日本語と事務革命 (講談社学術文庫)

著者 :
  • 講談社 (2015年12月11日発売)
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感想 : 7
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・梅棹忠夫「日本語と事務革命」(講談社学術文庫)は、 今となつては一種の日本語の機械処理に関する歴史文書とでも言ふべき書であらう。いや、機械処理とはいささか大袈裟か。仮名タイプライターからワープロへと移行し始める頃の出来事である。だからこそ、時代の雰囲気を知ることのできる歴史的文書たりうる。今となつては貴重である。何しろ、例の「知的生産の技術」「文明の生態史観」の梅棹忠夫である。一世を風靡した学者の著作である。その人の日本語処理に関する考へ、時代からして古いのは当然だが、だからこそ 歴史的な資料として読める。しかもそれなりにおもしろい。梅棹といふのはかういふ人だつたのだと改めて思ふ、そんな文書である。
・本書はどこをとつてもおもしろいし、歴史的な資料たりうる。こんな一文がある。「ひらかなを主体とし、部分的にカタカナをまじえ、用語をえらんで,全体にわかちがきをほどこせば、じゅうぶんによむにたえる文章になる。わたし自身は、ちかい将来の日本語のむかうべきかたちとして、この方法はじゅうぶんに検討にあたいするとかんがえている。」(212頁)これはカナかなタイプライターに関する記述である。梅棹は70年代にブラザーと組んで日本語のタイプライター開発に挑んだ。結局は商品化されることなく終はつたが、試作品はできた。引用はそれに対する感想の一部で、要するにカナかなタイプは使へるといふのである。ただし、引用のやうな文章にしてといふことである。私のやうに現代仮名遣ひを使はず、漢字も使へる字は使ひ、決して分かち書きなどは考慮しないといふ人間は以ての外、あくまで仮名文字主体の文章を書けといふのである。そのためには用語選択で漢語を減らし,難解語は言ひ換へで漢語以外にせよといふことでもあらう。さうして、それでは読みにくいから分かち書きにせよといふのである。私は以前、カナモジカイの機関誌『カナノヒカリ』を読んだことがある。カナモジ、分かち書きの文章、読みにくくてつまらない文章だと思つた記憶がある。梅棹はたぶんこの支持者である。カナモジ論者ではないのかもしれないが、十分に共感して同志的な心情を抱いてゐたはずである。だからこそ引用のやうな考へができる。仮名文字中心の分かち書きを「じゅうぶんによむにたえる文章」と評価できるのである。現在でもカナモジカイは存続してゐるらしいが、私がこんな書き方しかできないのだから、以前に比べるとずいぶん影が薄くなつた。昔は 国語問題で表意派と張り合つて意気軒昂だつたはずである。梅棹はその後にこの文章を書いたのであつたか。本書のテーマの日本語の事務処理、機械処理がタイプラーター中心に動いてゐた頃のことであらう。さう、正にこれは歴史的な一文である。梅棹のやうに情報処理に長けた人でも、その頃はこの程度の日本語処理しか期待してゐなかつたし、現実に処理できなかつたのである。その結果として、いやそれ以前に、梅棹には信念、あるいは思想としての仮名書き、分かち書きがあつた。これはさういふことを教へてくれるのである。現在ではほとんど通用しない考へであらう。梅棹のいふ「ちかい将来の日本語」の中に私はゐて、今、 これを書いてゐる。所謂歴史的仮名遣ひは傍流でしかなくとも、仮名文字主体の分かち書きもまた傍流でしかなからう。いや、更なる隅に追ひやられてゐるのかもしれない。それは日本語の機械処理が梅棹等が考へるよりはるか上をいつたからである。梅棹のやうな人でもここまでは見抜けなかつたのである。日本語の現状を見て、梅棹はさぞあの世で悔しがつてゐることであらう。本書はそんな歴史的文書なのである。

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感想投稿日 : 2016年3月6日
読了日 : -
本棚登録日 : 2016年3月6日

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