夜と霧 新版

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本棚登録 : 8925
レビュー : 1066
制作 : 池田 香代子 
澤田拓也さん ノンフィクション   読み終わった 

ずいぶんと前に読んだのは旧版の霜山訳のもので、おそらくは20年以上前のことだ。新訳は読んでいなかったのだが、Amazonで安くなっていたので、購入して改めて再読した。
旧版とこの新版、二つの版の読書体験の間に、自分は実際にアウシュビッツ・ビルケナウ収容所に行き、クロード・ランズマン監督のとても長いドキュメンタリー映画『SHOAH』を観て、さらに同名の本を読み、また最近もプリーモ・レーヴィ『アウシュビッツは終わらない』を読んだ。そのことで、旧版を読んだときとは当然また違う印象を持った。そもそも自分自身も、この20年の間に考え方も知識もそして立場も変わっている。今回の読書では、収監中の体験よりも、解放後の体験の方がより強い印象を残した。


本書は、「これは事実の報告ではない。体験記だ」から始まる。ここに書かれているのは、ナチスがホロコーストをどのように実行したのかではなく、強制収容所における収容者としての日常の体験、つまり「おびただしい小さな苦しみ」について、心理学者として分析したものである。その描写の中では、実際にそうであったのだろうが、ナチスの影は薄くぼかされている。実際の経験としては日々の中で「ナチス」といったシステムを感じることはもはやなかったのだろう。それよりも、収容者同志の争いや、収容者の中でも管理する側として選定されたカポーの優越感と横暴の方がリアルなものであった。有名な警句「いい人は帰ってこなかった」は、次の文章の中に出てくる。

「収容所暮らしが何年も続き、あちこちたらい回しにされたあげく一ダースもの収容所で過ごしてきた被収容者はおおむね、生存競争のなかで良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまっていた。そういう者だけが命をつなぐことができたのだ。何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく帰ってきたわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と」

収容生活の中では、「内面がじわじわと死んで」いき、他人の死に対しても無感動になったという。おそらくは驚くべきことに、そうなるまでにはそれほど長くかからず、著者によると収容所生活数日で感情が消失していったという。

「人間はなにごとにも慣れることができるというが、それはほんとうか、ほんとうならそれはどこまで可能か、と訊かれたら、わたしは、ほんとうだ、どこまでも可能だ、と答えるだろう。だが、どのように、とは問わないでほしい......。」

その苦しみの実態は安易な想像を拒むほどに重苦しい。ただ、その中でも家族への愛やユーモアはある種の支えになった、とも書かれる。

収容所にいたときの描写が中心であるため、本書で詳しくどのようにとは書かれていないが、解放された後も収容所にいた人びとを過去の体験が苦しめ続けていたことが示唆される。解放された後も収容者を苦しめたであろうことこそが伝えられるべきことなのかもしれない。
いくつか印象に残った言葉をここに書き写しておきたい。

「およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ」

「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない」

「わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ」

「収容所にいたすべての人びとは、わたしたちが苦しんだことを帳消しにするような幸せはこの世にはないことを知っていたし、またそんなことをこもごもに言いあったものだ。わたしたちは、幸せなど意に介さなかった。わたしたちを支え、わたしたちの苦悩と犠牲と死に意味をあたえることができるのは、幸せではなかった。にもかかわらず、不幸せの心構えはほとんどできていなかった。少なからぬ数の解放された人びとが、新たに手に入れた自由のなかで運命から手渡された失意は、のりこえることがきわめて困難な体験であって、精神医学の見地からも、これを克服するのは容易なことではない」

「「はっきり言って、うれしいというのではなかったんだよね」わたしたちは、まさにうれしいとはどういうことか、忘れていた。それは、もう一度学びなおさなければばらない何かになってしまっていた」

「不正を働く権利のある者などいない、たとえ不正を働かれた者であっても例外ではないのだというあたりまえの常識に、こうした人間を立ちもどらせるには時間がかかる」

「収容所の日々が要請したあれらすべてのことに、どうして耐え忍ぶことができたのか、われながらさっぱりわからない」

原題は、『...それでも生にしかりと言う』だ。それは単に解放されて、生き延びることができてよかった、ということではないのだ。単に収容所の生活は大変なものだった、というものだけでもない。生き残った人は、あのとてつもない受難には意味がなかったかもしれないということを背負って生きることになったのだと気が付いた。生き残った人こそ、「それでも」生にしかりと言うために努力をすることが必要になってくるのかもしれない。おそらくは、収容者は自ら受けた苦しみに意味を見つけられなければ、普通に生きることはとても難しいことではなかったのだろうか。誰もが収容所の悲惨さに目を向けるが、その後についても、むしろその後についてこそ心理学者としては考えるべきことが多かったのではなかったか。

広島の被爆者を描いた漫画『夕凪の街 桜の国』の次の言葉を思い出す。

「わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ。
思われたのに生き延びているということ。
そしていちばん怖いのはあれ以来本当にそう思われても仕方がない人間に自分がなってしまったことに自分で時々気づいてしまうことだ」

それでも生にしかりと言うことは果たしてできるのだろうか。それはアウシュビッツ以降問い続けられなければならない問いとなった。忘却されるべきではない。読まれるべき本。

レビュー投稿日
2015年8月2日
読了日
2015年7月18日
本棚登録日
2015年7月16日
5
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