出雲王朝の隠された秘密―浮かび上がる古代の神々と国のかたち (ベールを脱いだ日本古代史III)

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  • ハート出版 (2013年5月31日発売)
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チェック項目8箇所。東の伊勢神宮に対して西の出雲大社と言われるように、出雲大社は皇祖神・天照大御神を祀る伊勢神宮と肩を並べる存在である、さらに全国には天照大御神を祀る神社よりも出雲系の神々を祀る神社のほうが圧倒的に多いと言われている、このように出雲は並々ならぬ存在感を放っている、どうしてこうも出雲は重要なのか、本書はこういった出雲の謎に果敢に挑戦し、回答を示すものである。私は本書をとおして、『古事記』と『日本書紀』によって作り出された虚構を暴いていこうとしている、ただ、それは「記紀」のすべてを捨て去るという意味では決してない、神話の中に隠された事実と虚構を峻別すべきだと言っているのである。古代出雲についての謎とは……大国主を王とす出雲勢力による西日本支配がヤマト政権の前にあり、その支配権を天孫族に譲ったのか、(A)邪馬台国連合の前の時代に、西日本を支配する出雲王朝があり、支配権を天孫族に譲った、または(B)邪馬台国は出雲勢力が造った国で、邪馬台国と出雲の両方の王である大国主は支配権を天孫である神武に譲った。出雲が西日本を支配するということがあったとしたら、それは80年ごろから150年ごろしかない、それ以前の日本は小国に分かれていたし、それ以降は倭国大乱とその後の邪馬台国連合の形成の時期になる。57年に奴国王が「漢委奴国王」の印綬を賜っているが、このとき、もし出雲が西日本の支配者だったら、すぐに中国に使者を出し、自らも印綬を得たはずである、当時、印綬を得るということは漢が後ろ盾になっているという絶大な意義があったからだ、そうしていないところを見ると、出雲が57年ごろに西日本を支配していた可能性は低い。出雲には2世紀後半には西谷3号墓という大型墳墓ができ、その後も100年にわたって大型の四隅突出型墳丘墓が造られ続ける、これはこの時期に「出雲神話」にあるような侵略を受けたということはないということを証明していると思う。・150年ごろから190年ごろまでは倭国大乱の時代なので、その可能性はない、・190年ごろから3世紀中頃までは、邪馬台国連合の時代で邪馬台国が盟主なので、その可能性はない、それ以降は、一時期の混乱後、トヨが女王となって邪馬台国連合が復活するので、その可能性はない、・それ以降は神武によりヤマト王権が確立されるので、その可能性はない。『記紀』には邪馬台国という言葉も卑弥呼という名前も一切出てこない、中国の正史である「魏志倭人伝」に載っているのだから、編纂者たちが知らないわけでもないのだが、あえて載せていないのだ、それはなぜかと言うと、神武天皇が邪馬台国を滅ぼして、邪馬台国の王から日本の支配権を奪い取ったという事実を隠したかったのだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本の歴史
感想投稿日 : 2013年7月5日
読了日 : 2013年7月4日
本棚登録日 : 2013年7月4日

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