超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』 (講談社現代新書)

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レビュー : 22
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俺さん  未設定  読み終わった 

2016.3.22
第4章"精神"まで読み終わってギブ。超解読でもかなり難しいです。でも、なんとなくでも意味は掴めて、しかもそれが非常におもしろい。特に精神の章の、道徳と良心の話は、人間はいかに生きてきて、そしていかに生きていくべきか、その思想過程、歴史過程が見えてとても参考になった。ヘーゲルは全体的に相反する2つの統一という、弁証法的思索によって話が進んでいく。個と集団という二項において、昔は個はなく、集団のみがあった。近代によって個が誕生したが、それはまた今度は個によりすぎ、集団を、つまり繋がりを失ってしまった。私が日本に関して感じている社会的イメージもこれである。ネット環境の発達、核家族化、繋がりの煩わしさから個別化が進み、それによって繋がりによって育まれるべきものがなくなっている。別の本の言葉を借りれば、命の場所がなくなっている、と言える。そしてこの二項の統合、つまり個体でありながら主体的に繋がりを作っていく、個と集団の統合が今後の歴史的、そして個人的目標となる。これは社会論というか、人類いかにあるべきかの視点でのひとつの答えである。また道徳において、それは彼岸に理想をおき、現実を愚かと否定するものであり、そこには理想と現実との対立がある。これを解消するには、理想つまり道徳の意志から、現実つまり欲望や感情、感性を陶冶するしかない。しかしそれは難しいことである。また道徳とは、理性的なものであり、正しいか否か、という正義の問題である。絶対的正しさを持って作られた道徳的理想があり、それにそぐわないものが現実と考えるものである。そこで登場するのが良心という概念である。これは、自己の確信を拠り所に、何が正しいか、何が正義かなんてのは、そういう道徳的な絶対根拠は持てない、けど私は、確かにこれが正しいと思う、という確信の問題である。この発想は竹田のフッサール論に非常に近いものがあるように思うし、こう考えると我々の知は新たな段階、つまり正しいか否かで考えるのでなく、確信によってものを考えるという認識の方向にパラダイムシフトしていくべきなのかもしれないと考える。なんにせよ良心はそのような感性的な、正しいと思ってるから正しいという確信のことであり、しかしまた道徳との違いとして、その確信を絶対のものとせず、常に変化し進化するものとして他者に開かれたものでなければならない。良心において必要なのは、自己の確信がまた他者の確信であるという確信、俺は正しいと思ってこれをやるし、社会一般もそうだろう、という確信である。そしてそれは他者に自己の確信を言明し、行動し、表明することで批判に晒すことで得られるものである。そして良心には、行動する良心と批評する良心とがいる。行動する良心は自己の確信に則って行動する良心であり、それは自らの感性、正しいと思ってる故に正しいことをやりたいという素朴な感情で動く人である。対して、批評する良心とは自己の確信に限らず人には様々な確信があって、その社会的確信に自らの合わせる人である。そして双方ともに大切なのは、自らを絶対化させないことである。外に開かれていることである。確信が絶対化すると独我論になり、そこにわかりあいの余地はない。こうして、確信に則って、ある人は行動する良心であり、ある人は批評する良心であり、そして彼らが互いに自らを開き、そして認め合う、ここに相互承認という近代における最も大切な社会原理が生まれることになる。私個人に還元するなら、私はまさに批評する良心であり、しかも他者に開かれるどころか、人と人はわかりあえない、ならば分かり合う努力など無駄に等しいと思い無口を貫く人だった。または承認欲求を丸出しにすることが恥ずかしかったのもある。しかし本当の良心的確信は、自己の確信を社会に晒して、他者の確信と擦り合わせなければならないのだ。分かり合う努力を避けるだけでは私は本当の確信を得られず、独我論的世界観で自己満足に浸ることになる。承認欲求によって、認めて欲しいから口を開くのではない、私のこの確信は果たして人に認められるのか、それを試すために口を開こうと、そう思った。正直理解は乏しいのだが、非常に参考になる知がここにはあると確信できた一冊。また読みたい。

レビュー投稿日
2016年3月22日
読了日
2016年3月22日
本棚登録日
2016年3月22日
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