シェイクスピアの正体 (新潮文庫 か 76-1)

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  • 新潮社 (2016年4月28日発売)
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・河合祥一郎「シェイクスピアの正体」(新潮文庫)は劇作家のシェイクスピアは誰なのかといふ内容の書である。役者シェイクスピアが劇作家シェイクスピアであると私は信じてゐた、といふより、ほとんどそれだけしか知らなかつた。それでもフランシス・ベーコンがといふのはきいたことぐらゐはあつた。これもそれ以上ではないので、結局、私は役者=劇作家としか考へなかつた。個人的にはシェイクスピアはシェイクスピアであるといふだけのこと、一般に役者=劇作家と言つてゐるだけで十分だと思つてゐたのである。ところが、たまたま本書が出てきた。それでもと思つて読んでみた。その結論は別人説否定、役者=劇作家であつた。結局、何も変はらないのである。シェイクスピアはシェイクスピア、これだけのことであつた。
・別人説の中でおもしろいと思つたのはオックスフォード伯爵説であつた。私はこの名前を見るとバードの「オックスフォード伯爵のマーチ」を思ひ出す。これは「戦ひ」の組曲中の有名な曲、フィリップ・ジョーンズ金管アンサンブルの編曲、演奏で特に知られてゐる。この伯爵は17代であらうか。ならばバードとほぼ重なる。それゆゑに、あのマーチの伯爵がシェークスピアであるのならば私には嬉しいことで、ますますシェイクスピアのファンになりさうである。劇作家≠ 役者ならば、その劇作家第1候補がこの伯爵であるらしい。「語彙や文体はシェイクスピアのものにとてもよく似ている。」(112頁)「オックスフォード伯爵は劇作家として優れているという当時の評判があったにもかかわらず、どういうわけかその戯曲がひとつも残っていない。」(113頁)「伯爵の生涯は、驚くほどシェイクスピア作品との呼応に満ちている。」(同前)「伯爵の個人指導をした叔父のアーサー・ゴールディングは、シェイクスピアにとって宝の山とも言うべきオウィディウスの『変身物語』の翻訳者である。」(114頁)等々、かくして伯爵が役者の名前を借りて作品を発表してゐたのだとなりさうなのだが、物事、さう簡単にはいかない。ここに「致命的な問題がある。伯爵は一六〇四年ペストに感染して、その年の六月二十四日に死亡しているのに、シェークス ピア作品は一六一一年まで書かれ続けているのである。」(127頁)伯爵没後の作品は誰の作なのかである。作品はすべて伯爵の死以前に書かれたと考へるこ ともできるらしい。しかし、共同執筆者の問題から、結局、この伯爵も「最終的にはシロと結論するしかない。」(128頁)のであつた。このやうに、劇作家≠役者と仮説を立てても、役者以外の人物を具体的にシェークスピアに特定できないのである。本書のこのやうな諸説検討もおもしろいのだが、最後のあたりにある、「別人説が前提としているのは『シェイクスピア作品は優れている、シェイクスピアは天才だ』という発想だということである。」(266頁)といふ一 文が鋭いと思ふ。ある意味、当然のことである。今でこそシェークスピアは文豪で通つてゐるが、その当時はシェークスピアも普通の劇作家であつた。これに関する考察もある。語彙数、外国語や古典の素養、これらは特に優れてゐるとは言へないらしい(269頁以降)。ただ、「シェイクスピアの取材能力の高さ」 (272頁)とは言へるやうで、これがその作品を豊かなものに見せてゐるらしい。そんなわけで、シェイクスピアに於いて、役者は劇作家であつた。さうすると、現代はシェイクスピア候補の役者がそろつてゐる時代である。何百年の歳月に耐へうる作品がそこから生まれるのかどうか。問題はそこなのだが、それでもさう考へるだけで楽しい……。

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感想投稿日 : 2016年6月12日
読了日 : -
本棚登録日 : 2016年6月12日

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