欧州で右派が台頭する状況の背景がこの本を読むとわかった。少なくとも欧州で極右政党が一定の支持を集めるのを一部の経済的に恵まれず、情報が限られた人たちが煽られた反動だと感じていたことが、それほど単純ではないことがわかった。この本が欧州を含めて世界中でも比較的売れていて、トンデモ本のような扱いではないことから、ここに書かれた数字や発生した事件などの事実についてはおおよそ正しいことが書かれているのだろう。おそらくは著者も強くそして感情的でもある反論にさらされる可能性を強く感じていたからであろうか、事実については非常によく調査をされているし、現地にも足を運び実情を捉えようとしている。日本を含む海外にも比較的広く報道された2015年大晦日のケルンでのイスラム系移民による集団性犯罪事件が実際に起きていることを考えると、多くの小規模だが類似する事件が起きていると想像するのは、スウェーデンなど実際にいくつか事件が報告されていることと併せても間違いではないだろう。
大衆の感覚もそれに合っているにも関わらず(67%の英国人が過去10年間の移民を「英国にとって悪いこと」だったとみている)、政治的には移民の流れを阻止する方向には動くことができなかった。なぜなら、それは現在の欧州の分化によって倫理的にはそうすべきではないということになっているからだ。そして、著者に言わせると「現状を維持して、それに不平を言っている方が、短期的な批判を甘受して社会の長期的な幸福を測るよりも楽なのである」ということだ。いずれにせよ、欧州の政治家は、自らを反移民とし、政治的に反動的であると見られたくないという思いが強かった。
それほど遠くはない昔は、人種は違うものであった。その上で、いかにその差を埋めるのかを考えた。今は人種の差はまずないことが前提となり、その差が表れているところは正しくない状態であるとして放置することは許されないようになった。それは、性差でも同じことであり、男女は同じであることが一切の前提となった。さらにはその性差にはLGBTも包含されるようになった。それが、正しいことであるとする前に、その考えを適用し、移民を同じ権利を持つものであるという前提に立って政治を行うことが、逆説的に欧州の社会で維持することが難しくなりつつあるということだ。少なくとも欧州の文化というものがそれによって大きく変わりつつあり、そのことに対して打つ手さえ失いつつあるというのが、本書に書かれていることだ。
欧州の移民問題は、2011年の「アラブの春」やシリア問題が深刻化し、周辺地域の政情が悪化してから大幅に深刻になった。地中海の小さな島に来たアフリカから難民が押し寄せる事態になった状況や、小型船の難破による死を避けるという人道的な理由により、船舶の救助のための監視が行われて、「難民」たちは欧州に連れていかれることになった状況などがつぶさに描かれる。難民申請の数はドイツでは2010年で約5万人だったものが、2015年には150万人にも急増した。この流れをとどめるための政治的言葉を人道主義のもとで持たず、一方でこの変化に対して実際的に打たなければなかった対策はほとんど打たれなかった。
こと欧州において、本書で問題にされている移民に関しては、政治家やリベラルな経済学者は、最終的には経済的利益をもたらすものとして正当化しようとした。しかし、それはもはや現実的なものではないということが示される。端的に労働力の問題で言えば、スペイン、ポルトガル、イタリア、ギリシャの失業率を見れば、移民による労働力人口の増加は欧州全体で見るとおそらくは必要ではないことがわかる。
そもそも治安の問題は少なくとも控え目に言っても短期的には大きく悪化した。その上で、経済的利益を得られるのは移民のみで、以前から住んでいる欧州人にとっては移民は彼らの生活を豊かにするものではない、そう欧州の大衆は感じつつあり、そして行動にも表しつつある。
ここで根深く大きな問題となるのが宗教の問題だ。自らはたいして宗教など信じていないのに、相手の宗教は尊重しなくてはならない。その宗教はある意味では欧州の社会に対して敵対的ですらあるにも関わらず。欧州で宗教が再び政治的な問題となるとはしばらく前には思ってもいなかったのではなかったか。『シャルリー・エブド』の襲撃殺害事件の前、すでに『悪魔の詩』が出版されたとき、翻訳者も含めて関与した人々は暗殺の対象になり、そして複数の方が実際に殺害された。その後、パリで何度も死傷事件は起こり、コペンハーゲンを含めて欧州各所で同様の事件は起こった。リベラルな「正しき」人々は、彼らは真のイスラム教徒ではないのだという論理を用いる。本来、イスラム教は平和を希求し、暴力を否定すると。それは正しいかもしれないが、事件を起こした多くのものはイスラム教徒を自認し、イスラム教を主な宗教とする国から来たのだ。彼らはテロを信奉するものではないにしても、イスラム教徒ではあるのだ。そして、彼らを受け入れる側は宗教的な支えを失いつつあるコミュニティであり、そこが問題の核心となっている。欧州は、宗教を手放す代わりに多様性を受け入れることで穴埋めにしようとした。一方の側は、その多様性には価値を置かない。ここに埋め難い対立がある。
「戦後の文化となった人権思想は、まるで信仰のように自らを主張し、あるいは信奉者によって語られる。人権思想はそれ自体がキリスト教的良心の世俗版を根付かせようとする試みなのだ。それは部分的には成功しているかもしれない。だが必然的に自信を欠いた宗教にならざるをえない。なぜなら、そのよりどころに確信が持てないからだ。言葉は隠れた秘密を明かす。人権を語る言葉が立派になり、その主張が執拗になるにつれて、このシステムにその大志を果たす能力のないことが誰の目にも明らかになっていく」
彼らは人権思想がこのような形で脅かされるなどとは思わなかったのではないだろうか。
それでも欧州は難民を受け入れ続ける。そこには欧州人が犯した過去の原罪が影響しているのではないのかというのが著者の見解だ。東欧と西欧の難民施策に対するあからさまな違いは、その国の経済力の差だけで説明できるものではなく、過去の行動に対する罪悪感ともいうべきものが影響をしていると言ってよいだろう。世界を武力によって征服し、原住民を制圧し、奴隷制度を作り上げ、ホロコーストを実行した、様々な過去の欧州の歴史を原罪として西欧の大国は刻み込まれているのだ。そして、一方では自分自身ではない誰かが犯した罪に対する謝罪的行動が甘い自己陶酔となっているのではないかとも問われる -「つまらない人間が、いっぱしの人間になるわけだ」。日本でも一時期、自虐史観としてレッテルを貼られて批判もされたものと似ている。しかし、それは似てはいるが、決して同じではない。欧州のそれは、より深く、そして抗いがたい。
欧州が20世紀前半に自らの行動の結果から受けたものは、自分たちが想像するよりも深く広く染み至るものなのかもしれない。その態度は先進的であると見做され、自負されながらも、その特性のゆえに脆さを孕むものであったのだ。
「もしまだすべてに優先する思想というものが残っているとしたら、それは「思想は問題だ」という思想である。もし何らかの価値判断がいまだ共有されているとしたら、それは「価値判断は誤りである」という価値判断である。もし何らかの確信がいまだ残されているとしたら、それは「確信への不信」という確信である。これは哲学にはつながらないかもしれないが、間違いなく一つの態度にはつながっていく。浅薄で、執拗な攻撃を受けたら生き残れそうにないが、取り入れるのはたやすいという、そんな態度である」
こうした価値観を持つ欧州の社会の中で、その文化には同化することのない移民が大量に入ってきた後に何が起きるのだろうか、というのがこの本を貫く問いとなる。
「結果として、現在欧州に住む人々の大半がまだ生きている間に欧州は欧州でなくなり、欧州人はホームと呼ぶべき世界で唯一の場所を失っているだろう」ー この本で語られたこの予言を、数十年後読んだときにわれわれはどう感じるのだろうか。
原題は、”The Strange Death of Europe”。「自死」は本書の内容からして意訳的に誤りではない。しかし、原題に現る”Strange”という形容に著者が込める意図には深い意味があるのである。
イスラム教とイスラム教社会は、最終的にはキリスト教がそうなったように、世俗化されることになるのだろうか。現状において、イスラム教の存在が彼らイスラム教徒のレゾン・ド・エートルとなり、対抗すべき非イスラム社会に対する心理上での絶対的優位を支えるものとなっているように思われる中では、その信教としての位置づけは過去のキリスト教社会におけるキリスト教の存在とは異なる意味を持っていると考えるべきなのかもしれない。そうだとすると、この根深き問題は欧州を、引いては世界をどのように行く先に導くものなのだろうか。その問いは、21世紀において目をそらさずに考えるべき問いのひとつであることは間違いない。本書は、この問いは語られるべき問いである、と語ることができる状況を作ることに貢献するという意味で重要性を持つと言ってよいかもしれない。
リベラルと自らを任じている人にこそ読まれるべき本である。
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(以下、蛇足)
一方で、中野剛志氏が書いた序文の内容はおよそ望まれるものではないと感じる。中野氏のマレー氏への称賛については賛同するところである。また、移民問題が日本でも重要な問題であり、新しい入国管理法や移民政策が大きな議論がなく進められることに対して問題であるということには同意できる。しかし、この序文は、まず移民の恐怖をいたずらに煽るようなものであってはならないはずだ。
まずこの本は、いわゆる移民排斥を進めようとする右派が書いたものではなく、自身の主張はそうではないにも関わらず事実こうなっているという所作が非常に重要なものとなっている。著者は、いわゆる極右勢力に与するものではないことを再三表明している。本書を通して、この本が届けられるべきリベラルなエスタブリッシュメント層を意識し、彼らに対して受け入れられるようにとても繊細に筆を進めている。
なによりも、日本の状況は欧州とは類似よりも異なる点の方が目立つ。単純労働移民を受け入れる法案を通したことに対して先見の明なき愚かな策であると鬼の首を取ったかのように批判をするが、そもそも入管法の対照は移民労働者であって、難民ではない。これはおそらくは大きな違いで、移民労働者であれば問題を起こしたものに対しては強制退去を命じることができるが、難民はそうではない。もちろん制度の抜け穴となってしまうリスクもあろうが、実のところこの違いは大きい。欧州でも問題になっているのは(自称も大量に含むが)難民の話であることは読めばわかる。また、安倍政権が人道主義の立場から受け入れを決めたわけでも、拒否することが政治的に危険であるからやむなくそうしたわけでもない。さらには宗教の問題も欧州とは大きく異なる。
「そして日本もまた、欧州の後を追うかのように、自死への道を歩んでいる。もっとも、一人のマレーも出さぬままにだが…」と自らの筆に酔ったように書いて序文を締めくくる。それは当然だ。欧州ほど日本は状況がひどくないからだ。なんとなれば、中野氏がそう言うのであれば、中野氏が日本のマレーになればよいではないかと。
なお、本書の中では「日本は移民をせき止め、居残りを思いとどまらせ、外国人が日本国籍を取ることを難しくする政策を実行することで、大量移民を防止してきた。日本の政策に賛成するかどうかは別にして、この高度につながり合った時代においても、現代の経済国家が大量移民を防止することは可能であること、またそれが「不可避」なプロセスでないことを日本は示した」とその政策を紹介されている。冷静には、この問題に関しては、まず欧州と日本の類似ではなく、その相違に注目して論じるべき問題であるように思う。
- 感想投稿日 : 2019年8月4日
- 読了日 : 2019年6月14日
- 本棚登録日 : 2019年6月15日
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