20157.25我々は「人間的」というイメージを持っている。そしてその枠から外れた行為を、非人間的と見なす。しかしそれは逆であって、現実を説明するために言葉は生まれるはずなのに、言葉によって現実が歪められている。本来、人間の行うすべての善行悪行は人間的である、なぜなら人間がやってんだから。しかし我々の人間観、人間を見る物差しで見たら、非人間になる。よって「人間、この非人間的なもの」となる。このエッセイで行われている試みは、人間は我々が思っているような理知的、善的、神的な生き物ではなく、もっと愚かで、悪で、俗な存在であり、それこそが人間なのである、という人間観の転換である。なぜそんなことをするのか、それは、非人間と退けることは、臭いものに蓋をするだけで解決には向かないからである。例えば最近の、残酷な少年犯罪、育児放棄、ネット社会の中傷、過去にはアウシュビッツや南京虐殺など、およそ人間的とは言えない諸行があるが、それは彼らが狂っているから行われたのだ、とするのは間違いで、彼らも人間であり、よってその行いも人間的であり、つまり我々の中にも彼らと同じ、狂人性や残虐性があると考えるべき、そういう攻撃性をもつのが人間だと考えるべきということである。少し古い本なので書かれてる内容の事例が知らないものだったり、観念的なところもあったけど、このような、人間を観る際の、現実から出発し思い込みを疑う視点、目の前の事実こそが材料であり、それを自らの価値観で曲げるのでなく、寧ろ価値判断そのものを修正するという視点は、とても勉強になった。また個人的には、我々のいう人間的イメージはとても理性的、つまり顕在意識的存在であるのに対し、この著者は人間の意識では認識しえない、潜在意識的存在に、客観的な視点を投げかけているように思える。人間の理性には自らの潜在意識を認識するのは困難であり(故に潜在、というわけで)、しかしその側面も含め、我々は人間である。我々は様々なことにある程度の思い込みをもって対応することで、余計な負担を脳にかけないようにできているが、時にその思い込みが自らを縛ることにもなる。そして縛られていることにも気付かず、籠の中の自由を得ている人も多いはず。この本は、その籠を認識して壊し、より自由になるための本でもあり、そのためのものの見方を養える本でもあるように思われる。様々な社会的な事例や著者の体験から、善でも悪でもなく事実として、人間の潜在的側面も含めたリアルな人間観を説き、「人間」という固定概念を壊してくれるエッセイ。我々が信じているもの、当たり前と思っている価値観を対象化して改めて問うことは難しい。そもそも、我々は何を信じて、何を当たり前としているのか、あまりにも無意識的で認識することすら難しい。でもそういう視点、見えないものに目を向けて、信じているものを疑ってみる、という視点は大事だと、自由への一歩だと思いました。
p.s.2015.8.22
この本とは関係ないのだが、ふと授業でなだいなださんの書籍を扱った時のことを思い出した。そこには、いつか憎むと思って愛し、いつか愛せると思って憎む、という言葉があった。その諸行無常感が仏教的というか。私も、自分や世界に対する理想と現実にたいし、変わると思って諦め、変わらないと思って努力しようと思う。
- 感想投稿日 : 2015年7月25日
- 読了日 : 2015年7月25日
- 本棚登録日 : 2015年7月25日
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