百匹目の猿: 「思い」が世界を変える

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  • サンマーク出版 (1996年6月1日発売)
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チェック項目17箇所。メス猿のイモ洗いの行動は、若い猿や母親猿たちにまねられ、20匹中15匹がイモを水で洗って食べるようになりました、ところがおもしろいことに、12歳以上のオス猿は、イモ洗いが群れに定着して十年たっても、イモ洗いをしなかったのです、これは人間にも当てはまります、ボス的立場の男性ほど新しい流れに抵抗するのが現実ですから、やはり猿と人間は似ているようです。百人の人が意識を変え、知恵をもち、行動していけば、日本や世界を変えられます、その世界変革をうながすメカニズムの基本現象として、この百匹目の猿現象は格好のものです、だから世の中をよい方向へ変革するのにいちばん肝心なのは、よいと思うことをだれかが一刻も早くはじめることです。いま、人間と地球との関係は、ガン細胞と宿主との関係にたとえられるように思います、地球は疲弊していますが、その原因をつくっているのは、そこに寄生していながら主人づらしている人間です、知恵ある存在であるはずの人類が地球環境を次々にこわしています。人間は動植物を支配も管理もしていません、みんなが互いに助け、助けられる相互巫女関係にあります、それが生態系です。近代工業化社会を否定することはできません、しかし、工業的効率や金銭価値を万能視して、私たちが住んでいる地球環境まであやうくしてしまうのは明らかに近代の行き過ぎでしょう、その近代の「毒」を抜くことが、いまこそ必要です、地球にはビルや道路や工場だけでなく、田んぼや森も必要であるとあらためて知ることが大事です。幸島でいの一番にイモ洗いをはじめたのは一歳半のメス猿だったといいます、群れの中でよいこと、新しいことを率先して行なったのが若い女性であったのは実に象徴的です。すべての生物は自然に包みこまれ、それ全体が一つの連環した有機体と考えられているのです、それを人間だけが個であり、自然から切り離された優位な存在であると思い上がってきたのが西洋近代思想でした。東洋では、人間は自然を構成する一部であり、両者は相互補完的で融合的な関係にある、また心と体も分離できるものではなく、根っこは一つだとする「心身一如」の発想や哲学が主流でした。一、過去を肯定する、一、現在を前向きに生きる、一、未来に夢をもつ、幸福に生きる三ヶ条です。未来は未定であり、人間にとっては未定なことはやはり不安に感じられるのです、不安はまず無知から生じます。逆にいえば、未来に希望をもとうと思ったら勉強するしかありません、それも中途半端な勉学ではなく、とことん勉強することが大切です。人の知的能力、人間性などはいくら引っぱり出しても枯渇することがありません、他の資源と異なり有限ということがありません、人の器にはくめども尽きぬ能力が眠っているそうです。自分という人間を高めるには、学ぶ・知る・教わることがもっとも近道です、本を読む、世間に学ぶ、それから師をつくるのがベストのようです。花より野菜を育てるつもりで―これも教育のカンどころといえます、盆栽好きの人が盆栽をいじるとき、姿形をみごとにそろえたいがため減点主義になります、しかしお百姓が野菜を育てるのは、一本一株も粗末に取り扱ってはだめなのです。小欲だからこそ人間性をそこね、狂わせることがあります、しかし大欲はすなわち大望であり、大きな希望は人を高みにつれていくものです。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 生物学
感想投稿日 : 2013年7月12日
読了日 : 2013年7月11日
本棚登録日 : 2013年7月11日

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