日本的感性―触覚とずらしの構造 (中公新書)

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レビュー : 12
著者 :
mizuさん 文化・社会・民俗   読み終わった 

紹介されている短歌や、そこで説明される日本語のうつくしさに、うっとりする。

日本人の感性は、バラという一点の対象を見るより桜を愛するように、「包まれる」という触覚性にあらわれるらしい。
(桜に興味のない外国の人は、校庭に桜が咲いていてもその花に気づかなかった、という外国での体験談が紹介されている)
桜は一輪ではなく、空間としての存在であることが望まれる。桜のトンネルに代表されるように。

それと、ずらし。
世界とわれ、宇宙と意識それぞれの動性という展開らしい。

短歌を挙げて、そこに見られる感性の時代ごとの移ろいや、その感じ方を解説。
『雨月物語』もそうらしいが、物語を十全に理解するためには、受け手にその使われている言葉や舞台に関する背景の知識がなければ、いけない。
ということを実感。
歌の世界、決まり事などの知識を膨大に必要とされる……ただ語の美しさを味わうだけでも充分なんだけれど、背景を知ると、まったく変わる物なんだなあ。


P154あたり
「渡る」という言葉。けしきの広がり、ということにおいて、この「渡る」の空間性
時間的な持続の意味「ずっと~し続ける」もあり、こちらは「恋ひわたる」と、万葉末期に用例がある。

私も好きな歌が紹介されていて、
 東(ひんがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月西渡(かたぶ)きぬ

西渡る、で、かたぶきと読ませる感覚のしゃれたことよ。


P52
なごりは昔「余波」と書いた。「波残」でもある。


P70
芭蕉「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」
「枯野は、おそらく中世的な歌題で、生命の亡びを共示する定型的なイメージである」


P138
西行「ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」
旧暦二月十五日が釈迦入滅の日で、西行は願いのままに、1190年二月の十六日に亡くなった。

平安期になると、花といえば桜のことで、西行は非常に桜を愛したため、春(おそらく春=正月)で、愛する花=桜、という解釈をするらしい。
でも桜って二月…旧暦だから、今の三月だが、そのころに咲くだろうか。
大学で教授が「釈迦、花といったら、沙羅双樹のことで、この説は私が初めて出した」ようなことを言っていたように思う。釈迦の入滅は、はて、沙羅双樹であってたよね。菩提樹だったけ?


西行は月を愛したが、平安貴族もかなり月を愛したらしく、月見の歌が多い模様。
このあたり、万葉集がいつごろで、古今集がいつごろ、新古今が……という年代までわかっていないと、その時代の心のありようや、歌のはやりなんかも合わせて理解しなければいけないようなので、記憶力が弱い私には、へええって読むだけだけど、おもしろい。
「竹取物語」では、姫が月をあまりに見過ぎると、翁にいさめられる。このころ、女性が月を見るのは、忌むべきことだったから。
いつから、月見はよきものになったんだろう。

そしてあちこちから歌を集めた百人一首、あれは小倉しかないのか?
そうでないなら、何故小倉だけがあんなに有名になったんだろう。
宮中行事として採用されたから、とかなんだろうか。

P136
 西行の場合、身体はほとんど透明化し、心が世界に露出している。世界は、そのまま、鏡としてのその心に映る。しかし、この鏡は、例えば世界認識のための道具ではない。主体があって、この鏡を用いて世界を認識している、というようなものではない。そこに映る世界の像のほかに心があるわけではない。その意味で、心は虚無なのである。そのような心においては、世界の像を受け止める感性的経験だけが、その現実となる。」

自分が鏡となった場合、対象が見るもの、その世界にあるのは写されたものだけであり、自身は透明なものとなっているもの。相手と同化している、という認識が、これととても通じると思った。

同P139
「同化できないからこそ、花に埋もれ、満開の花の下で死ぬことを願ったに相違ない。月について起こることが、なぜ花においては起こらないのか。また、花に関して不可能なことが、なぜ月ならば可能なのか。花では難しくとも、すすきならば簡単に起こる、ということは何かを示唆している。心が見ているすすきや月になってゆくためには、ざわめきのない水面いんしてはじめて鏡となることができるように、ある静けさが必要なのであろう。浮き立つ心は、鏡としてのありようを乱す。」

この鏡の部分、『アクセルワールド11』の、ハルがたどりついた鏡面理論の部分にすごく通じた。

P158あたり
今でこそ、「めぐり」は人のめぐり逢いに通じるけれど、昔は「月のめぐり」のめぐりであり、人のめぐりへの連想はなかったらしい。
また、月はめぐるけれど、日はめぐらない。それは、月が満ちかけすることと、人生の浮沈が関係あるのではと。


P187あたり
梅は女の香り
橘は男の香り

『新古今集』より(245番)
橘のにほふあたりのうたたねは夢も昔の袖の香ぞする

着物に香を焚きしめるのは、袖に行ったらしい。女は梅、男は橘。だから、袖の香といったら、官能の匂いであると。
橘が男の匂いということを知らなければ、この歌の解釈なんか出来ない。


P146
万葉集1356
わが情(こころ)ゆたにたゆたに浮華(うきぬはな)辺にも奥にも寄りかつましじ

「ゆたにたゆたに」は「たゆたひ」と同じ語幹と見られるらしいです。
なんとゆったりとうつくしい、とろんとした表現だろう。

P277
「頼む」は12~13世紀ごろの用法では、「(女が男の来訪を)あてにする」の意味だったそう。
「問う」は、男が女のもとを訪れる。妻問い、の語と同じかな。

この本に載っていなかったのが不思議なんだが、「ながめ」もその意味の筈。
ながめは、「眺め」「長雨」をかけて用いられることが多いようだが、「ながめ」といったら、男女がことのあとにぼーっとしている状態だと、以前に読んだ。
うつくしい表現だなあ。

レビュー投稿日
2012年5月26日
読了日
2012年5月26日
本棚登録日
2012年5月19日
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