この時代の歴史の一般向けの本を読んでいつももやもやするのは、歴史書なのに、大鏡や栄花物語といった物語が引かれるところ。この本では、基本的にこれら歴史物語を、史実の叙述から排しているので、非常にすっきりした。一方、(網羅的に残存していないためもあろうが)断片的に引かれることの多い同時代の古記録を、基本的・公的な史料と併せて、一条天皇の生涯を通して系統的に叙述に利用していて、周辺人物の個性に比べ若干無個性で受身な人物像しか提示しにくい一条をかなり立体的に浮かび上がらせている。
個別にもやもやしていたことがわかったような気になったりもした。
敦康の立太子については、歴史の後知恵では、そりゃもう目がなかったのでは…となんとなく思っていたが、一条が最後の最後まで粘っていたことや、当時は直系相続というより、兄弟間ないし迭立によりジグザグ相続が普通だったことを考えると、結構可能性があったんだなあ、彰子もそれを望んでいたというのもホントなのかもなあ(後年の行動を思うと、ちょっと信じられなかったのだが、敦康をはさんでも自分が産んだ皇子を帝位につけることの障害には必ずしもならないと思っても自然。もちろん当時の若さもある)、と思えた。
なんとなく天皇の元服は11歳くらい、と思っていたのだが、それは一条が最初で、それまでは15歳くらいが多かったこと、11歳くらいで元服して添臥がついてもすぐに性体験をしたわけではないのではないか、という示唆も、具体的な第一子誕生時の年齢を示されて、そうかあ・・・と思った。
少なくとも摂関期の天皇は、どのキサキ等と寝るかを、単なる自分の好みで決めたわけではないことも非常に納得だが、その中で、そのへんもマジメそうな一条が、(定子だけでなく)元子に相当執着していたのも興味深い。父の顕光がもうちょっと有能で、元子の最初のお産(?)のトラブルがなければ、(頼定との間には子供産んでいるんだから)歴史は変わっていたかもしれない。
ただ、子供が生まれていないことを、生まれる「可能性」がなかったのではないかと推測していることが多すぎるような気がした。やってもできないこともあるじゃん… 特に円融天皇が、「最初の皇子の母親として、遵子ではなく詮子を選んだ」(p.2)というのは、どうなんだろう… その後の円融と詮子の関係(里居を続けた=2人目以降の皇子の誕生の可能性を失くす)や、特に、子のない遵子を敢えて中宮にしたことなど考えると、別に遵子を排したわけではなく、遵子(頼忠)か詮子(兼家)のどちらかから皇子と思っていたが結果的にできたのは詮子のほうだった、くらいなのではないか。
それにしても、中関白家は公家社会で嫌われてたんだね。兼家・道隆の強引なやりようによって、すでに反感があったところに、彼らの早い死、伊周らの軽挙があって決定的になったんだろうが、特に、高階氏との関係が大きな要素だろう(高階一族の濃いい個性以前に、藤原氏でも王族でもない姻戚との密接な関係を藤原氏をメインとする公家社会が毛嫌いしたんだと思う。)ということを考えると、道隆と貴子は恋愛結婚だったんだろーなーと思うんだが、高階氏の女を正妻として遇すことを兼家がよく許したもんだと不思議に思う。自らを恃むところの大きい兼家には、それくらいどってことないと思えたのだろうか?
- 感想投稿日 : 2013年3月2日
- 読了日 : 2013年2月26日
- 本棚登録日 : 2013年3月2日
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