身体化された心―仏教思想からのエナクティブ・アプローチ

  • 工作舎 (2001年8月10日発売)
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2012.02.11
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2011.03.10
◆学んだこと
○エナクティブ・アプローチ?
問1:認知とはなにか?
行為からの産出。世界を創出する構造的カップリングの歴史である。
問2:それはどう機能するのか?
相互連絡した感覚運動サブネットワークの多重レベルからなるネットワークを介して。
問3:認知システムが十分機能しているときをどうやって知るのか?
(あらゆる種の若い生物のように)進行中の存在世界の一部になるときか、(進化の歴史に起こるように)新しい世界が形成されるとき。 (P293)

○十分機能している状態って、事々無礙法界のこと?

行う→認知→適応→行う→認知→進化

○構造的カップリング?
主体と客体が独立かつ相互依存している。相入相即のこと?

○行為?
「身体としてある行為」ということばの意味することを説明しよう。「身体としてある」ということばを用いることで、われわれは二つの点を強調するつもりだ。第一に、各種の感覚運動能力を有する身体の様々な経験に認知が依存すること。第二に、これらの各感覚運動能力自体がより包括的な生物的、心理的、文化的なコンテキストに埋め込まれていること。「行為」ということばを用いることで、感覚と運動の過程、知覚と行為が生きた認知においては根源的に不可分であることを再び強調したい。 (P245)

○ヘルトとハインの研究・・・行為が視覚を導く実験
暗闇の中で猫を飼育。第一群の猫は普通に動くことができるが、車付の籠を結びつけられている。第二群の猫はその籠の中に入っている。数週間後、猫を解放。第一群は普通に振舞ったが、第二群は目が見えないように振舞った。 (P248)

○インターフェース=行為?
そのような知識(文化的知識・・・民話、魚の名前、洒落など)が存在するのは、心、社会、文化のいずれでもなく、それらのインターフェースの中であるという発想は人類学の理論を触発するだろう。知識はどこか一つの場所や形態の中に前もって存在するのではなく、例えば民話が語られるときや魚が名づけられるときのような特定の状況における行為から産出されてゆく。 (P254)

○自由になること=三昧?
より自由になるということは、縁起の条件と現状の状態に秘められた真の可能性に対して敏感になり、執着と自己中心的な意思によって左右されない開かれたやり方で行動できることなのだ。 (P179)

人は自分自身の経験について三昧になるにつれて、基盤に執着する、つまり分離した真の自己、分離した真の世界の基盤となる感覚、および自己と世界との関係の基盤となる感覚に執着するように強いる力がいかに大きいかを悟るというものだ。 (P317)

○仏教観?
三昧/覚伝統は、全く異なる解決策を指摘する。仏教には、無根拠性が受容され、その究極の結論へ導かれるとき、自発的な慈悲として世界に顕現する本来の善性という無条件の感覚が生まれるというケース・スタディがあるのだ。 (P355)

○心的因子?
触(接触)→受(体感)⇔想(識別)→思(意思)⇔意(注意)

◆次に学びたいこと
○オートポイエーシスって事々無礙法界?
○エナクティブ・アプローチの仏教観の元になっているナガールジュナと中観派の教え?
○本書の中で一切出てこなかった「記憶」?

読書状況:いま読んでる 公開設定:公開
カテゴリ: Buddhism
感想投稿日 : 2011年3月19日
本棚登録日 : 2011年3月6日

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