なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書 1212)

  • 集英社 (2024年4月17日発売)
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【感想】
なぜ本は1ページも読めないのに、スマホは何時間もいじってしまうのか?仕事から帰ってきてすることといえば、大した情報も載っていないSNSやYouTubeをブラウジングするばかりだ。ネットよりも数倍楽しくてためになることが本の中に眠っているのに、つい横になって時間を浪費してしまう。

GfKジャパンによる「読書頻度に関するグローバル調査」(2017年)によると、日本の読書頻度は調査対象の17ヵ国中15位。4割の人々はひと月に1回も本を開いていないという。私自身は働きながらも本をガンガン読めているのだが、仕事が忙しい日には脳が疲れてしまい、簡単な情報しか追えなくなってしまうのも事実である。

そうした「本を読めない/読む時間が無い」という現代人の悩みに答えるのが、本書『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』だ。明治時代からの「読書史」および「労働環境」の関係を振り返りながら、「働いていると本が読めなくなる理由」についての考察を深める一冊となっている。

「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」について端的に結論を述べてしまうと、「仕事に追われているから」だ。仕事に全力を捧げていると、読書に含まれる「知識」「教養」等の自身を豊かにする「ノイズ」が邪魔に感じられ、頭を使わない「情報」だけを摂取するようになってしまうのだ。

こうした現状に対して筆者が提案する解決策は非常にシンプルで、「全身全霊で働かないことを目指す」というものである。本が読めない状況=仕事以外の文脈を取り入れる余裕がない状況なのだから、仕事に全力でコミットすることを止めればいい。そうすれば仕事に半身を、読書にもう半身を預けられるようになる。人生を仕事の延長線上に置いてシンプルな生活を目指すのではなく、複雑なノイズの中に置くことを心がける。「仕事の手を抜く」と言ってしまえば少し抵抗があるが、他者の文脈に触れ人生を豊かにするための行動と考えれば、お給料以上に意義のある営みに思えてこないだろうか。
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以上が本書の一部まとめである。
本書を読んだ感想だが、「読書」と「情報」の分析がだいぶ雑だ。筆者の主張は「読書はノイズが含まれるアンコントローラブルなエンタメであり、それは自己啓発書に代表される『非ノイズ主義=コントロールできる行動に注力する姿勢』と相反しており、現代社会における『労働第一』の価値観のせいで読書体験が邪魔なものだと思われているから、本が読まれない」ということなのだが、そもそもどのような性質のコンテンツが「ノイズ」で、どれが「取るに足らない『情報』」なのかを定義していない。筆者が下等に見ている自己啓発書にしても、大衆小説と比べてノイズ性が低いとは一概に言えず、決して「コントローラブルな情報」とは断定できないだろう。(教養を主体とする人文書に比べて頭を使わないジャンルなのは確かだが。)

本書は「読書史」を検証するにあたって、本のジャンルを2軸から語っていた。一つはその時代に流行っていた小説、雑誌、エッセイといった「娯楽本」であり、もう一つは修養・教養を重視する「ビジネス本」である。明治時代から1990年代まではこの括りの中から見えてくる国民精神を解説していくのだが、何故か2000年代以降から「ビジネス本」にしかフォーカスを当てず、「読書は情報摂取という目的に追いやられてしまった」と結論づけている。現代のビジネス本が「教養」ではなく「情報」重視になっていることは否定しないが、それはあくまで「ビジネス本」の範疇(=本全体のうちの一部のジャンル)だけで起こった変遷ではないだろうか。
そもそも、本書は本の「娯楽性」に着目しておらず、小説やエッセイ、ノンフィクションを読む層を検討から除外している。労働環境が転換する以前の1960年代・70年代には、サラリーマン大衆小説や時代小説も一定の売上があった。2010年代以降は、書籍全体の売上は落ちたものの自己啓発書の売上は一定を保っているわけだが、果たして小説、エッセイ、ノンフィクションを読む層はどこに消えてしまったのか?労働に根ざしたものでない純粋な読書をする層の検証をしなければ片手落ちに感じてしまう。

加えて、本書全体にわたって「読書以外の娯楽」にフォーカスしていないのもだいぶ致命的である。
筆者は終始『花束みたいな恋をした』のワンシーンを引き合いに出しているが、このシーンから読み取れるのは「仕事が忙しくなり本を読まなくなった」ではなく、「仕事が忙しくなり、読書が簡単な娯楽に置き換わった」だろう。統計調査で、読書量が減った人(35.5%)のうち半数近くが「仕事や家庭が忙しくなったから」だと答えているが、実際には今の20代は1日あたり平均3時間半近くスマホをいじっている。読書に当てる時間が完全に仕事や家事に置き換わっているわけではない。ならば、検証すべきは「なぜ働いていると本を読まずに違う娯楽をしてしまうのか」である。余暇時間がどこに振り分けられているかは「読書離れ」を検証するうえで必須だと思うのだが、それが全くなされていなかった。

読書以外に娯楽の多様性が増えた、そして「ノイズ」となりえる知識は読書以外の方法で摂取するようにシフトした、という可能性を無視してはならないと感じた。
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【まとめ】
1 明治時代
日本の労働が現代の様式と近くなったのは、労働という言葉が使われ始めた明治時代――日本が江戸幕府から明治政府へその政権を移し、そして欧米から取り入れた思想や制度によって近代化を成し遂げようとした時代だった。このときから日本人の働き方はすでに長時間労働であり、鉄工業労働者は1日13〜16時間も働いていた。
活版印刷が日本で普及し始め、朗読から黙読の文化に移り変わったのもこのころだった。現代の私たちが想像する「読書」の原型が生まれた時代だったといえる。

1871年(明治4年)に刊行された『西国立志編』は欧米の成功者の伝記を翻訳した本であるが、明治末までに100万部を超えるベストセラーとなった。『西国立志編』が打ち出した「修養」の思想はまさに「男性たちの仕事における立身出世」のノウハウであり、自己啓発書というジャンルの先駆けであった。


2 大正時代
大正時代、国力向上のために全国で図書館が増設されると、日本の読書人口は爆発的に増大した。書店の数も急速に増加し、明治末の3000店から昭和初期には1万店を超えるようになる。
一方で大正時代のベストセラーは、自己の改良よりも自己の苦しみに目を向けたものが多かった。宗教書、社会主義の啓蒙書といった重ためのジャンルの本が売れていた。日露戦争の増税や戦後恐慌による不景気によって、社会不安が増大した時代だったからだ。サラリーマンという雇用形態が生まれ、「安月給による苦しい労働者」というイメージが作られたのもこの時代である。

大正時代には、労働者階級とエリート階級との間に自己啓発の概念の違いが生まれた。行為を重視する「修養」と、知識を重視する「教養」が分離したのだ。「教養」=エリート=サラリーマン等の新中間層が身につけるもの、「修養」=ノン・エリート=田舎の労働者が実践するもの、といった図式が生まれていった。現代の私たちが持っている「教養を身につけることは自分を向上させる手段である」といううっすらとした感覚は、まさに「修養」から派生した「教養」の概念によるものだった。

その担い手となったのが「中央公論」を代表とする「総合雑誌」と呼ばれる教養系雑誌であった。


3 高度経済成長期前後――1950〜70年代
大正時代から戦前、「教養」はエリートのためのものだった。
だが戦後、じわじわと労働者階級にも「教養」は広がっていく。それはまさに、労働者階級がエリート階級に近づこうとする、階級上昇の運動そのものだった。
1950年代、中学生たちはふたつの進路に分かれざるをえなかった。就職組に入るか、進学組に入るか。1955年(昭和30年)には高校進学率が51.5%になっていた。2人に1人が就職する時代だ。結果的に高校進学率が低かった時代と比較して、家計の事情から就職せざるをえなかった人々の鬱屈は増した。
その鬱屈ゆえに、定時制高校に働きながら通う人々は増えた。50年代半ばまでに50万人を超えた「働きながら高校に通う青年たち」が求めたのは、「教養」だったのだ。教養は、家計の事情で学歴を手にできなかった層による、階級上昇を目指す手段だった。学歴が階級差として存在していた当時、そこを埋めるのは、教養を身につけることだったのである。

一方で、高度経済成長期は日本史上最もサラリーマンが労働をしていた時代であった。1960年の労働者1人あたりの平均年間総実労働時間が2426時間。2020年が1685時間なのだから、現代の1.5倍近く働いている。
しかし、過酷な労働のおかげで、サラリーマン向けの大衆小説やビジネスマン向けのハウツー本――英語力や記憶力を向上させる本――がヒットした。日本の読書文化を結果的に大衆に解放したのが高度経済成長期だったのだ。

高度経済成長期が終わった1970年代になると、日本企業の社員評価の基準が変わる。企業が期待するサラリーマンであってくれるための努力を、社員が勤務時間外に自発的におこなうこと――「自己啓発」という概念が生み出されていった。


4 バブル前後――1980~90年代
1980年代はバブル景気であり、出版業界の売上も右肩上がりであった。
80年代の自己啓発書には、今までの「教養」重視から「コミュニケーション能力」「処世術」を重視するような転換が見られた。
また、80年代はカルチャーセンターを通じて、それまで男性たちの間で閉じられてきた「教養」が女性たちに開かれた時代でもある。

1990年代の自己啓発書は、「内面のあり方」ではなく、読んだ後読者が何をすべきなのかという「行動」を明示するようになった。1990年代は終身雇用の神話が崩壊し、バブル経済以前の一億総中流時代が終わりを迎え、新自由主義的な価値観を内面化した社会が生まれつつあった。ここにおいて、「自分のキャリアは自己責任でつくっていくもの」という価値観が広がっていくことになった。


5 読書は「ノイズ」とみなされた
1990年代後半以降、とくに2000年代に至ってからの書籍購入額は明らかに落ちている。しかし一方で、自己啓発書の市場は伸びている。
出版科学研究所の年間ベストセラーランキング(単行本)を見ると、明らかに自己啓発書が平成の間に急増していることが分かる。1989年(平成元年)には1冊もなかったのに対し、90年代前半はベスト30入りした自己啓発書が1~4冊、1995年に5冊がランクイン、1996年には『脳内革命』と『「超」勉強法』がランキングの1、2位を独占した。この後の2000年代もこの勢いは続いた。
90年代はまさに自己啓発書のはじまりの時代だったといえる。

自己啓発書の特徴は「ノイズを除去する」姿勢にある、と社会学者の牧野智和は指摘する。
自己啓発書は、自己のコントローラブルな行動の変革を促そうとする。つまり他人や社会といったアンコントローラブルなものは捨て置き、自分の行動というコントローラブルなものの変革に注力することによって、自分の人生を変革する。それが自己啓発書のロジックである。
そのとき、アンコントローラブルな外部の社会は、ノイズとして除去される。自分にとって、コントローラブルな私的空間や行動こそが、変革の対象となる。

コントロールできないものをノイズとして除去し、コントロールできる行動に注力する。それは労働市場に適合しようと思えば、当然の帰結だろう。
だとすれば、ノイズの除去を促す自己啓発書に対し、文芸書や人文書といった社会や感情について語る書籍はむしろ、人々にノイズを提示する作用を持っている。
本を読むことは、働くことのノイズになる。読書のノイズ性――それこそが90年代以降の労働と読書の関係ではないだろうか。

スマホゲームをはじめとするコントローラブルな娯楽、既知の体験の踏襲は、知らないノイズは入ってこない。対して読書は、何が向こうからやってくるのか分からない、知らないものを取り入れる、アンコントローラブルなエンターテインメントである。
1990年代以前の〈政治の時代〉あるいは〈内面の時代〉においては、読書はむしろ「知らなかったことを知ることができる」ツールであった。そこにあるのは、コントロールの欲望ではなく、社会参加あるいは自己探索の欲望であった。社会のことを知ることで、社会を変えることができる。自分のことを知ることで、自分を変えることができる。
しかし90年代以降の〈経済の時代〉あるいは〈行動の時代〉においては、社会のことを知っても、自分には関係がない。それよりも自分自身でコントロールできるものに注力したほうがいい。そこにあるのは、市場適合あるいは自己管理の欲望なのだ。


6 情報の増加と読書の減少――2000年代
2000年代の労働者の実存は、教養ではなく労働で埋め合わせるようになっていた。好きを活かした仕事、やりたいことに沿った進路決定など、自分の人生全体を労働と直結する動きが見られるようになる。
2000年代、インターネットというテクノロジーによって生まれた「情報」の台頭と入れ替わるようにして、「読書」時間は減少していた。「情報」と「読書」のトレードオフがはじまっていたのだ。

読書で得られる知識と、インターネットで得られる情報に、違いはあるのか?

「読書」の最も大きな差異は、前章で指摘したような、知識のノイズ性である。
つまり読書して得る知識にはノイズ――偶然性が含まれる。教養と呼ばれる古典的な知識や、小説のようなフィクションには、読者が予想していなかった展開や知識が登場する。文脈や説明のなかで、読者が予期しなかった偶然出会う情報を、私たちは知識と呼ぶ。
しかし情報にはノイズがない。なぜなら情報とは、読者が知りたかったことそのものを指すからである。コミュニケーション能力を上げたいからコミュニケーションに役立つライフハックを得る、お金が欲しいから投資のコツを知る。ノイズの除去された知識、それが「情報」なのだ。


7 働いていると、読書が邪魔になる――現在
現在では、速読本や読書術本の流行によって、読書を「娯楽」ではなく処理すべき「情報」として捉えている人の存在感が増している。労働のためには、読書に含まれる「ノイズ」は邪魔であるのだ。

しかし、現実の世界には、今の自分にはノイズになってしまうような「他者の文脈」が溢れている。入口が何であれ、他者の文脈に触れることは生きていればいくらでもある。
大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしないことだ。
仕事のノイズになるような知識を、あえて受け入れる。
仕事以外の文脈を思い出すこと。そのノイズを、受け入れること。
それこそが、私たちが働きながら本を読む一歩なのではないだろうか。

自分から遠く離れた文脈に触れること――それが読書なのである。
そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは、余裕の無さゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。
仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がなくなるからだ。

働きながら、働くこと以外の文脈を取り入れる余裕がある社会。半身で働くことが当たり前の社会。それこそが「働いていても本が読める」社会なのである。わたしたちは全身全霊をやめ、様々な文脈の中に身を置いて生きる「半身社会」を目指すべきなのだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2024年8月7日
読了日 : 2024年8月3日
本棚登録日 : 2024年8月3日

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