ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

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レビュー : 2234
著者 :
koharuさん 小説   読み終わった 

趣味の世界には極めた人だけが到達する面白さというものがあると思う。
小さい頃から趣味の欄には何気なく「読書」と書き続けてきた。
小学校の時はよく本を読んだという理由で校長先生から図書券をもらった。
あたしの趣味がたまたま読書であったから、今回は読書のことを書こうと思うが
恐らく趣味と呼ばれるものの多くに共通していること。
極めることでその面白さが何倍にも膨らむということ。
好きになるということ。それはすなわち恋と同じで、その人のこと、その人の
好きなものを知りたいという気持ちになるということ。

あたしが好きな村上春樹の小説に関しては、恐らくもうある程度の「極み」
に達したと思う。特に「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は
1年に1度は必ず読み返す長編小説です。同じくらい読み返す小説に
同じく村上作品の「ノルウエイの森」がある。これはベストセラーにもなり、
今秋映画公開にもなるそうだ。頑なに映像化を拒み続けてきた村上に
一体何が起こったのかファンなら皆がそう思ったに違いない。

今回「ノルウエイの森」のことを書こうと思ったのは、私が好きなラジオ番組
でもある武田鉄矢の「今朝の三枚おろし」という短いトーク番組がきっかけ
だった。武田鉄矢と村上春樹には何の接点もない。以前そのラジオ放送内で
村上春樹の小説について武田鉄矢が語った場面もあったが、少なくとも
武田さんにとって村上春樹の小説から何かを引き出すことは出来なかった
らしい。「今朝の三枚おろし」はネットで一週間分をまとめて聞けるので
もし興味がある方は聞いてみてください。

http://www.joqr.co.jp/bbqr/index.php

ここは毎週月曜日に更新される。朝5分という短い番組を一週間分まとめて
約30分ほどのファイルにして公開している。私も毎朝聞けるわけではないので
こちらのサイトでまとめて聞くことになる。昨日は月曜日だったので、早速聞いて
みた。武田鉄矢少年(18歳)が初めて「竜馬がゆく」を読んだ時のことが
切々と語られていた。

 『竜馬がゆく』(りょうまがゆく)は、司馬遼太郎の長編作品。
 「産経新聞」夕刊に1962年6月21日から1966年5月19日まで連載し、
 1963年から1966年にかけ、文藝春秋全5巻で刊行された。
 1974年に文春文庫発足に伴い全8巻で刊行、
 単行・文庫本ともに改版されている。(Wikipediaより)

あたしが武田鉄矢が好きなのは、趣味が同じだからというわけではない。
性別も育った環境も違うので、趣向は全く違うし、好きな本、
感動した作品ももちろん違う。番組内で紹介された映画や本も
いくつか読んだり観たりした(「悪の遺伝子」「ベン・ハー」など)だが、
残念なことにそれらの作品があたしの琴線を”強く”震わせることはなかった。
だけど武田さんとあたしには明らかに共通点がある。
好きな人、作品などに対する想いの純粋さとか、感動する心の震えようの
ありようとか、そういったものが確かに似ている。ある友人に言わせると
「武田鉄矢なんてただの威張ったオッサンじゃないか」と一笑されて終わったが
「今朝の三枚おろし」を聞いているとあたしは武田さんの思いのこもった
ものたちが、まるであたしが愛でているもののようにいとおしく思えてくるのだ。

今年は大河ドラマにも竜馬がとりあげられたりして、竜馬好きな武田さん
にとっては特別な想いもあるのかもしれない。武田さんの話を聞いていると
竜馬が本当に好きなんだな、ということがよく分かる。
私は「竜馬がゆく」を読んだことがないので、これから書くことは全て
武田哲也が番組トークで語った内容ですが、気になった部分を抜粋して
書きたいと思う。

「竜馬がゆく」はフィクションです。多少の脚色も状況の変更設定もある
作品を武田さんはきっと何度も読んである程度の「極み」に達していた
のだろうと思う。その後、色んな文献などから竜馬の事を調べたりする
うちに、そのフィクションである小説がまるっきりデタラメから来ているわけでは
無いということにふと武田さんは気付いた。
「竜馬がゆく」の中で、竜馬が鶏肉が好きだという話が出てくる。
それが本当かどうかなんて当時の竜馬を知らない限りは分からない話だ。
だけど、その何気ない設定さえ、実際に後世に残された竜馬の文献の
一文から発せられたものだったんだという事を知ったときの感動。
それは極めたものしか分からない、分かり得ない内容だったはずで、
ただ「竜馬をゆく」を読んだだけでは到底知り得ることが出来なかった。


極めた者だけが得ることのできる感動。
それはその作品を飛び出した部分から、その作品に込められた
思いを知ることによってもたらされる。そしてふと気付いた。
あたしにもかつて、確かにそういう経験があったということ。
それは村上春樹「ノルウエイの森」によってもたされたものだった。

「ノルウエイの森」の中で、主人公の青年「ワタナベ」が
本屋の娘「ミドリ」の家でひょんなことから一夜を明かす場面がある。
青年はうまく眠ることが出来ず、1階の本屋から一冊の本を持ち出し、
寝息を立てるミドリの横でその本を読む。
明け方になり、その一冊分の料金をレジに置き、青年はそっと本屋を
あとにする。朝もや、冷たい空気、しんとした商店街のまだ何者にも
犯されていない生まれたての朝。あたしはこのシーンが好きで、
(特にミドリと火事見物をしながらギターを弾く場面は最も好きだが)
何度も何度も読んでその状況を目に浮かばせることさえできる。

 しかし話題はそれるが
 映像化されていない小説の文章から映像を思い起こさせるのって
 すごいですね。本当に映画化されてしまったら、それは映像化された
 イメージに固定されてしまうんだろうか、という思いがあって映画を
 観るのが少し怖くもあるのですが・・・・
(でもきっと真っ先に観てしまうんだろうけどw)

さてさて脱線を修正、話を戻します。
ミドリの家で読んだ本が「車輪の下」というヘッセの小説でした。
主人公の青年はこの本について「以前読んだことのある古臭いが悪くない」
小説だという風に述べています。今回こういう状況にならなければ、
昔読んだ「車輪の下」を読み返してみようなどという気にはなれなかったかも
しれない、と書かれています。

「ノルウエイの森」では他にもこういうシーンが出てきます。
(思い出しながら書いているので状況の前後、脚色、
 語彙の置き換えはあると思いますがご容赦ください)

ミドリが主人公の青年「ワタナベ」に問いかけます。
「連立方程式を覚えて、一体何の役に立つの?」

青年はミドリにこんな風に答えます。
「連立方程式が、直接君に何かをもたらすということはないと思う。
だけど、物事を理論立てて考えるための訓練になるのだと思う」

そしてミドリはこんな風に言います。
「ワタナベくんが、あたしの先生だったら、あたしもっと勉強したのに。
威張った大人や学校の先生が大嫌いだった。教師はこの問題を
やれと命令するだけで、その意味については何も教えてくれなかった。
連立方程式が一体あたしの人生のどんな役に立つのか質問しても
オマエは馬鹿かという風に見られるだけだった」

やがてミドリはそんなワタナベに惹かれていくことになるのだが、
そこは割愛させていただくこととして、あたしはこの「ノルウエイの森」を
読んで、ヘッセの「車輪の下」を買って読んでみました。ヘッセだけじゃなく
村上の小説に出てきた小説や音楽はできるだけ見たり聞いたりする
ようにしてきた。それはあたしの趣向とは違ったものも多かったが、
あたしが「恋をした」作品に書かれているものなのだ。見ないわけには
いかなかった。「車輪の下」には「デミアン」という小説が同じ一冊に
おさめられていた。そして「デミアン」の中の一場面で前述のワタナベと
ミドリが繰り広げていた会話そのものの場面が出てくることを後から知る。

そしてそれを知ったとき、武田鉄矢が「竜馬がゆく」で感じた同じ感動を
あたしは体感することになる。あぁ、、そうだったのか、という気持ち。
それはただ「ノルウエイの森」を読んだだけでは到底知り得なかった。

主人公の青年はこの「デミアン」を過去に読んでいたのだ。
(小説には確かに昔「車輪の下」を読んだという風に書かれている)
そしてミドリから質問されたとき、ふとこの小説のことを思い出して
それを引用して答えたのだ。

まるで恰も自分が思いついたことのように。

あたしがもし、「車輪の下」を買わずに、「デミアン」という小説を
読んでいなかったら、このワタナベという青年はただ頭の回転の速い
気の利いた言葉を言える頼もしい人物だと単純に思っただろう。
だけど、彼は「ミドリ」という少し気になる魅力的な女の子の前で、
持前のささやかな知識から過去に得た言葉を引用し、
それを自分の言葉として伝えることによって、彼女の信頼、更には
好意的な印象を付けることに成功している。

なんて人間くさくてかわいいんだろう。人だって所詮動物なんだから、
どんなにクールに見せようとしたって生物本来の欲求には抗うことができない。
男はやっぱりかわいい女の子に頼もしいと思われたいのだ。

村上春樹が、果たしてそういう意図があってその引用を
主人公「ワタナベ」に言わせたのかどうかは分からない。
だけど、あたしはそれに気付いた時から、この「ワタナベ」という
主人公の人間くささに親近感を覚えた。
「なんだ、ワタナベ君、かわいいとこあるじゃん」って風に。


極めてこそ気付ける奇跡、感動がある。
それはきっと他人にとってはどうでもいいことかもしれない。
だけど、武田鉄矢少年が18の夏に「竜馬をゆく」を読んで得た感動が
長い長い年月を経てもなお彼の中に息づいているように、
あたしの中にも村上春樹の文章は確かに息づいている。
そこに馳せる想いの塊のようなものはとても似ていると思う。

「その日は、朝早いうちから雨が降りはじめた」
この一文に共感できる人とできない人がいる、と何かの本で
村上が語っていた。武田鉄矢少年も思った。竜馬が富士山を見て
ただその雄大な姿にわけもなく感動したように、自分もいつか
富士を見た時は同じように感動できる人でありたいと。
そしてあたしも、ずっと同じように思ってる。
何気ない言葉に感動できる心を持ち続けていたいし、
それはどんなに年を重ねても決して失いたくない。
小手先だけの言葉でどんなきれいごとを並べても
人の心は動かせない。「言葉」は「使う」と表現するように
武器でもあり、道具でもあります。だから、決して簡単に
使ってはいけないと思う。竜馬が、そして武田さんが心がけて
きた「言葉を置きにゆく」という行動は、あたしもずっと
心がけていきたいと思う。

読書は読んでそれで終わりではない。読んだ時は理解できなかった
ことが、ずっと後になって気付けるようになるから面白いのだ。
でも、それに気付けるのは、心の中にずっと温めていたからこそだと思う。

レビュー投稿日
2011年6月20日
読了日
2010年4月6日
本棚登録日
2011年6月20日
3
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