの妻はペストの流行で町が閉鎖される直前に療養のために地方に行っっていた。そのためリウーは妻と長期間会えなかったのだが、町の閉鎖解除後に妻が療養先で亡くなった知らせを電報で受け取ることになった。そのことに対するリウーの反応の薄さ(=扱いの軽さ)に、死や不幸 ―― 絶望、に対する慣れを見るべきなのではないか。

死んでしまったタルーについて患者の爺さんが言う「一番いい人たちが行っちまうんだ。それが人生ってもんでさ」

アウシュビッツを生き延びたフランクルが『夜と霧』の中で「最もいい人は帰ってこなかった」言い、プリーモ・レーヴィも同じく「最良のものは戻って来なかった」と言うように、天災を生き延びたものは、何らかの疚しさを覚えて、そしてそのことを忘れてしまうことに対しても罪の意識を覚えて生きなくてはならないのだ。

【記憶することについて】
「ペストと生とのかけにおいて、およそ人間がかちうることのできたものは、それは知識と記憶であった。おそらくはこれが、勝負に勝つとタルーが呼んでいたところのものなのだ!」

ヒロイズムも、ヒューマニズムも、ましてや宗教も、大いなる「天災」の前において救いにならなかった。

リウーがこの物語を語ることを選択した理由として、「黙して語らぬ人々の仲間にはいらぬために、これらペストに襲われた人々に有利な証言を行うために、彼らに対して行われた非道と暴虐の、せめて思い出だけでも残しておくために、そして、天災のさなかで教えられること、すなわち人間のなかには軽蔑すべきものよりも賛美すべきもののほうが多くあるということを、ただそうであるとだけいうために」

天災の中にいることは、「記憶もなく、希望もなく、彼らはただ現在のなかに腰をすえていた。実際のところ、すべてが彼らにとって現在となっていたのである」というような状態に陥ることである。そこには強制収容所に収容されて明日の希望なく健康や命への気遣いもなく過酷な状況で働かされる囚人の状況を見てとることができるのではないか。天災の中で溺れてったものたちのために記憶することが大切であり、それが過ぎ去った後においては、それだけが誠実なふるまいであるかのようだ。それだけが絶望の後にできることなのかもしれない。

この小説は、次のようなフレーズで締めくくられる。
「ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうことを」

まさか、これをペスト菌そのものや、コロナウィルスのことを言っていると取るものはいるまい。
一度起きたことは、次も起きる可能性が高い。少なくともそれが起きる前よりは。そのために、記憶することが必要であり、それを語り継ぐことが重要な理由がここにあるのだ。


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そういえば学生時代に同じサークルに「かみゆ」という名前の女の子がいた。彼女の両親はどういう想いで自分の子どもにその名前を付けたのだろうか。いま、どうしているのだろうか。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 小説エッセイ
感想投稿日 : 2020年7月26日
読了日 : 2020年5月23日
本棚登録日 : 2020年5月23日

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