『大鏡』や『紫式部日記』などを読むと、やっぱり気になるのが藤原道長。
彼は政治の実権を天皇に仕える貴族がにぎっていた時代、 ひときわ大きな権力を持っていた。
「この世をば……」の歌や、摂関政治全盛期の権力者ということから、道長には野心家で尊大なイメージがつきまとう。たしかに『大鏡』には、道長の栄華を讃える目的があったので偉大な道長像が描かれていた。けれど、『紫式部日記』や『枕草子』に登場する道長には、もっと身近な存在としての印象を受けるのだ。
本当の道長ってどんな人物だったのだろう。道長の内面というものに迫りたくなり、道長の記した『御堂関白記』について書かれた本書を読んでみた。なお、世界最古の自筆本日記である『御堂関白記』は2013年6月18日「世界の記憶」に登録されている。
本書『藤原道長「御堂関白記」を読む』は、『御堂関白記』の原本写真を撮影し、翻刻文(原文)と現代語訳、そして解説を並べ、わかりやすく日記の魅力が伝わるように構成されている。
序章でまず目に入るのは、『御堂関白記』長保2年(1000)正月10日条の自筆本だ。
そこには3行に渡り、かなり太い線で力強く黒々と消された印象的な抹消部分がある。
この日、道長は彰子立后に対して一条の勅許が下ったと思い込み、安倍晴明を召して立后の雑「事」を勘申させた。ところが事実は、いまだに一条は彰子の立后をためらっていたとのことで、道長は慌てて〈彰子立后勘申に関する部分のみ〉を、一生懸命に抹消した……ということらしい。
この日に書かれた日記全体を抹消するならば、道長が一条に対して立腹しているとか、彰子立后が成就しないことを悔しく思ってるとか、そんな想像もしてしまうけれど、「勘申」の部分だけを消したのならば、著者の言う「慌てて」消した可能性の方が高いのだろう。
その墨を磨り直した形跡までもある、気合いを入れた消し方。それでいて墨がかすれていい加減な抹消となっている部分。そんな小さな痕跡を解読しながら、道長のその時の感情や人となりを想像するというのは、なかなか面白い試みだ。
また同年正月1日条の日記には、道長の弱気な態度が見られる。
参入した公卿の見参簿(出席簿)を一条に奏上しようとしたところ、公卿たちは道長を残して退出してしまう。明らかに公卿たちの失態なのであるが、道長は、これは儀式を主宰する自分が、それに相応しい人間ではないからであろうかと綴っているのだ。
このように『御堂関白記』には、権力者道長の本来の姿が所々に顔を出す。
現存する『御堂関白記』は、長徳4年(998年)から治安元年(1021年)に至る、道長33歳から56歳までの記事を収めている。
そのなかでも、わたしが関心をもつ彰子が立后してから東宮敦成親王の即位(後一条天皇)、そしてそれにともなう道長の摂政就任……という頃の日記は特に興味深く読んだ。
それに加え、この道長と一条天皇を中心とする時代には、『御堂関白記』だけでなく、実資の『小右記』、行成の『権記』の三種の日記が存在したのだから素晴らしい。なぜなら同じ出来事についても三者三様の記述を読み解くことができ、摂関政治と王朝文化の最盛期について、わたしたちは正確かつ緻密に知ることができるからである。
しかしながら『御堂関白記』は、他の古記録とは異なり、自分の日記を他人や後世の人びとに見せることを想定していなかった。
「件の記等、披露すべきに非ず。早く破却すべき者なり。」
と道長は、寛弘7年暦巻上の標紙見返に書き付けている。
道長はこの日記を、後世に伝えるべき先例としてではなく、自分自身(せいぜい直系の摂関)のための備忘録として認識していたのだろうと著者は述べる。自分の主宰した儀式に誰が出席し(逆に誰が欠席し)、どの身分の者に何を下賜したか。これこそが道長が後年にまで記録しておくべき出来事だったのだ。
- 感想投稿日 : 2021年2月9日
- 読了日 : 2021年2月9日
- 本棚登録日 : 2021年2月9日
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