自死という生き方 (双葉新書)

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レビュー : 10
著者 :
takumi2017さん  未設定  読み終わった 

2017.9.9
私は死ぬ。この認識は、ニヒリズムを呼び寄せる。どうせ死ぬなら、何をしたって無駄じゃないかと。しかしこれは誤りであり、自分の死を客観的に、三人称視点から眺めたものでしかない。なぜなら、例えいつか死ぬにしても、今食う飯はうまいし、今飲む酒はうまいからである。終わりから今を反省するから、死がニヒリズムを呼ぶのであって、自分が生きるということを、一人称の今からこそ考えるべきではないか。そうすると、今の連続である人生においていかに楽しさを、悦びや価値を見出していくか、これが生きることの課題となる。これが私の意見だった。
この本は私のそのような人生観を後押しした上でなお、死ぬという不可避の不可能生に対して、このような態度を取りうるのかという衝撃の本であった。十分に楽しんで、もうこれ以上は、これまで以上の楽しみはないだろう。そして人はぽっくり死ぬのではなく、実情としては、ゆっくりと、じわじわと、ギロチンを眺められる距離で焦らされながら、死ぬのである。本書で紹介されていた、キューブラー・ロスの『最後のレッスン』も見た。多くの死に瀕した患者によりそい、聖母と称えられた彼女が、自らの死を受け入れることの困難から神を呪う姿は、私には偽善というよりは、ものすごいリアリティを感じるものだったし、かつその上での彼女の、愛するという課題ではなく、愛を受け入れるという課題への気づきは、身につまされるものがあった。しかし何よりも衝撃なのは、死というものの強大さである。
その強大さの中で、死に踏みにじられ、何もできないまま死んでいくよりは、自らこれ以上の満足がないならば、死を選ぶというのは、妥当な選択であるようにも思える。人は生きるために生きるのではなく、喜びや価値のために生きると考えているし、そう考えれば合理的な判断である。しかし私はまだ20代後半だし、もうここからは下りしかないという可能性を実感を持って経験していないし、死が一切の可能性の消失であり、仮に下り坂であっても少しでも喜びの価値があるならば、簡単には自ら死を選べない気もする。この本での死の受け入れ方は、例えていうなら、今まで野球に精を出していたけど、これ以上はかつての自分を超えることもできないし、野球はもう楽しくなくなったし、野球をやる意味がなくなったからやめる、というような意味で、生きることをやめるということである。やめたいからやめるのである。誰かからの指示や、そうするべきだからではない。こんな状態になれるものだろうか…
また本書での主題ではないが、変性意識や、自分と距離をとる意識(一人称と三人称、個別実存的視点と俯瞰的視点の違いと、楽しむ上での実存視点の重要性の指摘)、報酬系と罰系の快不快システムの違い(これは人間の時間性の問題であり、その時々の未来を今よりも上と見るかしたと見るかの違いである)などの心理学的指摘も面白かった。自死という生き方を選べる人間が実存的、報酬系システム、変性意識が多い人間であるならば、私は真逆の、俯瞰的、罰系システム、変性意識もなく冷静な人間である。このままだと死に未練タラタラなこと請け合いである。が、私のこの生き方の全てが間違っているとも思わない。二つの視点と、二つの生き方のいいとこ取りをして、生きていこうと思う。
死を考えることは生を考えることである。そういう意味で、本書からは自分の生き方を検討すべき多くの材料をもらった。

レビュー投稿日
2017年9月21日
読了日
2017年9月9日
本棚登録日
2017年9月9日
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