普仏戦争のさなか、さまざまな理由からルアンからトートを経由してル・アーヴルへ行く馬車。乗り合わせたのは、伯爵の夫妻、商人の夫妻、いかさま師の夫妻、共和主義者、修道女、そして娼婦の「ブール・ド・シュイフ(脂肪のかたまり)」。
この物語に登場する人たちはブール・ド・シュイフを除いてみな偽善に満ちていて、自分勝手で、自分本位。まさに人間の気持ち悪い一面が描かれている。
はじめは娼婦を卑しいものとしてみていたものの、空腹の危機を彼女に救われた途端に彼女に優しくなり、彼女の愛国心ある勇敢な発言を称賛したりする。トートに到着し、ドイツ人士官が彼女の身体を要求したときも、はじめは一致団結して士官を罵る。けれど、そこから徐々に一行(ブール・ド・シュイフを除いた一行、以下この意味)は彼女のせいで旅が進まないことに不満を募らせ、ふたたび彼女を侮蔑しはじめる。しまいには、「娼婦のくせに、なんだってドイツ人士官だけかたくなに拒むんだ」というようなことを言い出して、彼女が自分を犠牲にするように仕向けることを楽しむありさま。人ってほんとうに嫌なものだと思ってしまうところ。
そして、一行のために自分を犠牲にした彼女(そして旅のはじめに一行を助けた彼女)が空腹で困っているというのに誰一人として助けようとさえしない。彼女はこの悪党どもを恨みながら泣くことしかできなかった。
娼婦という身分をもつ彼女は、社会から疎外された存在。けれど、彼女は社会たる彼らの都合によって仲間に認められ、使い捨てられ、再び排除されたりする。そこには伯爵夫妻が最上位に位置する階層があって、最下層である娼婦には誰も手助けをしない。この話にあらわれる馬車が社会の縮図だとしたら、社会全体は排除される人にとって絶望に満ちた世界そのもの。
彼女に好意があったであろう共和主義者も、一行の陰謀を「諸君のやったことは、卑劣千万なことですぞ!」といったり、ラストでは彼女に同情してか、ラ・マルセイエーズを歌い続けるけれども、実際の行動はなにもしていない。それに、修道女が彼女に手助けをしなかったのはなぜだろう。それが自らの「目的」ではなかったからかもしれない(修道女は”目的は手段を正当化する”と考えているらしいから・・・目的のためには娼婦を見捨てることも神は許すと思っているのでしょう!)。
お喋りがすぎました。人の醜さ、考えさせられることもたくさんあって面白いです。もちろん、腹を抱えるような面白さではありませんが。
- 感想投稿日 : 2013年9月1日
- 読了日 : 2013年9月1日
- 本棚登録日 : 2013年9月1日
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