氷壁 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社 (1963年11月7日発売)
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本棚登録 : 1942
感想 : 215
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とにかく、最初の2ページに心臓を鷲掴みにされてしまった。
主人公・魚津恭太が山から東京の都会に返ってくるシーンである。彼が「山から帰ってきて、東京を眼にした時感ずる戸惑いに似た気持」が、こう描写してある。

「暫く山の静けさの中に浸っていた精神が、再び都会の喧騒の中に引き戻される時の、それは一種の身もだえのようなものだ。ただそれが今日は特にひどかった」。

この文章を読んで、私はこれは傑作に違いない、と思った。この清冽で、しかし同時に冴え冴えとしたこの文章に、ぴったりと吸い込まれるような気持ちになったのだ。


しかし、読み進めていくうちに、どうもあの予感は違ったのかなぁ、という気持ちが強くなってしまった。
文庫裏のあらすじを読んで、てっきりドラマチックな「山あり谷あり」の展開を予想していたので、読み進んでも読み進んでも激情に駆られる場面が出てこないというか……ぶっちゃけてしまうと、修羅場が全然ないなぁ、と思って物足りなく思えてきてしまったのである(^^;)。

主人公を含め、登場人物たちは清らかでありながら、何かと頑固な人間が多い。しかし、彼らは我を通すわけではなく、かといって物分りがいいわけでもなく、ごく淡々と事態を受け止めようとする。
そこに葛藤はある。しかし打算的なものや、疑いはない。憤りはある。しかし、あてつけや嘘はない。
そこが私にはどうも、透明すぎる気がしてしまったのだ。私は自己主張が強い困った人間なので、彼らが欲や見栄を出さないことに「?」となってしまうのである。

魚津も美那子も、結局最後まで「何もなく」終わる。私はそのことにとても驚いた。そして、井上靖は清廉な作家なのだなぁ、でもこれが多くの人に愛されたのだなぁ、と思うと、またそのことに驚いた。

私はこの本のことを、ドラマチックというにはあまりに静かで、透明な作品だと思った。あくまで、私は、である。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: どこかにあると、まだ信じてる
感想投稿日 : 2013年2月7日
読了日 : 2013年2月6日
本棚登録日 : 2013年2月6日

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コメント 2件

Pipo@ひねもす縁側さんのコメント
2013/02/09

個人的には、「何もない」関係が物語を引っ張る力は、今の小説よりも、前の時代の小説のほうが大きかったように思うんです。トラウマや痴話喧嘩で枚数稼ぐな、と(笑)。

井上靖の『楼蘭』などにも、「この男女には絶対何もありえない」という関係が出てきますが、スペクタクルで高潔で、なかなかよろしいですよ。

抽斗さんのコメント
2013/02/09

なるほど、「高潔」という言葉はぴったりですね。井上作品を読むと、ひそやかな気高さ、みたいなものを感じますものね。。

うーん、「何もない」関係でもいいと思うのですが、それでも何というか、私はそこに登場人物の「欲」をもっと読みたかったのかもしれません。

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