『戦争は女の顔をしていない』では、苛烈を極めた独ソ戦に従軍した女性の声を集めたスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ。ソヴィエト社会の中で、勇ましい戦勝の物語の光の傍らで、視線を外させられていた知られるべきひとつひとつの物語をその影から掘り起こした。その彼女が、独ソ開戦当時に子供であった人びとにフォーカスし、彼ら彼女らの戦争の記憶を聞き取り、同じ手法でまとめたのが本書『ボタン穴から見た戦争』である。

独ソ戦において、著者の住むベラルーシはポーランドからモスクワに向かう進路に位置し、多くの村々がドイツ軍に占領され、家を焼かれ、無残に殺され、抵抗するパルチザンは強烈に弾圧された。一説では、全人口の1/4を失ったとも言われる。インタビューを受けた人たちは、独ソ開戦時に子供としてそのベラルーシで戦争を体験した。目の前で多くの人が殺されたのを見たし、それ以上多くの死体をその目で見た。その中には知っている人だちも多く交じっていた、そして父も母も。親が殺されるか、連れていかれたまま戻ってこなかったりして、孤児院や知人や親戚に預けられて育てられた子供も多かった。それが普通だった。

子供たちの目から見た戦争の記憶は、歴史のコンテキストを持たず、ときにそれだけ強烈な印象を残す。

著者は次のように語る。
「子供時代の記憶はもっとも強烈で悲劇的な瞬間をつかみ出して、大人が描いた模様に割り込んできます」

母親を目の前で銃殺された記憶を語るのを読み、単に可哀そうだと思われることを拒む冷厳さがそこにはある。語る人たちの言葉から、悲しみではないもっと切実な別の感情を抱いたことが感じ取れる。

「初めて爆弾が落ちるのを見たとき僕はもう僕ではなくて、別の人になってしまった。少なくとも、僕の中で『子供』は消えてしまった。まだ生きていたとしても、誰か違う人が脇から見ていた」

こういった証言を受けて、アレクシエーヴィチは次のようにこの本の主旨を説明する。
「誰がこの本の主人公なのか、という質問にはこう答えましょう。「焼き尽くされ、一斉射撃をあびた子供時代、爆弾や弾丸、飢餓や恐怖、父親を失うことによっても、死に追いやられたあの子供時代です」と。

この本の原題は、『最後の生き証人』である。自分がたまたまこの本を読み終えたのは2020年5月9日。1945年の対独戦勝記念日から数えてちょうど75年のその日である。つまり、ここに出てきた当時幼かった人たちでさえ、少なくとももう75歳以上になっているのである。

本書は次の証言で締められる。
「私たちはあの時期の、あの地方の生き残りの最後だって自覚したんです。今、私たちは語らなければなりません。
最後の生き証人です・・・・」

「最後の生き証人」という言葉をどう受け止めるべきなのだろう。彼らにとっての「死」は、今われわれの中にある「死」とは別のものであったのではないのだろうか。現代に生きるのわれわれの多くにとって、その人生のほとんどの時間において「死」は概念だった。当時子供であった彼らにとって、戦争は概念だったが、「死」はまさにそこにあるもので、いつ自らの上に降りかかっても不思議ではなかった具体的な何かだった。おそらくだからこそ、残されたこの命を大事にしましょう、などということは誰も言わない。少なくとも多くの人の話を聞いたアレクシエーヴィチはそういった言葉を選びはしなかった。命は大事なものだとも言わない。少なくとも命が大事ではなかったことがあったのを知っているからだ。そのようにして子供時代を失った人が、どのように世の中を見ているのか、それが今最後の生き証人たちの口を通して語られているのだ。

私たちは、また彼らが何を語ったのかよりも、何を語らなかったのかを、どのように語ったのかよりも、どのよ...

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2020年5月17日

読書状況 読み終わった [2020年5月9日]

書評家という仕事があるというのを初めて知った。よく考えると、書評を書くという行為は、それを効率よくやるためにはかなり特定のスキルと経験を必要とするのは明らかだ。新聞・雑誌には書評というものが載っているし、今ではWeb媒体でも書評が載っているので、書評を書くということを職業とすることが成立するのは決して不思議ではない。そういった書評家である著者の印南さんは、もともと音楽ライターだったのだが、2012年からライフハッカーで書評を書き始めて、今ではこの人が紹介するとその本が売れると言われている売れっ子の書評家だそうだ。

まず、感心したのは、紙媒体の書評(例えば朝日新聞の書評委員に選ばれて書くようなもの)を「トラッド書評」と呼び、WEB媒体の情報を得るために書かれる書評を「ネオ書評」と呼び、著者はこの新しい分野である「ネオ書評」を書くことを職業としているというものだ。ネオ書評の目的は情報提供であるため、そこに主観や批評は求められない、と明言する。したがって、特権的な意識を持たずに、かつ最低限の品質を保った文章を提供するということが重要になる。この「最低限の品質を保つ」という点は著者が強くこだわっているところで、言い換えると何度も出てくる「誠実である」という、著者が書評家としてもっとも大事にしている価値観につながっている。

ネオ書評は、まず読者に伝わること、読者の目線に立ち、できればその共感を得ることである。それが、まず書評家が目指すべきことで、それを決して上からの目線ではなく読者の目線に立ち、誠実に行うことが継続して書評を届けるために必要なことだという。書評の評価基準も「いい書評」「ダメな書評」というものではなく「誠実か否か」によって判断されるべきだと主張する。これは「いい本」と「ダメな本」という評価ではなく、まず誠実な本であるかどうかを基準とするという考えにも似ている。そう考えると共感できるポイントでもある。

著者は自分の書評の経験から、読書術を身につけたいのであれば、書評を書く習慣を付けろという。その理由として挙げた次の三つがもっともだと思っている。
・内容をまとめる習慣がつく
・自分にとって印象的だた部分を再確認できる
・その本についての記憶を効果的に残せる

自分もこうやってブクログに読書の記録を残すようにしているが、おかげで読書の質が格段に向上した実感がある。何年も前に書いた本の書評も残っているが、その内容を読むとずいぶんと自分も進化したように感じる。

どうやったら書評家になれるのかや、どうやったらうまい書評が書けるのかというノウハウ本として期待すると、それは書かれてはいるけれどもセンスとコツで、それを誠実に継続すべし、というくらいのことで期待外れに終わるかもしれない。それよりも書評家という職業がどういうものか分かったことが楽しめた点だ。

何よりこの本を読んだ効果としてよかったのが、自分の書評(これを書評と言っていいのであれば)の読者が、未来の自分であることが明らかになったことだ(もちろん自分以外の人にも読んでもらって、いいね!をしてもらえるととてもうれしいのだけれど)。何と言っても読む端からその本の内容など忘れていってしまっているから、ブクログの自分の書評はとても役に立っている。その読者(未来の自分)のために要約し、何を重要だと思い、何を考えたのかを記録するという目的のためにいくつか参考になる点があった。さて未来の自分はこの書評を気に入って共感してくれるだろうか。

2020年5月6日

読書状況 読み終わった [2020年5月6日]
カテゴリ ビジネス

Prime Readingで無料だったので斜め読み。

太平洋のチューク諸島、パラオ、南米のマチュピチュ、ウユニ湖、の旅を写真とともに紹介してくれる。
外出自粛の連休の最後にこういうのを読むのも悪くないかもしれない。
パラオの海は美しいし、インカの遺跡は荘厳だし、ウユニ湖の景色は神々しい。
旅のちょっとした事件も楽しそうだ。

若いときはギリシア長期滞在、東欧一人旅、北アフリカと旅行したのだけれど、最近はずっとご無沙汰になっている。
心に余裕がないのかもしれない。

2020年5月6日

読書状況 読み終わった [2020年5月6日]

5Gに関する本だが、知っている方の本だったので、こちらも手に取ってみた。コンパクトで悪くない。
周波数のかなり基本的なところから説明が入ったので、読者のターゲットはどういう層なのか不思議にも感じたが、技術的なことも含めて薄く広く5Gについて掴みたいという人向けと考えてよいだろう。まったく技術のことはわからないという人にはたぶん向かないし、プロトコルや無線特性を深く知りたいという人にも向かない。eMBB、mMTC、URLLC、と書かれる方が大容量、多接続、低遅延と書かれるよりも何だか気持ちがよいと感じるけれど、それ以上深いところまで踏み込まない人向けだろうか。

Chapter5以降に様々なユースケースや社会実装について書かれている。違和感はないけれど、いつ・どれくらい・という量的パラメータの話がない(誰もわからない)ので、ざっと目を通してあいまいに頷く感じで読み通せばよい本ではないだろうか。

2020年5月6日

読書状況 読み終わった [2020年5月5日]
カテゴリ 通信

アウシュビッツ強制収容所で、特殊任務(ゾンダーコマンド)をしていた数少ない生存者の貴重な証言。「特殊任務」とは、強制収容所において、ガス室への誘導と死体処理(毛髪や金歯の収集と焼却)の任務を担ったユダヤ人部隊のことを指す。彼らは普通の囚人よりも食事や住居の面でよい待遇を得られたが、通常知られてはいけない秘密を知った人間として、三ヶ月程度でSSにより始末される運命にあった。インタビューの対象となったシュロモ氏は、そうした特殊任務に従事していたのだが、アウシュビッツ撤退の混乱に紛れてSSの手を逃れ、さらには収容所で感染した結核にも苦しめられながらもなんとか生き延びることができ、こうして証言をしている。

強制収容所に関しては、すでに多くのことが明らかになっているように考えられているが、ガス室で具体的に何が起きたかに関する描写、1944年10月の特殊任務部隊を中心とした反乱の経緯、どうやって生き延びたのか、などは改めて貴重な証言記録と言える。

シュロモ氏が、自らの経験を語りだしたのが1992年。元になるインタビューが行われたのが2006年。すでに収容所解放から六十年が経過している。過去、自らの経験を話したときに、頭がおかしい、嘘をついている、という反応をされたことからずっと口をつぐんでいたのだという。また、自らが特殊任務についていたことが、彼の中で大きな罪悪感を伴っていたであろうことは否定できない。多くの証言者によれば、収容所で生き残ったこと自体がある意味で恥辱に感じられたという。特殊任務についていたというのであれば、その気持ちは本人が意識しているかどうかはわからないが、なおさらであろうと想像する。たとえ選択肢がなかったということが真実であったとしても、それでも自らを正当化し続けなければならなかっただろう。

本人は特殊任務に就いていたのではないが、プリーモ・レーヴィも「特別部隊を考え出し、組織したことは、国家社会主義の最も悪魔的な犯罪であった」と記している。
六十年前のことでもあり、その記憶はあいまいになり、人の記憶であるがゆえに無意識に作り変えられているところがあってもおかしくない。インタビューの流れは自然で、事実は改めて衝撃的はあるが、よどみなく整合性が取れている。当然、編集はされているからだと思うが、時系列的にも整えられていて読みやすい。同じく生存者であるフランクルの『夜と霧』やプリーモ・レーヴィの『これが人間か』や『アウシュビッツは終わらない』の内容とも矛盾はなく、彼らの本の中で語られたことを裏付けるようでもある。しかし、それは、とりもなおさず、シュロモ氏の記憶が調整されていることの証左でもあるかもしれない。それでも、シュロモ氏が自身の晩年にあたり、正直にかつ誠実に自らの利己的な振る舞いも含めて何が起きたのかを伝え、記録しようとしていることは確かなように思えるのである。そして、そのことがなおさらフランクルやレーヴィが言う「最良のものは帰ってこなかった」という言葉に重みを与えるし、また同時に特殊任務に就いたユダヤ人を道徳的に非難することはできないとする理由がよくわかるのである。

シュロモ氏はギリシア系ユダヤ人だが、テッサロニキに住んでいたという。本書に出てくるユダヤ人街のバロン・ヒルシュという地名を検索すると、そのころインターンしていたギリシアの電話会社のオフィスにほど近いことがわかった。ギリシア第二の都市テッサロニキは「バルカン諸国のエルサレム」と呼ばれるほどユダヤ人が多かったのだという。欧州には多くの歴史が刻まれているものだと懐かしく思った。


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『溺れるものと救われるもの』(プリーモ・レーヴィ)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/...

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2020年5月6日

読書状況 読み終わった [2020年5月5日]
カテゴリ 歴史

『5Gでビジネスは変わるのか』というタイトルなので、その答えは「変わる」というものであるべきだが、本書を読み進めてもどうも「変わる」ということがしっくりと来ない。著者が「変わる」としているものの多くは、5Gだからこそ変わるというものであるよりも、データ x AI(ディープラーニング)を動因として変わるものであり、4Gでもほとんど間に合うようなものだ。おそらくは、5Gになったからといって次の日から大きく変わるというものではないだろう。
著者は、まずは幻滅期がやってくるというが、その点では正しいだろう。5Gでネットワークのパフォーマンスが中長期的には上がることは間違いないはずなので、中長期的な影響を通信事業だけではなく広く見ていくべきということになると思われる。その意味でもカスタマイズや特定業界向けソリューション(B2B2X)が注目点だというのは、すでに多くのところでそう言われていることではあるが、その通りだと思う。

5Gのバブルに乗っかろうとして書かれた本なのかもしれないが、バブルはいまだ来ずというところだろうか。
目から鱗が落ちたり、思わず手を打つような内容はなかった。

これから、『アフターコロナ時代の5G』といったような本が出てくるんだろうな..。

2020年5月5日

読書状況 読み終わった [2020年5月4日]
カテゴリ 通信

『両利きの経営』のオライリーの共著となっている。かつてオライリー氏に師事し、現在は日本で組織人事コンサル会社を経営する加藤氏が主著者となり、メインとなるAGC(旧旭硝子)のケースはオライリー氏と共著者のシェーデ氏が企業取材をしてMBAコースのビジネスケースとして作成したものがベースとなっている。AGCについては、加藤氏が組織コンサルとして関わり、オライリー氏に紹介をした形になっており、そのため全面的にAGCの協力を得て作成された。

本書の内容のまとめということでは、次のnoteのページですっかりほぼ過不足なくまとめられているので、そちらをご覧いただく方がよいかもしれない。図表も本の中のものがそのまま載っている。
https://note.com/yuyanyan_0510/n/n0a88dc2231ae

そもそも「両利きの経営」とは何かということでは、『両利きの経営』のレビューを見ていただきたい。
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4492534083

まず著者が強調するのは、既存事業の深化と新規事業の探索を同時に行う両利きの経営とは、戦略論よりもむしろ組織論であるということだ。そして、両利きの経営の実現のためにカギとなるのは、「組織カルチャー」のマネジメントだとしている。
この「組織カルチャー」を事業理念や社風といったふわっとした概念と捉えがちだが、具体的な仕事のやり方 ― つまり組織特有の行動パターンやそれを規定する組織規範 ― として捉えることが重要だと指摘する。そしてこの組織カルチャーを始めとして、「組織が変わる」ということについてトップからミドルまでイメージを具体的に共有することが必要となる。何を、何のために、どう変えるのか。仕組みの議論の前にそこに腹落ち感がないと失敗するのだ。

「変革は経営者によるトップダウンとミドル・若手からのボトムアップがミートするところで起こる(”Change happens when top down meets bottom up”)」という言葉が著者が考える理想的な変革の形をよく表現している。一方的なトップダウンではなく、また現場の努力だけに頼る経営でもなく、双方向のベクトルが互いに合わさることが必要ということだ。何よりそのために議論による説得ではなく、対話による納得を大切にすることが重要なのである。

もうひとつ重要なことは、「異なるアラインメントを必要とする事業は分離する」という組織デザインを行うことである。ここで分離は必ずしも分社化を意味しない。むしろ、完全な分社化は『イノベーションのジレンマ』で当初そのことを主張していたクリステンセンも考え方を変えているらしい。

AGCの例では、CEO-CFO-CTOのトライアングルと、4つのカンパニープレジデントという組織体制が明確に社員に認識されていることが。このリーダーシップの明確化によって、異なるアラインメントを必要とする組織の併存が成立しているように思われる。

チャンドラーの「組織は戦略に従う」の言葉を思い出した。


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『両利きの経営』(チャールズ・オライリー、マイケル・タッシュマン)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4492534083

2020年5月4日

読書状況 読み終わった [2020年5月3日]

稲盛さんの京セラフィロソフィの中で、働き方のエッセンスを取りだしたもの、と言えばよいだろうか。この本自体はそれほど長いものではなく、また稲盛さんの本や教えを知っているものにとっては、その内容も新しいものではなく、一度は聞いたことがあるものも多いだろう。おそらくは、この本だけを読んだ場合、まさに昭和の働き方だと批判的に読む人も少なからずいるだろう。社員のやる気を搾取し、長時間労働を強いるものであり、終身雇用を前提とした古い考え方だ、と。いや、そうではないというのであれば、それはとりもなおさず、この考え方を社員に納得させるために、経営者の考え方と行動が問われる、ということになろうかと思う。

しかし別の見方をすると、改めてこの本を読み、社会学の古典『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でマックス・ヴェーバーによって主張された、資本主義の発展を可能にせしめた天職に奉じるプロテスタントの倫理精神と、京セラフィロソフィとの間の論理的な親和性を感じるのである。
以前『心。』を読んだときも、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』との強い類似性を見たとそのレビューで書いた(https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4763132431)。働き方を論じる本書は、さらによりストレートに『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と京セラフィロソフィとの相似関係についてその正当性を確認することができるはずである。

本書で稲盛さんはまずこう宣言する。
「人間は、自らの心を高めるために働く ― 私はそう考えています」
決して、仕事の最終目的は、生活のためではなく、世の中のためだけでもない。仕事を通して自らが神に選ばれたことを証明するかのごとく仕事に取り組めということと同じではないか。それを支えるのがプロテスタントの教えなのか、フィロソフィの教えなのかという違いでしかない。

決して、好きなことを仕事にしなさい、や若いころは色々な仕事を経験しなさい、などとは言わない。
「自分の好きな仕事を求めるよりも、与えられた仕事を好きになることから始めよ」
と言い、そうすることで、
「なかば無理に自分に強いて始めたものが、やがて自分から積極的に取り組むほど好きになり、さらには好きとか嫌いとかという次元をはるかに越えて、意義さえ感じるようになっていったのです」

「仕事は仕事、自分は自分」ではなく「自分は仕事、仕事は自分」というくらいの不可分の状態を経験してみることが必要です。言ってみればブラック企業の心意気ですが、そういう状態に自ら進んでなるようになりなさいというのである。そして自ら燃える自然性の人間になれと説くのである。

さらに何とヴェーバーが資本主義の精神の鍵だと言った「天職」という言葉を、稲盛さんもまさに仕事がそうなるべきものとしてその言葉を使うのである。
「「天職」とは出会うものではなく、自らつくり出すものなのです」

稲盛さんは、この本の中でヴェーバーの出身国でもあるドイツの領事から次のような言葉を聞いたことを紹介している。おそらくこの領事はプロテスタントではなかっただろうか。
「労働の意義は、業績の追求のみにあるのではなく、個人の内的完成にこそある」

稲盛さんは次のように続ける。
「一方、人類に近代文明をもたらした西洋の社会には、キリスト教の思想に端を発した、「労働は苦役である」という考え方が基本にあります。聖書の冒頭にあるアダムとイブのエピソードを見ても、それは明らかです」
たしかにカソリックの国ではそうなのかもしれないし、カソリックで資本主義が発展できなかった理由がそこにあるのかもしれない。一方でプロテスタントの国では、ルターの聖書解釈によって導入...

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2020年5月6日

読書状況 読み終わった [2020年5月3日]
カテゴリ ビジネス

『コロナショック・サバイバル』は、4/7に7都府県に対して出され、翌週4/16に全国に拡大された新型コロナによる緊急事態宣言もまだいつ収まるのかも不透明な4/30に急遽出版された。著者の冨山氏は、産業再生機構時代にカネボウ、ダイエー、JALなどの企業再生に関わった。

コロナショックは、20年前のバブル崩壊後の金融破綻、10年前のリーマンショックとその後の東日本大震災といった危機に続く大きな危機だが、これまでの危機とは大きく異なる点がいくつかある。それはまずコロナの影響がグローバルであること、それが日本のバブル崩壊や東日本大震災のときと異なる点だ。中国というグローバル経済の成長を牽引するような巨大市場が今回はないことも大きい(中国はすでに大きく成長し、成熟してしまった)。さらに大きな相違点は、今回の経済の影響が金融セクターではなく、観光、宿泊、飲食、エンタメ、小売り、住宅などのローカル経済をまず痛めるということだ。『なぜローカル経済から日本は甦るのか』において著者は、ローカル経済が日本のGDPや雇用に占める割合の大きさを示したが、今回そのローカル経済から影響が始まることが大きい。そういった考察から、今回のコロナショックは、過去の危機をその広さと深さと長さにおいて大きく上回る可能性があると指摘する。

著者らの分析では、今回の危機はまずローカル企業(L)から始まり、グローバル&ローカルな消費停滞によるグローバル企業(G)に影響が波及し、そしてグローバル企業の資金繰り悪化を受けて金融システム(F)の破綻につながるのが最悪のシナリオになる。この流れを何とか食い止める必要があるのだ。その中でも優先するべきは、「財産もなく収入もない人々」と「システムとしての経済」であるという。今の政府の対策は十分なものなのかはわからない。もちろん100点の回答はないことは明らかであり、今の手厚い対策は将来の負担増や打ち手を狭めるリスクも負っている。著者が強く主張するように、危機が去った後、不必要になった手当が残存するようなことは避けなくてはならない。下手な邪魔や、自己満足のための不満の表明などは控えて、個人としての対応策を練るべきなのだろう。

おそらく今回の危機で、もともとの基礎体力がなかった企業は倒れていくだろうと予測する。手元流動資金の潤沢さ、平時における稼ぐ力(営業キャッシュフロー)、自己資本の厚み、が命運を分けるだろう。きちんとした経営がきていない基礎疾患を抱えたゾンビ企業はここで息の根を止められることになる。しっかりとした経営をしてきた企業が、これを機会として優位性の確保や買収などを通してさらに強くなることが期待されている。

著者は、この危機に際して、TA (Turn Around)からCX (Corporate Transform)にまで進んだ企業が次の世代にも生き残るのだという。それはこれまでの日本におけるローカル企業の低生産性と低賃金、グローバル企業の停滞を転換するきっかけとしなければならないのかもしれない。基礎疾患を抱えている企業は退場を迫られるかもしれないと著者はいうが、日本という国家も基礎疾患を抱えていることは明白である。舵取りを誤ると、事態を回復しようもないほど悪くしてしまう可能性もありうる。今のコロナショックは、将来必ず歴史の教科書に書かれるものだ。その危機をどう乗り切ったのかが、企業、国、世界といったレベルで記憶されることになる。その中で通信産業が果たすべき役割もあるはずだ。

本書で書かれたことは、まずは、簡単な現状分析と、それに臨むための危機における経営の心得やべからず集といった一般的なことがらである。具体的な提言について、著者は続編を準備しており、6月にも刊行予定だという。それまでにコロナの収束状況については今...

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2020年5月3日

読書状況 読み終わった [2020年5月2日]
カテゴリ ビジネス

プロローグでハワイの歌うカタツムリの伝説について持ってくるところでまずしびれた。この音を物語の最重要人物の一人であるギュリックが聞いていたというのも素敵な登場のさせ方であるし、このハワイマイマイの伝説が、最後に小笠原の歌うカタツムリにつながり、人間の作為によって絶滅してしまったハワイマイマイの運命に結び付けられるところなどは、物語の組み立てとして最高に美しいと思った。日本にもついに上質なポピュラーサイエンスの書き手が現れたのかもしれない。

「雲海に包まれたハワイの高峰のように、孤立した高い峯の頂にひとりで上りつめてしまったギュリックの意義、その理論がもつ本当の価値は、当時の主流の生物学者たちに理解されることはなかった。その真の重要性が理解されるのはずっと後のこと。1930年代以降、メンデルの遺伝学とダーウィンの進化理論が結びつき、総合説 - 現代の進化学の枠組み - が誕生するまで待たねばならなかった」
と第一章を締めくくり、そして続く第二章を「眼下に見える海は、白く縁どられたエメラルド色の結晶体のようで、沖に向かって、さまざまに彩りを変えつつ彼方で紺碧の空と一線を画していた」-と始めて、南太平洋のポリネシアマイマイの研究にいそしむクランプトンの話題に振っていく辺りの表現力はため息が漏れるほど素晴らしい。クリンプトンの研究は、ギュリックの中立的な偶然の変化による非適応な種分化を膨大なデータによってサポートすることになるのだ。

ダーウィンに始まり、ウォレス、ギュリック、フィッシャー、ケイン、クラーク、ライト、ドブジャンスキー、ハクスレー、グールド、マイアなど進化生物学の対立と発展の物語がカタツムリの研究をひとつの軸にしてうまく語られる。そして中立進化説に多大な貢献をした木村資生や速水格といった日本の研究者の関係も詳細にわたって語られる。実をいうと著者の千葉氏は速水格の研究室の出身であり、小笠原諸島のカタマイマイのフィールドでの研究も本当に生き生きと語られる。

場所によって変わるカタツムリの殻の特徴は、適応進化と中立的進化の対立に関して、具体的な分化の様子をフィールドで確認することができるため、非常に有用でわかりやすい対象であったのだ。また時代の途中から遺伝子解析を使うことができるようになったことで研究が進んでいった様子もよくわかる。

ポピュラーサイエンスが好きな人にはぜひ手に取ってもらいたい。進化論にそれほど興味がなくても楽しめるはずだ。お勧め。

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kindle版では、位置で26%のところから参考・引用文献が始まっている。これは紙の本ではどうなってるんですかね。まだまだ残っているつもりで読み進んでいたら急に終わってしまった感があり、めちゃくちゃ長いんじゃないのと思っていたので、ほっとしたのと残念になったのと両方の気持ちがわいてきた。いずれにしても、多くの地道な研究の積み重ねによって出来上がった作品であることはよくわかった。

2020年5月3日

読書状況 読み終わった [2020年5月1日]
カテゴリ 科学

村上春樹が父との関係を語った本。あまりにも短いが、「他の文章と組み合わせることがなかなかむずかしかった」ために、イラストレーションを付けて独立した小さな本として出版される運びとなったという。確かに、そのテイストは村上春樹らしくはないかもしれない。

もし、村上春樹が息子をもうけ、自ら父になっていたとしたら、この本はこれとは違う形になったのではないだろうか。もしかしたら、書かれることさえなかったかもしれない。当の父が鬼籍に入り、母も高齢となって混濁によって意志の疎通が定かでなくなり、そして自分が父となることがおそらくないだろうという条件がそろい初めて書かれる条件がそろったのかもしれない。それはあまりにも個人的ではあるが、それだけではなく親族的でものであったのではないか。親族的な領界のものが個人的な領界のものに質的に変化をしたことでようやく公に向けたものとしても書くことができたともいえるのかもしれない。

村上春樹と父との関係は、深いコミュニケーションと親愛さを欠いたもののように感じられるが、それはある意味ではありふれたもののようにも思われる。一方で、村上春樹が本に書かなくてはならないと考えたであろう理由は、父との関係以上に父の中国従軍の経験であったのだろうか。父からついに具体的なことを聞くことはできなかったが、おそらくは記憶のひとつとして引き継がれなくてはならないたぐいのものだと感じたのか。それは、父にとって自分が誰かの代わりに生き残ったという罪悪感と重荷の意識なのかもしれない。その子供として、何か別の意味であるとしても重荷を背負うべきだと考えたのだろうか。「歴史は過去のものではない。それは意識の内側で、あるいはまた無意識の内側で、温もりを持つ生きた血となって流れ、次の世代へと否応なく持ち運ばれていくものなのだ」というとき、そういう意識が働いていてもおかしくはない。

自分のことでいうと、もうすぐ父が亡くなったときの年に近づいている。がんとの闘病の末に亡くなったのだが、その当時は今では信じられないが、本人にはそのことを伝えずに母にだけがんの事実が告げられていた。しかし、おそらくは死を意識していただろうと思う。それでも、離れて住んでいたこともあり、ほとんど父の人生について聞くことはなかった。今、息子との間の関係もまあ似たようなものではある。ある時期には父との会話はまったく必要だと感じるものなのだろう。そういったものは時間と偶然を必要としているものなのかもしれない。

「我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか」

村上春樹らしくない、とても短い本。

2020年5月2日

読書状況 読み終わった [2020年4月27日]
カテゴリ 小説エッセイ

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』のコミック化である。『戦争は女の顔をしていない』がコミックになるというのは想像しづらいものがあったが、こうやって絵にして読んでみると、その意義も十分にあると思えた。何より、このコミックを読んだことで、より多くの人が『戦争は女の顔をしていない』を手に取ってくれるのであれば、素敵なことだと思う。

コミックの中では7話が収録されていて、14人の話を元にしたエピソードが綴られている。どれも印象的なエピソードだ。それでも、『戦争は女の顔をしていない』が取り上げた大きなテーマである、戦争の後、女たちの勝利が取り上げられたことについては表現しきれていないことは気にかかる。コミックにはしづらいテーマではあるかもしれない。その意味で、やはり『戦争は女の顔をしていない』は読んでほしいし、第二巻以降でより重いテーマにも触れられることを期待もするのである。

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『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4006032951

2020年5月2日

読書状況 読み終わった [2020年4月21日]
カテゴリ コミックス

著者の安宅さんは、Yahoo! JapanのCSOをされている。東大で生物化学工学を学んだ後、マッキンゼーに入社、イェール大学で脳神経科学でPh.Dを取得し、再びマッキンゼーに復帰し、現職に至るという経歴を持つ。

本書のタイトル「シン・ニホン」は、著者が2016年11月のTEDx TALKのときから使っていたワードである。
<https://www.youtube.com/watch?v=G6ypXVO_Fm0>
このYouTubeの動画では、比較的楽観的な感じで、フェーズ1では欧米のテックジャイアントにまったく歯が立たなかったが、いずれ確実に来るフェーズ2、フェーズ3では再び日本を立ち上がらせることができると宣言していた。何より「シン・ジャパン」の言葉が、「シン・ゴジラ」の最後につぶやかれた「スクラップアンドビルドでこの国は立ち上がってきた。今度も立ち直るだろう」という劇中のセリフを意識しているからだ。そのときから三年以上が経った今、著者の言葉には希望を重ねながらもいくばく焦りがにじみ出ている。三十年を超える停滞の末に、すでにG7の中では多くの一人当たりで示される指標においては最低位に甘んじる日本は、このままでは遠くない未来に中進国になってしまうと危惧している。

まさに今そこにあるビッグデータとAIの時代。その世界で日本と日本人はどうするのか、というのが本書で語られる主題であり、また再び日本を世界のリーダーの一員にするのだという思いが本書に込められたメッセージである。世の中が、リニアからエクスポネンシャル(指数関数的)な成長曲線を描いて変わる時代においては、この三年という時間は長かった。多くのことが実際に目に見える大きさで変わってしまった。予想を越えていくのがこの時代の特性であるとはいえ、特に中国の台頭は想定以上で目を見張るものがあった。それでもまだ、時代は「確変モード」に突入したと言い、国際的な地政学の変化により、アジアに重心が移行する中で、今こそ日本にとって千載一遇のチャンスが来ていると鼓舞するのだ。なぜなら、日本には技術や生産技術面でのベースや先進性を取り入れるユーザ層が存在している。何よりモバイルインターネットもまずは日本で花開いたのを忘れるべきではない。そもそも明治維新でも戦後の復興でそうであったように、「スクラップアンドビルド」が得意な国民でもあるのだ。もちろん、そこには外圧やそうせざるを得ない環境があったのだが。だが、そう考えると今はそのときではないのか。

そこで問題になるのは若い世代の人材育成だ。いや若い世代だけではないかもしれない。教育者、教育システム含めたアンラーンが必要だという。これまで学校教育の中で重視された覚える力に代表される「スポンジ力」よりも「気づく力」を引き出すようなシステムにしていかなくてはならない。また、国際競争力の観点では、同じ漢字という文字を使う日本語が母国語であることを強みとして、中国語に力を入れることも当然必要だろう。もちろん、いかにしてこれから80歳、90歳となる方も含めて高齢者を社会で戦力化するために、どのようにして戦略を立てて実行していくのかということが、世代を通した人的リソース戦略としてかなり重要だ。

一方そういったことを考えるときに、かなり暗澹とした気持ちになるのは、著者も指摘するようにこの国の科学技術にかける予算の少なさであり、正しくそのことに連関する科学者に対する尊敬と待遇の低さである。思うに一時の過去のバブル期において、金融系を中心とした文系キャリアに比べて理系キャリアの生涯リターンの期待値があまりにも低く、一定の優秀層から科学技術系のキャリアを選択する動機を奪ったことにも遠因があるのではないだろうか。また博士号に対する世間的な評価の低さにも問題がある。...

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2020年5月3日

読書状況 読み終わった [2020年4月18日]
カテゴリ ビジネス

オウム裁判を追った森達也の『A3』の中で、麻原彰晃の視覚障害は生まれ故郷の熊本県八代市で摂取した有機水銀による水俣病の症状ではなかったのかと言及されている。森達也自身も八代市に足を運んでもいるのだが、そのことを森達也に気づかせた本として藤原新也の『黄泉の犬』が紹介されている。そのとき比較的すぐに『黄泉の犬』を手に入れたのだが、なぜか少し目を通しただけで、そのまま読まずに放置していた。

ところが最近、「NHK 100分de名著」シリーズの石牟礼道子の回をまとめた本を読み、その中で石牟礼さんの四十年来の親友である染織家で人間国宝の志村ふくみさんの言葉として次のような一節が紹介されているのを見て慄然とした。それは、石牟礼さんが「水俣を体験することによって、私達が知っていた宗教はすべて滅びたという感じを受けました」とインタビューで語ったことを受けて書かれた言葉である。

「すべての宗教が滅び、水俣のような受難とひき替えに新しい宗教が興るか、もし二十一世紀以後生きのびることができれば次の世紀へのメッセージとして宗教的な縦糸が果たしてのこせるのか、またそれを読み解くことができるか、これらの予言が常に私の内部で因陀羅網の網の目のようにゆらぎふるえつつ何かを期待していたのだろうか」

既存の宗教も、どんな宗教家も、水俣の惨状と水俣病患者に対して何の救いの言葉もかけることができなかったのである。そのことは麻原彰晃その人にどのような思いを抱かせたのだろうか。

本書の著者藤原新也は、オウム真理教事件が起きた後、麻原彰晃の兄に会おうとして八代市を訪ねたときに、住民の言葉からそこが水俣市とほど近いことに気が付く。何より鍼灸師として地元で生計を立てていた麻原の兄もまた、より深い視覚障害を負っていたのだ。

麻原の兄はマスコミを避けて身を隠して生活をしていたため、著者は八代市では会えなかったが、その後何とか知り合いの紹介によって顔を合わせることができた。そこで、麻原は手のしびれを訴え、水俣病の申請をして国からその申請を却下されていたという話を聞かされる。麻原は誰よりも八代海で取れた魚やシャコを好んで食べていたのだという。

オウム真理教が新聞紙上を賑わせていた同じ時期、水俣病に関する政府最終整理案が審議されているという記事が同じ紙面に載ったという。そのときに著者は、「オウム報道の記事の横に並ぶ水俣病の記事との行間に時代を超え、ハーモナイズする和音のようなものをなぜか感じた」という。そして、「水俣病の患者とサリンの被害者が重なって見えた」という。そうしたとき、先の志村ふくみの言葉がその文章の当初の意図を外れて不吉な符合として立ち現れてくるのを見るのである。そして、石牟礼の言う、水俣以降全ての宗教は滅びた、という言葉がますますの重みを持ってくるように思えてくる。

著者は、当時より前に麻原について水俣病との関係に言及したものは皆無だったという。麻原の出身地、視覚障害、それらから水俣病の関連を報道機関が想像しなかったとは思えないにも関わらず。それは「マスコミの保身」であり、そのせいでことの本質が見逃されてたのではないかと著者は言う。水俣病は、麻原を断罪しようとする国やマスコミにとっては、余計なものであったというのだ。皇太子妃になったばかりの皇后雅子の祖父がチッソ社長であったということも影響がなかったとは言えない。そして一方、被差別の意識からか麻原としてもそれを持ち出すことはなかったものと想像される。

なお、プレイボーイ誌に連載された当時、著者による麻原と水俣病との関係への追究はまったく中途半端に終わっている。なぜなら、ニュースソースである麻原の兄から、身を隠して生きなくてはならないという切迫した思いから、以降の掲載について強い拒絶を受けたか...

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2020年4月13日

読書状況 読み終わった [2020年4月11日]

『苦海浄土』は、水俣市出身の石牟礼道子が水俣病患者とその家族の言葉を、地元の民であるからこそできるような形で表現をした、今もって読まれるに相応しい本である。2018年にその生涯を閉じた石牟礼さんだが、その社会的評価はもちろん、文学的評価も晩年になっても上がっているように思われる。本書は、まだ存命であった2016年にNHK 100分de名著シリーズのひとつとして放送された際のテキストをベースに「『椿の海の記』の世界」を追加して出版されたものである。

石牟礼さんは『苦海浄土』を新しい詩のつもりで書いた、という。それは、新しい態度と形を必要とする出来事であったのだ。言葉を奪われたものたちの代わりに言葉を紡ぐことは、それは新しい詩を書くという体験であったのだ。

「『苦海浄土』は水俣病の患者たちが本当の語り手であって、自分はその言葉を預かっただけなのだ、という強い自覚が彼女にはある。表現を変えながら彼女はさまざまなところで、水俣病の患者たちは、言葉を奪われて書くことができない、自分はその秘められた言葉の通路になっただけだと語っています」

だからこそ、『苦海浄土』そのもののテキストにあたってほしいと思う。このシリーズを担当した若松さんもそれを強く勧める。そして、それが読み進めることができなくても、そういう本であり、そのことに意味があるのだという。

「読み終えることのできる本は、たくさんあります。しかし、人生で何冊かは、読み終えることのできない本に出合ってもよいように思います。むしろ、そうした問いを投げかけてくれる書物こそ、真に文学と呼ぶにふさわしいものなのではないでしょうか」

最後まで読まなくても言いながら、読むことを勧めるというのはまったく不思議な本だが、その勧め方が至極当たり前のように思える本だ。「単に記号としての文字を追うのではなく、五感をすべて使って「感じ」てみる。それが、『苦海浄土』という作品を「読む」ときに、とても重要」だという若松さんの言葉は腑に落ちる。

その若松さんが強調することのひとつが、『苦海浄土』に登場する水俣病患者が決して恨み言を言わないことだ。それは、「背負いきれないような苦難を背負ってもなお、世界は美しいと語る無名の人々の言葉」が『苦海浄土』の中にあるのだ。

「ひと一倍、魂の深か子」と祖父に紹介される杢太郎少年は、こうやってその一部を触れらるだけでも改めて印象的だ。この部分は、高橋源一郎も注目して自著『恋する原発』の中で紹介したものだが、杢太郎少年の祖父の祈りの所作は「祈り」というものの中心にあるべき純粋さを感じる。ある水俣病患者は、水俣病は「財産」だという意味で「水俣病は『のさり』だった、という。「のさり」とは現地の言葉で「豊漁」のことを指す。その身に受けた水俣病を単純に否定すべき厄災とせず、また原因となったチッソや永く無策であった政府を恨むことを忌避し、それを天からいただいた贈り物であると捉えるのだ。

水俣病が起こったとき、日本の宗教会は沈黙した、という。石牟礼は、水俣病患者とその家族の想いの中に、既存の宗教にはない、信じることの原点をそこに見るのである。そこにあるのは純粋な祈りだ。

「石牟礼は、そのことから目を離さない。苦しんでいる者から、計り知れないほど深い祈りが発せられているのをけっして見逃さない」

そして、次のように言う。

「大きな悲しみを背負った者の生のなかにこそ、至上の美がある」

そう言うことができるようになるまでに、どれだけの苦しみと悲しみを見なければならないのだろうか。
少なくとも60年ほど前の日本において、これだけのことが起きたということを記憶しておかなければならない。そのための言葉を紡ぐものとして、石牟礼道子を得たことはわれわれに...

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2020年5月2日

読書状況 読み終わった [2020年4月11日]

ガザニガは分離脳の研究で有名な脳神経科学者である。分離脳とは、右脳と左脳を中央で接続する脳梁と呼ばれる神経線維を病気かもしくは外科治療によって失った患者の脳である。脳梁がなくなっても、患者は外面的にも内面的にも比較的不自由なく生活を行っていくことができるのだが、うまくデザインされた実験によって分離脳患者は右脳と左脳で完全に分離した意識体を持っていることがわかった。そして、それにも関わらず意識は統一された自己として自らを認識して行動統制を行うのだ。左半球は視野の左半分が見えていないにもかかわらず、そのことに気がつかないのだ。

ガザニガの分離脳の研究としては、多くの脳科学のポピュラーサイエンスの本で紹介されるニワトリとシャベルの絵の実験が有名だ。
左半球(右視野)にニワトリの足の絵、右半球(左視野)に雪景色を同時に別々に見せて、見たものに関係する絵を選択してもらうと、右手はニワトリを、左手はショベルをそれぞれ指さす。これに対して説明を分担する左半球は、見ていないショベルを左手が指したことに対して、「ニワトリ小屋の掃除にはショベルを使うから」指したのだと答えるのである。興味深いことは、「わかりません」とは答えないことである。通常は脳梁を通じて右半球の活動も左半球に共有されるが、脳梁がなく雪景色を見たことを知らない左半球は、右半球(左手)が指さした絵を見て、まさに左半球は自分が選んだものだとしてその状況を解釈しようとするのである。つまり、左半球は自身で起こっていることについて状況と矛盾しない後付けの答えを見つけるのである。ガザニガはこの左半球の役割を「インタープリター」と呼んでいる。

右半球の情報は入ってこないとしても、情動、視覚、体性感覚は右半球を通して身体に影響を与える。したがって分離脳患者の左半球は、自らが認識する状況に辻褄の合うストーリーを仕立て上げることができると、それをまったくの真実と疑いもなく信じこむのである。左半球にとって事実は重要だけれども、かならずしも事実は必要ではないのだ。それは、有名なニワトリとシャベルの実験のように非常に不思議だ。さらに不思議なのは、当の本人がそれを全く不思議だと思っていないことである。

ガザニガたちの分離脳患者の実験により、右脳と左脳のそれぞれに得意な領域があることが明らかにされてきた。俗によく言われる右脳派と左脳派の違いなども一部はこれらの研究から来ているのだが、脳の右半球と左半球の違いは、科学的にも一定の根拠があることが示されているのだ。
「二つの半球で起こる意識的な経験は明らかに異なっている。片方は推論を引きだせる世界に生きているが、もういっぽうはそうではない。右半球の世界は額面とおりでしかない」

また視覚処理にも左右で独自の役割を持っている。こちらは右半球優位である。特に右半球は三次元世界を脳内に構成する視覚インタプリタ―が入っているのである。鏡像反転の像を判別する、線の向きのかすかな差異を検知する、頭の中で対象物を回転する、絵の一部から全体を推測する、といった高次の作業は右半球で行われ、左半球はそういった能力は著しく下がる。

もう少し一般化すると分離脳の研究によって左右の半球での役割分担の違いの研究がされてきたが、むしろ「脳は二つのシステムに分けられるのではなく、複数のダイナミックな精神システムの集まりととらえる」べきでもある。

例えば、脳の機能局在はかなり細分化されていて、損傷個所によって人工物の区別はできるのに動物の区別ができなくなったち、トースターが認識できなくなたり、果物が認識できなくなったり、といったかなり不思議の症状を呈することがあるようだ。

「意識は総合的な単一のプロセスではないというのが定説だ。意識には幅広く分散した専門的なシステムと、...

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2020年4月29日

読書状況 読み終わった [2020年4月9日]
カテゴリ 科学

さすがブルーバックス、入門書のちょうど少し上を行くレベルで、分子生物学に少し興味が出てきたな、という自分のような読者にとって少し知識のレベルアップを図るためにちょうどいい感じで引き上げてくれる。この本で紹介された遺伝子重複や「遺伝子族」の概念などは、そういった知識引き上げアイテムのひとつと言える。1994年に出された『分子進化学への招待』をその後の同分野の発展に伴って二十年後の2015年に改版して出版したもので、最新の知見が反映されている。

分子生物学は、木村資生が分子進化の中立説を唱えてパラダイムシフトに値する大きな貢献をしたこともあって、日本でも盛んに研究されている分野であるので日本人の手になるものでも比較的その鮮度と正確さが保証されていて頼もしい。著者も日本の分子生物学の研究者だが、本書の中でも紹介されている「オス駆動進化説」を唱えて、一定の成果を挙げている。「オス駆動進化」というのは、遺伝子のエラーが細胞分裂の際に発生することから、その分裂機会が多い精子の方が卵子よりも遺伝子のエラーすなわち進化の元ネタを提供しやすいというものである。著者らは、常染色体と性染色体の変異率を調べることで、それが事実であることを証明している。

「オス駆動進化説」の他にも、カンブリア爆発が可能になったのは、単細胞時代にすでに作られていた遺伝子を再利用することで表現型の大進化が発生したというソフトモデル説や、ネアンデルタール人の遺伝子解析をも含む分子系統遺伝学、真核生物の誕生の起源、などが紹介されている。また、最近ではとみに話題になっているウィルスの進化、その進化がなぜかくも桁違いに速いのか、にも触れられている。生物進化の学問的探求において遺伝子の分子的解析が可能となったのは画期的なことである。最近読んだ『歌うカタツムリ』でもそのことを強く感じたが、それこそ生物進化のあらゆる領域でまだまだ隠された秘密があり、それが今まさにベールがはぎとられていく感じがあり、まさに興味をそそる分野である。

なかなか骨のある本で、改版されたことも含めてブルーバックスらしい一冊。

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『生物進化を考える』(木村資生)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4004300193
『歌うカタツムリ ―― 進化とらせんの物語』(千葉聡)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4000296620

2020年5月6日

読書状況 読み終わった [2020年4月1日]
カテゴリ 科学

プリーモ・レーヴィは本書を書き上げたその一年後に再発した鬱病の影響であったのか、自宅の集合住宅から階段の手すりを乗り越えて飛び降り自らの命を絶った。
アウシュビッツの生存者であった彼が、アウシュビッツについて正面から論じたのは、解放されて1年半後に出版した『これが人間か』以来で、そのときよりすでに四十年が経っていた。改めて強い強度で過去の経験に向き合うことは、彼の精神にも重荷であったのかもしれない。いや、そのように彼の心の中をまず軽々に伺うような態度自体、この本を読むにあたって彼がまず拒否する態度であるかもしれない。

いずれにしても本書を通じて感じることは、レーヴィが自らの収容所の経験をその後の人生を通してずっと考え続けてきたということである。そして、そのことを読者に何とか伝えようと言葉を重ねているということだ。それを最もよく感じることができるのは、【灰色の領域】と【恥辱】の章で書かれた考察であろう。

【灰色の領域】と題された章は「私たち生き残りは自分の経験を理解し、他人に理解させることができたのだろうか」という言葉から始まる。ラーゲル(絶滅収容所)の中の関係は、典型的に人びとが「理解したがる」ような抑圧者と囚人という単純なものではなかった。レーヴィは、その場所を複雑に絡み合い階層化された小宇宙と呼び、そこには「灰色の領域」があったという。様々な形で、収容所当局に協力するユダヤ人の数は相当数に上った。それら灰色の領域は、悪魔のようなやり方で収容所のシステムの中に組み込まれていたのだ。それは聞く人によっては意外なことではあったが、収容されたものはすぐに慣れていき、そしてあるものは協力者として振る舞うようになった。

「何らかの形で、おそらく善意で、強制収容所当局に協力した囚人たちの問題は瑣末なものではなく、歴史家、心理学者、社会学者にとって根本的な重要性を持つ現象なのである。そのことを記憶していない囚人はいないし、当時の自分の驚きを覚えていない囚人はいない。初めておどしつけ、侮辱し、殴りつけてきたのはSSではなく、他の囚人たち、つまり「同僚たち」だった」

収容所に辿り着いたユダヤ人をガス室まで誘導し、その死体を焼却したのもまた特別部隊と呼ばれるユダヤ人だったのだ。彼らは食事や居住の面で他の囚人よりもよい待遇を得られた代わりに、証拠の隠滅という観点から数カ月後には確実にSSによって処分される運命にあったという。「特別部隊を考え出し、組織したことは、国家社会主義の最も悪魔的な犯罪であった」

しかし、レーヴィは灰色の領域に踏み込んだ人びとを道徳的に断罪するべきではないという。ラーゲルの過酷な状況は、人びとに妥協を強いる。そういった状況であるからこそ、より多くのものが権力というものに従順に従うことになった。

「この悪意の深淵の深さを探ることは簡単ではないし、愉快でもない。しかしそれはなされるべきだと思う。なぜなら過去に犯されることが可能であった犯罪は、未来にもまた試みられ、私たちや私たちの子孫を巻き込むかもしれないからである」

もうひとつ、われわれとっては初めてそれを耳にするときにはこれもまた意外であるが、収容所を経験した者にとってはほとんどのものが当然だと受け容れているものとして、収容者が解放のときに至っても、またその後もずっと、「恥辱」を感じていたというものだ。このことについてレーヴィは【恥辱】と題する章を設けて、言葉を重ねる。それが収容所の経験を理解するためにはとても重要なことであるからだ。

「多くの者が(私自身も)監禁中に、そしてその後に「恥辱感」を、つまり罪の意識を感じたということが、数多くの証言によって確かめられ、確認されている。それはばかげていると思えるかもしれないが、事実である」

「...

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2020年5月1日

読書状況 読み終わった [2020年3月22日]
カテゴリ 哲学批評

藝大入試を目指した高校生たちの受験もの漫画。

娘が今年(2020年度入学)美大受験生だったので、かみさんが買ってきたものを1巻から6巻まで一気読み。美大の受験ってこういうことをしていたのか、と知らない世界がそこにはあった(いや、知ってろよと)。娘が受験準備をしているときに読んでいればよかった。

こういうのを読むと漫画コンテンツの表現力というものは本当に侮れないと思う。
娘はこの春から美大生(無事合格。藝大生ではない)として充実した時間を過ごしてほしい。

2020年3月20日

読書状況 読み終わった [2020年3月20日]
カテゴリ コミックス

ナチスドイツ配下でのユダヤ人の虐殺は、アウシュビッツなどの強制収容所だけではなかった。東欧やソ連、南欧などで、警察予備隊がユダヤ人の強制移送とともに大量の銃殺を行っていたことが知られている。

本書は、そういった警察予備隊のひとつである第101警察予備大隊に関する起訴状の中に書かれている約125名の司法尋問書を分析したものである。著者はホロコーストに関する公文書や裁判記録を長年にわたり研究を続けていたが、この起訴状ほど心をかき乱される衝撃を受けたものはなかったという。司法尋問という性格上、その証言には虚偽も混ざっていることだろう。また、終戦から時間が経った後の尋問であったことから記憶の混乱や抑圧もあったはずだ。しかしながら、これだけ多くの人の証言であるならば整合性を丁寧に確認して総合することで多くの真実が浮かび上がってくることが期待できる。それが、本書の著者がやったことだ。

対象となった第101警察予備大隊の特徴のひとつは、彼らが決してナチスのエリートでも心酔者でもなく、また反ユダヤの信念を持っていたのでもなく、さらにナチが政権を取った後の極端な教育だけを受けたわけでもないドイツの普通の30代~40代の男性を中心とした部隊であったことだ。そのことが本書のタイトルが『普通の人びと』となった理由でもあり、またこの本の論考が貴重なものである理由のひとつになっている。どのようにしてそういった普通の人びとの集団が殺戮を日常として受け入れ、実行していったのか、について複合的な理由が分析されている。

まず鍵となるのは、最初にユダヤ人に対する大量殺戮が行われたユゼフフの町での実行命令を下すための集合において、大隊長のトラップ自身がその命令に対して躊躇を覚えて苦悩していたということだ。そして、そのことを周りに隠すこともなく、さらに任務が実行できないと思うものは実行前に自ら申し出ることを促し、それを避けられるようにしたのだ。その機会に対して、12人のものが実際に任務の実行忌避を申し出た。
それは12人しかいなかったというべきなのかもしれないが、一方でその行為が軍の命令に背くこと、また仲間に対して裏切り者であり臆病者であると思われたくなかったこと、そして、自分が手を下さなかったからといってユダヤ人たちの運命に変わりはないだろうと思えるであろうこと、またもしかしたらまだ無抵抗なユダヤ人を銃殺していくということがうまく想像できなかったこと、などを考えると限られた数であったことはある意味では想定された反応であるとも思える。

一方、さらに重要なことは、そのことにより、もしどうしてもできない、するべきではないと思ったのであれば、少なくとも自らは手を下さなくても懲罰に掛けられることはないということが認識されたことである。これは重要なことであった。絶対的な強制を伴わずして、その殺戮は行われたということであるからだ。この選択肢があったことは何人かのものにとっては重荷となったし、何人かのものはアルコールによって心を麻痺させる必要を感じていた。さらにそれが本当のことかわからないが、誰も見ていないところでは見逃したし、子どもにはあえて弾を当てないようにしていたともいう。
しかしそれでも、そういったユダヤ人への集団殺戮は継続し、そして常態化するにつれて、最初にあった抵抗感が薄れていき、部隊は多くの町で銃殺を繰り返していったのである。

「大量殺戮と日常生活は一体となっていた。正常な生活それ自体が、きわめて異常なものになっていたのである」

司法尋問調書の分析からは、殺人に対する繊細な感覚が最初の殺戮以降急速に鈍化していったことが見て取れる。銃殺の実行を志願する兵の数は常に必要とするものの数よりも多かったという。したがって、いつでも強く拒否すれば避けること...

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2020年3月29日

読書状況 読み終わった [2020年3月20日]
カテゴリ 歴史

ミシェル・フーコーの入門書として最適な本のひとつに文句なく数えることができるだろう。まず、主要作品に関する網羅性があり、それらの作品間の位置づけが時系列に沿ってシンプルに説明されている。また、その時の経過におけるフーコー自身の変化と一方でその変わらない問題意識や技法についての説明が著者の言葉で比較的わかりやすく解説されている。

例えば、フーコーの哲学的歴史研究の任務として「歴史を辿ることによって、現在においてほとんど当たり前として受け入れられていることが過去においては決してそうではなかったことを示しつつ、新たなやり方で思考する術を探ること」と定義する。非常にコンパクトにまとまった、かつ的を外していない定義だと思う。

本書の目標として、フーコーに関して「自明性の問題化と研究の軸および内容の絶えざる変化が実際にどのように展開されているのかを描き出す」ことだと述べている。それはある程度成功しているのではないだろうか。この本を読むことで、自分の中でもある程度頭が整理されたと思うことができた。

本書の構成は、フーコーの著作を年代別に追いかけていく形になっている。『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』『言葉と物』『知の考古学』『監獄の誕生』『性の歴史』と主要著書がもれなく並ぶ。それぞれ簡単に見ていきたい。

■『狂気の歴史』(1961年)
フーコーが自らを「フーコー」たらしめることとなった最初の著作といえる。当時の精神医学における狂気の扱いと現代とのその違いが分析され、狂気と理性の分割がどのようになされて、病という形象に還元されたのかが問いとされる。いわゆる「理性」が西洋においてどのようにその地位を確立してきたか、その過程でどのように狂気を排除することとなったのかが示された。もともとは貧者、物乞い、浪費家、など他の雑多なものと合わせて収容されていた狂者は他のものと切り分けられ、その収容施設は精神病院となり、いまや病者となったのだ。
同時期に書かれた博士論文取得のための副論文、カントの『人間学』への序論を交えて、『狂気の歴史』が提示している人間学的錯覚について議論されているが、この問題意識がここから後のフーコーの歩みの拡がりにつながっている。

■『臨床医学の誕生』(1963年)
この著作においては、病理解剖学によって、病が身体の表面に現れた症状ではなく、身体内部に標定されうる「病変」によって引き起こされるものだというように認識が変化したことを指摘している。これは医学的視線に対して、表層から深層へという垂直の道が課されるようになり、見えるものと見えないものとのあいだに新たな関係が結ばれたということを示したものだと指摘する。ここに時代の断層と人間学的思考の地平が時代によって構成されたものではないのかということが問われているのである。それは後に『言葉と物』の分析につながり、また『知の考古学』でその思考方法が整理されるのである。

■『言葉と物』(1966年)
いまだにこの長大で難解な著作があれほど売れたのか理解できない。「「人間」はごく最近の発明品にすぎず、いずれ波打ち際に描かれた砂の顔のように消え去るであろう」という、実際どこまで理解されていたのかわからない「人間の死」を宣言したことでそのフレーズとともに有名になった。
ルネサンス期の支配的な思考形態を「類似」に、古典主義時代のそれを「表象」であると分析し、それぞれが「言語」「自然」「富」においてどのように影響を与え、いかに時代の断層を生じさせたのかを分析した。あまりにも知的であり、ベラスケスの絵画 『侍女たち』を古典主義時代の思考様式を代表するものであるとして解説したその文章は眩暈がするほどゴージャスだった。
十八世紀末にそれぞれの分野で発生した「表層」から「深層」への重...

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2020年3月22日

読書状況 読み終わった [2020年3月17日]
カテゴリ 哲学批評

先に読んだ『チェルノブイリの祈り』では、原発事故に関わった市井の人びとへのインタビューを並べることで、複数の個の視点によってその事実の重さを複層的にわれわれに伝えたスベトラーナ・アレクシエービッチ。同書に描かれていた事故対応をして放射線障害で亡くなった消防士とその身重の妻の話が、HBOで制作され日本ではスターチャネルで配信された連続ドラマ『チェルノブイリ』でもひとつのエピソードとして挿入されていたが、改めて心を揺さぶられた。ノーベル文学賞受賞もさもありなんと得心した。

本書『戦争は女の顔をしていない』は、そのチェルノブイリ原発事故の前年の1985年に刊行された彼女のほぼ初めての著作である。ゴルバチョフがソ連共産党書記長の座についたのがその1985年。それまでは、大祖国戦争の負の側面を見せるその内容のために、何年も当局から出版を止められていた。ゴルバチョフのペレストロイカによって刊行が可能になった本書は、その後すぐにソ連で200万部以上も売れたベストセラーになったという。
本書の形式は、『チェルノブイリの祈り』と同じように一般の人びとへのインタビューでの「声」を織り上げたものになっている。『チェルノブイリの祈り』で心揺さぶられたこのフォーマットは、そのずっと前からすでに彼女のものだったのだ。本書は、他の多くの戦争を扱った本とは違い、全体を提示しようとしない。また、何か明確な結論めいたものを提示することもない。ただ、多くの視点を並べることにより、かつて実際にあった時間と場所を彼ら自身の言葉によって浮かび上がらせるのである。そうすることでしか再現できないことが確かにあるのだ。著者がインタビューをした相手の数は五百人を超えるという。そして、そのインタビューについて次のように語る。「一つとして同じ話がない。どの人にもその人の声があり、それが合唱となる。人間の生涯と同じ長さの本を書いているのだ、と私は得心する」― もし「歴史」というものがあるとすると、それは一つではない。それどころかそこに生きた人の数だけ無数にあるのだ。

この本の主人公は、第二次世界大戦で特に熾烈を極めた独ソ戦の戦場に駆り出された旧ソ連の女性たちである。まさしく総力戦となったソ連では、男たちの手だけでは足りず、百万人を超える女性が兵士として戦場に赴いたという。国のために命を捧げることが尊いこととされた教育のために、このインタビューに出てくる多くの女性たちは周囲どころかときに軍の方からの反対を押し切って戦場に赴いた。彼女たちは驚くほど多くの場合に、自ら熱意を持って戦争に参加している。召集令状が来たら、それを歓喜の気持ちで受け取っているほどだ。彼女たちの考えでは、ヒトラーは祖国に牙をむく憎むべき敵で、ナチスにモスクワを、スターリングラードを、わが大地を蹂躙されるなどあってはならず、何を犠牲にしたとしてもまず祖国を敵から守らなければならないのだった。しかし、戦場は男のものであった。女性用の下着はなく(驚くほど多くの人がこのことに言及している)、生理用品もなく、何もかも整っていなかった。

そして戦後、男たちの勝者としての勇ましい語りの中で、彼女たちの声は強く抑圧され、まったく社会の目と耳に触れないところに押し込まれていた。

「わたしたちが戦争について知っていることは全て「男の言葉」で語られていた。わたしたちは「男の」戦争観、男の感覚にとらわれている。男の言葉の」

「女の言葉」は、男や多くの人がいる中では、出ることのない言葉であった。それは固い鎧の下に隠されて、抑制されていたため、個と個の間でのゆっくりとした静謐な時間の中でやっとふと出てくるようなものだった。その言葉は、著者が若い(当時30代)女性であったことと、何より聞き手としての能力と使命感により汲みだされたの...

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2020年3月22日

読書状況 読み終わった [2020年3月10日]

「それはあたかも、この最後の数分間のあいだに、人間の邪悪さについてのこの長い講義がわれわれに与えてきた教訓 - 恐るべき、言葉に言いあらわすことも考えてみることもできない悪の陳腐さという教訓を要約しているかのようだった」ー 絞首台の前で、最後の言葉として世話になった国への「感謝を忘れない」という自らの弔辞には似つかわしくない紋切り型の言葉を述べるアイヒマンを評して、裁判の報告の最後にアーレントはこう書いた。

本書の副題にもなり、また有名にもなったこの「悪の陳腐さ」ー the Banality of Evil - は激しい論争を引き起こした。なぜなら、アイヒマンは陳腐な人間どころか誰もが文句なく死刑台送りにするような<怪物>でなくてはならなかったからだ。さらに、本書の中でアーレントがユダヤ人名士や一般ドイツ人に対しても最終解決に対する共犯性を強く指摘したため、これらいわば同胞からも強い批判を浴びることになった。

ちなみに”Banality”という英単語はほぼ初めて見た単語だ。Cambridge Dictionaryを引いてみると、”the quality of being boring, ordinary, and not original"となっている。退屈なほどありふれた、という意味があるとすれば、Banalityはアイヒマンその人にだけ向けられるべきものではなく、それよりもいっそう<悪>がありふれたものであるということを示していると考えてよいだろう。狂っていなくても、悪意がなくとも、いわば簡単に<悪>はなされてしまうということだ。アイヒマンは、あなたであったかもしれないし、あなたがそうならないことを保証するものは何もないのだ。

【裁判の背景】
アイヒマンは、逃亡先のアルゼンチンでイスラエルの諜報機関に捉えられ、イスラエルの法廷に引き立てられた。ナチス最後の大物と言われたアイヒマンの裁判には当初よりいくつかの前提が存在していた。ユダヤ人にとっては、多くの同胞の敵討ちであるとともに、ユダヤ民族に起こった理不尽な悲劇を世界に改めて知らしめる場であり、イスラエル建国の正当性をさらに確かにするためのものでもあった。だからこそ、アイヒマンはドイツではなくユダヤ人の法廷で裁かれるべきだった(これに対してはアーレントも賛同している。ただし異なる理由で)。一方、ドイツ人にとっては、自らの身を批判しつつ、かつての彼らの政府の犯罪的行為が、ナチスの特定の高官たちの暴走によるものであることが証明されることを望んでいた。アーレントは最後までドイツ政府が正当な権利である引き渡し要求を行使しなかったことを指摘しているが、それはドイツ政府ひいてはドイツ国民が望むところではなかった。仮にドイツにおいて裁判を行った場合、アイヒマンに対して他のナチス関与者の戦後の裁判でそうであったように無罪や極刑以外の判決が出る可能性があり、ドイツ政府にとってもドイツ人にとっても、それは大きなリスクでしかなかった。そういった状況からして、アイヒマン裁判は、結論がそのはじめから求められたショーでもあった。実際、アメリカではこの裁判がショーとして放送されていたのである。
そういった背景があるがゆえに、アイヒマン裁判を傍聴して書かれた「悪の陳腐さ」という副題を持つこの本は、ユダヤ人とドイツ人の両方の側から撃たれることとなった。特に彼女自身がユダヤ人であることから、飼い犬に手を噛まれるような心情となったユダヤ人社会からの非難は特に厳しかったという。その指摘は、ユダヤ人にとっても、ドイツ人にとっても素直に受け入れることは難しかった。待ちわびたショーの幕を降ろすにあたって、それは相応しい言葉ではなかったのだのだ。

アーレントは、最初からこの裁判のショー的要素に対しては嫌悪感を...

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2020年3月20日

読書状況 読み終わった [2020年3月2日]
カテゴリ 哲学批評

なぜこの本を購入したのかわからなかったのだけれど、購入履歴に299円で購入となっていたので、きっと日替わりセールで安くなっていたからに違いない。

著者紹介に「1953年千葉県に生まれる。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学、パリ第10大学大学院博士課程修了。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授・同大学院情報学環教授(兼担)。情報学環長、附属図書館副館長を歴任。専攻、記号学・メディア論、言語態分析。特に19世紀以後のメディア・テクノロジーの発達と人間文明との関係を研究」と書かれていたので、とても魅力的に映ったのに違いない。

中身は、少し自分には合わなかったようだ。少し深みが足りず、新書なのでこの程度でよいかと考えているのではと感じる深さだった。著者は、昔々に流行した「記号論」を世界そのものが「記号論」化された今、「この記号論という学問を根本的に考え直し、それを新しくつくりなおす仕事をやってきた」という。それがこの本に詰め込まれているのかどうかどうも判然としなかった。「新しい記号論」を期待したが、少々散らかっている中で、上手く見つけられなかったということなのかもしれない。「メディア再帰社会」と定義した現代社会の様相を捉えることをその仕事と捉えているのかもしれないが、「メディア再帰社会」とそのインパクトを十分に語り得ていないように感じた。「新しい<記号学>については、目下、自分のmagnum opus(主著)ともいうべき分厚い本を書き進めているところ」だというので、言う通りその刊行を待つべきなのかもしれない。

一方で、著者が東大図書館改修プロジェクトの責任者として、歴史的な外観を保存したまま、地下40mの穴を掘って保管庫として、自動的にロボットが本を探し出して三分で取り出すようにしたという。きっと、その方面での実務的なリーダーとしての能力はあるのだろうなと思った。

図書館だけに電子化にも触れていたが、大学の図書館などはどんどんと電子化を進めるべきだと思う。著者は、紙の本では大体ページのこの辺りに書かれていたなという空間情報によって読みの記憶を維持していると言い、kindle本ではその空間的な記憶システムをつくれないとして、「空間的構造体である本には、それだけ潜在的な力があるのであって、だからこそ、特権的な「精神の道具」であるのです」とのたまう。それに関しては全く踏ん切りが悪い人だなと思う。仮に、紙の本のメリットがそれだけしかないのであれば、いっそのこと電子書籍によって駆逐されるべきであるとの結論になる。そんなことよりも実体としての所有欲の充足や、工夫された装丁の価値などを挙げてもらった方がよほどまともだ。
著者がこの後に述べることになるように検索やメモ書きなど紙の本には原理的に不可能で明らかなメリットのある特性がある。そもそも場所を取らないという圧倒的なメリットがある。紙の本のメリットとして見逃せないのは、ブックオフなどの中古屋で電子書籍よりも安く買えるだとか、読み終わったらそれを売ることもできること、家族や親しい友人で気軽に共有できること、など個人にとっての経済的な要因を挙げることができる。それは、権利者側からは決して望ましくない状況でもある。また、図書館にとっても同じ問題を孕むだろう。紙の本という物理的に有限なものの場合には、一時的に借りるのではなく購入するという選択肢が成立するが、無限に貸し出しができるようになった電子書籍が図書館から任意のタイミングで立ち寄ることなく読むことができるようになったとき、書籍市場に無視できない影響を与えることになるだろう。ここに挙げたような問題は、技術的により高次の手続きによって解決することができるかもしれない。そういった分析が紙の本か電子書籍化と言った議論には必要になる。大学の図...

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2020年2月25日

読書状況 読み終わった [2020年2月24日]
カテゴリ 哲学批評
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