17世紀フランスの哲学者、数学者、自然科学者、キリスト教神学者であるブレーズ・パスカル(1623-1662)の遺稿集。未完に終わったキリスト教弁証論(合理主義や懐疑論に対してキリスト教を擁護する議論)のために書き残された草稿をまとめたもの。

本書の構成は、パスカルが残した草稿を内容別に14の項目に分類整序して配列しなおしたブランシュヴィック版(1897年)に基づく。このブランシュヴィック版では、前半(第1章~第6章)には人間性に関する研究が展開されており必ずしも宗教的背景をもたない現代人にとっても興味深いものであるが、後半(第7章~第14章)のキリスト教に関する議論はキリスト教やその歴史について相応の予備知識がないと理解が難しいと思われる。

本書を通して、実存思想と信仰とのかかわり(深い信仰心に基づく思索が、人間存在の根源的な在り方としての実存への覚醒を導き、その覚醒がさらに深い信仰へとつながっていく)を、そして実存という考え方が20世紀のハイデガーやサルトルらによって突如として語られはじめたのではなくて長い西欧精神史のうちに跡付けられるものであるということを、驚きをもって確認することができた。

以下、興味をもった点について簡単にまとめておく。

□ ジャンセニズム

パスカルは若い頃から、円錐曲線論、流体に関するパスカルの原理、確率論など数学や自然科学に関して業績を上げてきた一方で、1654年の「回心」以降は信仰生活に入っていく。彼が傾倒したジャンセニズムは、思想的に次のような特徴をもっている。則ち、それはアウグスティヌスの流れを継いで、人間存在に対する神の絶対性を強調する。つまり、神と人間とのあいだには近接不可能な絶対的隔絶があり、神に対して人間の理性や自由意志の力は徹底的に無力であるとされる。この考え方は、神と人間とのあいだに契約関係が成立するとみなす人間主義的なジェズイットとは対照的である。人間に一切負っていないジャンセニズムの神と、契約関係を通して人間に規定されてしまうジェズイットの神との対照は、17世紀の時代精神における信仰と理性との緊張関係を反映している。ジャンセニズムはカトリック内部の最左派として、むしろプロテスタンティズムに近いものと位置づけられる。こうしたジャンセニズムの考え方が、パスカルの人間観の底流にある。

□ 実存への覚醒

① パスカルは人間を「中間者」として規定する。則ち人間は、無限大からも無限小からも等しく隔てられた存在である。中間者であるがゆえに、人間は、無限大の方向であれ無限小の方向であれ、究極的な実体というものを把握することができない。

「無限に対しては虚無であり、虚無に対してはすべてであり、無とすべてとの中間である。両極端を理解することから無限に遠く離れており、事物の究極もその原理も彼に対して立ち入りがたい秘密のなかに固く隠されており、彼は自分がそこから引き出されてきた虚無をも、彼がそのなかへ呑み込まれている無限をも等しく見ることができないのである」(七二、p44)。

② さらにパスカルは、こうした「中間者」という規定から、人間を不釣合な存在 disproportion とみなす。則ち人間は、自己を基準としてそれとの比例関係 proportion において世界を捉えることができない。

「われわれは、広漠たる中間に漕ぎいでているのであって、常に定めなく漂い、一方の端から他方の端へと押しやられている。われわれが、どの極限に自分をつないで安定させようとしても、それは揺らめいて、われわれを離してしまう。そしてもし、われわれがそれを追って行けば、われわれの把握からのがれ、われわれから滑りだし、永遠の遁走でもって逃げ去ってしまう。何ものもわれわれのためにとどまっ...

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2020年8月23日

読書状況 読み終わった [2020年8月23日]
カテゴリ 哲学

20世紀スイスの劇作家デュレンマット(1921-1990)による短編小説集。劇作家による小説らしく、いずれも読んでいると演劇を観ているような気分になる。

① 現代は、世界には不変的/普遍的な意味秩序が貫徹しているという前提が不可能となった時代である。
② つまり、世界から「もっともらしさ」が消失してしまった時代である。
③ そこにあるのは、各サークルがそれぞれの真善美を喚きあう胡散臭い喧騒だけである。
④ そして、「世界に真理はない」という言明自体が喧騒の一部としてしか成立し得ない。
⑤ よって現代は、世界に関して有意味な表現が可能なのかが常に問題となる時代である。

彼の不条理で奇妙な作風の背後には、こうした現代という時代への痛切な問題意識があったように思う。現代において「まだ可能な物語」とはいかなるものなのか、と。

□ 「トンネル」

① どうも何かが食い違っている気がする。
② つまり、世界は既に破綻をきたしているのかもしれない。
③ しかし、誰も世界の根源的なメカニズムを見通せない。
④ だから、何もなす術がない。
⑤ よって、誰もが世界の破綻を直視せず日常をそのまま継続しようとする。

ひとは日常という分厚い肉の内奥に押し込められて、世界の実相にまるで近づけなくなってしまったよう。

□ 「失脚」

① そこでは誰もが恐怖に支配されている。
② しかし、誰もその恐怖の内実を捉えられていない。
③ よってなおさら、恐怖は空虚な中心を取り巻きながら自己増殖していく。

確固たる世界の認識とそれに基づく安定的な自他関係の構築が不可能な、一種の極限状態。

□ 「故障――まだ可能な物語」

「われわれを脅かしているのはもはや神でも正義でもなく、交響曲第五番のような運命でもなくて、交通事故や設計ミスによるダムの決壊、注意散漫な実験助手が引き起こした原爆工場の爆発、調整を誤った人工孵化器なのだ。われわれの道はこのような故障の世界へと通じている」(p119)。

□ 「巫女の死」

「われわれふたりの前に立ちはだかっているのは、途方もない現実、それを引き起こす人間と同じくらい不可解な現実なのだ。神々が――そういうものが仮に存在するとして――このお互いにもつれ合ったとてつもない事実、しかも恐ろしく破廉恥な偶然によって引き起こされた事実の巨大な塊の外にあって、その全体像を、表面的であるにせよ、何らかの形で把握しているのに対して、われわれ死すべき運命にある人間は、この救いようもない混乱のまっただなかにあって、途方に暮れてただ手探りしているだけなのだ」(p274)。

「世界を理性に従わせようとした私、想像力でもって世界に打ち勝とうとしたお前とこの湿った洞窟の中で対峙した私と同じように、これから先もずっと、世界を秩序とみなす者が、世界を怪物とみなす者と対峙することになるだろう。一方の者は世界を批判可能なものとみなし、他方の者は世界をそのまま受け入れるだろう。一方の者は、ノミを使えばひとつの石に形を与えることができるように、世界を変革可能なものとみなし、他方の者は、常に新しい顔を見せる怪物のように、世界がその不透明さとともに変わっていくこと、また人間理性のごく薄い層が人間本能のもつ非常に強い構造的な力に対して影響を与えることができる程度には世界を批判できるだろうということを指摘するだろう。一方はペシミストとののしり、他方は夢想家と嘲るだろう。一方は、歴史は一定の法則のもとに進行すると主張し、他方は、そのような法則は人間の頭の中にだけ存在すると言うだろう」(p276)。

2020年8月20日

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読書状況 読み終わった [2020年8月20日]
カテゴリ ドイツ文学

20世紀アメリカのSF作家ジェイムズ・ティプトリ―・ジュニア(1915-1987)によるスペースオペラの連作中編集、1986年。

どの話も好きになれない。

□ 第一話「たったひとつの冴えたやりかた」

集団のために自分の生命を犠牲にする行為を有意味かつ美しいものとみなす「英雄主義」の感性、そうした犠牲者を称揚する「英霊主義」の感性は、もしそこに政治的な思惑がないとするならば、ただの独善的な自己陶酔でしかない(もちろん、政治的な思惑がないからといって、政治的な効果をもたないということにはならない)。いかにも「日本人受け」する物語であろうとは思ったが、アメリカ本国でもそれなりに評価されているらしい。要は「特攻隊モノ」。この物語と同族のヴァリアントはいたるところで目にするありふれたものだが、そのプロトタイプは歴史的にどこへ/どこまで遡ることができるのかという点には興味がある。自己犠牲の物語が異様にひとを惹きつけるものであるのは事実であるから。「この小説を読み終わる前にハンカチがほしくならなかったら、あなたは人間ではない」と評されたそうだが、「感動」というのは確かに生理現象に近いものなのかもしれない。

「あたしゾンビになって生きのびたくなんかない」(p109)。

少女の宇宙冒険譚、という設定は面白そうでいい。なお原題は、”The Only Neat Thing To Do.”

□ 第三話「衝突」

この物語は、他者との関係性を構築しようとしているのではなくて、自己の内なる疑心暗鬼を他者に投影し、実際は不可能な正義の振舞いに自己を同一化させただけのものにしか思えなかった。そこにあるのは、他者を他者としてみることができずにいる、あくまで自己を主体として他者を劣位の客体のままに固定しておこうとする、独善的な植民地主義の眼差しであり、欠けているのは、自己を対象化する反省的な眼差しである。

第一話と第三話は、どちらも末尾における後日譚の語られ方に、物語の正体(作品とそれを消費する読み手とがともに前提としているイデオロギー)が暴露されてしまっている。

2020年8月18日

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読書状況 読み終わった [2020年8月18日]
カテゴリ SF

20世紀フランスの作家レーモン・クノー(1903-1976)による実験的な作品、旧版1947年、新版1973年。ある単純な出来事を99の文体で書き表したもの。

一時期はシュルレアリスムや実存主義のグループと近かったこともあった。その後もミッシェル・レリスやジョルジュ・バタイユらとは交友が続いたという。1960年に発足した文学グループ「ウリポ」にて、言語遊戯などを通した文学実験を展開した。



言葉が世界の像であり、世界が言葉の像であるならば、言葉遊びは世界をおもちゃにする遊び。言葉が世界と精神との境界接面であるならば、言葉遊びは精神をおもちゃにする遊び。世界も精神もいっぺんに笑って面白がってしまえる遊び。

もうひとつ、言葉のまえには読者がいる。読者も読書行為も、いっしょにパロディ化されて、そうしてみんな笑ってしまえる。そうした言葉の軽妙さ、つまり自由の軽妙さを味わえる。言葉をあいだにはさんで、世界も精神も、場所だとか属性だとかなくなって、描線もなくなって、中空に消失してしまいそう。ボルヘスみたいな高度の感覚。

読後、具体物のどんな影も残さないが、それでもこの本はなにがしかのものであって、それは言葉や読書がなにがしかのものであることと同じであると思う。そしてそれは、それ自体で、味わうに値するのだと思う。

「語られるべき内容がほとんどなくても、言葉は無限に増殖して一冊の本になることができるのだ」(p138,訳者)。

2020年8月16日

読書状況 読み終わった [2020年8月16日]
カテゴリ フランス文学

人類学者でありアナキスト活動家でもあるデヴィッド・グレーバー(1961-)による現代社会への問題提起の書、2018年。

学生時代に、書店で『アナーキスト人類学のための断章』という本を見かけ、その著者デヴィッド・グレーバーの名前を知った。「アナーキスト」と「人類学」という二つの語の結びつきが奇妙に感じられて印象に残ったのだが、これまで読んでみることはなかった。本書を読むと、「人類学」と「アナキズム」の結びつきが決して突飛なものではないということが、少しずつ了解されてきた。本書の中でも彼は自分の政治的立場を明確に述べている。「わたし自身の政治的立場は、はっきりと反国家主義である。つまりアナキストとして、国家の完全なる解体を望んでいるし、そこにいたるまで、国家にいま以上の権力を与えるような政策には関心がない」(p359)。

グレーバーが本書の主題として取り上げるのは、現代の大多数の労働者が全く無意味に見える業務に生活のほとんどの時間を費やしている、という問題である。彼はこれを「ブルシット・ジョブ」と命名する。現代人を苛むブルシット・ジョブの正体は何なのか。なぜそれは人間にとって有害なのか。なぜそれは増大してきたのか。なぜ人々はそれを減らそうとしないのか。こうした問いを、経済的、政治的、歴史的、社会的、文化的な多様な視点から解明していく。

以下では、私が捉え得た限りの論点を備忘録的に挙げておく。

□ ブルシット・ジョブの定義

ブルシット・ジョブは、以下の三要件を満たす有償労働として定義される。

① 実質的な価値が無く、無意味で、不必要で、有害な業務である。
② 被雇用者本人が①を自覚しており、その業務の存在理由を正当化できない。
③ ②にもかかわらず、被雇用者は①が真ではないかのごとく取り繕うよう、自他双方への欺瞞を強いられる。

一般に「割に合わない仕事(シット・ジョブ)」とされるものは、「無意味な仕事(ブルシット・ジョブ)」とは区別される。前者は不当に低収入ではあるが社会的に有益な仕事であることが多いのに対し、後者は過剰に高収入ではあるが社会的にはまるで無意味な仕事であるから。

□ ブルシット・ジョブの諸類型

ブルシット・ジョブの典型として以下の五類型が挙げられている。

① 取り巻き(flunkies)・・・上司に実際以上の権威があるかのごとく偽装するために上司のそばに侍る業務。具合的にいかなる業務がそこに割り当てられるのかは、二次的な問題とされる。女性秘書など。

② 脅し屋(goons)・・・消費者を脅迫して故意に彼らの不安を煽ることで、本来は存在しなかった需要を捏造する業務。広告業など。(美容技術を施した女優の美しさをみせつけることで)「われわれは視聴者が番組本編をみているあいだは自分たちに欠陥があるようにおもわせ、CM時間にはその〔欠陥への〕「解決策」〔商品〕の効能を誇張してみせるのです」(p63)。

③ 尻ぬぐい(duct tapers)・・・構造的に欠陥がある組織や無能な上司によって惹き起こされる損害の後始末をする業務。組織の不具合や上司の無能さといった問題の根本原因を解消することよりも、その問題に対応することに人員を割いたほうがましだ、と考えられている。

④ 書類穴埋め人(box tickers)・・・官僚機構において手続き上必要とされる書類を作成する儀式的な業務。そうした書類やひいては手続きそのものが実質的に有意味であるのかどうかは、二次的な問題とされる。なぜなら、官僚機構においていったんある制度が導入されれば、その実質的な是非は問われることなく、制度の永続的な運用が自己目的化されるから。背景には、実質的な業務よりも形式的なペーパーワークのほうが重要とみ...

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2020年8月15日

読書状況 読み終わった [2020年8月15日]
カテゴリ 社会科学

オーストラリアの論理学者グレアム・プリースト(1948-)による論理学の入門書、第2版2017年。



論理学の入門書というと、古典論理(特に命題論理と一階述語論理)の解説に多くの紙数を割くのが通例であろう。しかし、本書は非古典論理を含め広く「哲学的論理学」の話題を取り上げており、その点が最大の特徴であるといえる。日本ではこの「哲学的論理学」(論理学を用いて哲学上の諸問題を研究する分野)の入門書はまだ少数であり、その意味でも貴重な一冊であるといえる。この本の狙いは「哲学に深く根ざした論理学のルーツを探ることにある」。

著者は矛盾許容論理(paraconsistent logic)や真矛盾主義(dialetheism、真なる矛盾の存在を認める立場)の提唱者として知られており、非古典論理への関心が深い。また彼は『An Introduction to Non-Classical Logic』(2008)という定評のある教科書も執筆している。本書の内容は、彼のこうした関心領域が反映されたものとなっている。



各章の構成は概ね次の通りある。まず哲学的に興味深い議論(神の存在証明、パスカルの賭けの議論、さまざまなパラドクスなど)を取り上げ、次いでその妥当性を分析するための論理学的な枠組を導入し、最後にその枠組の限界を示す。このように問題が開かれた形で残されているため、読者はその先の思考へと促される。こうした仕掛けも、この入門書の特徴のひとつであろう。なお、章末にはそこで扱われた内容の要点がまとめられている。さらに巻末には、各章のテクニカルな部分の理解を確認するための練習問題と解答が付けられている。

「論理学はたしかにテクニカルな分野である.しかし,そこに生い茂るテクニカルなアイデアや成果の樹林は,哲学の土壌に深く根をおろしている」(p151)。



各章の主題とそこで取り上げられている話題について、以下に簡単にまとめておく。

第1章 演繹的に妥当な推論について。
第2章 命題論理とその解釈について。真理関数。
第3章 一階述語論理とその解釈について。量化子。神の宇宙論的証明。
第4章 ラッセルの確定記述について。神の存在論的証明。
第5章 自己言及文について。嘘つきのパラドクス。ラッセルのパラドクス。多値論理。
第6章 様相論理とその解釈について。可能世界意味論。
第7章 条件文「ならば」とその解釈について。
第8章 時相論理とその解釈について。マクタガートの時間の非実在性。
第9章 同一性言明を含む論理とその解釈について。ライプニッツの法則。
第10章 ファジー論理とその解釈について。連鎖式のパラドクス(砂山のパラドクス)。
第11章 帰納的に妥当な推論について。確率計算による解釈。条件つき確率。
第12章 帰納的に妥当な推論について。逆確率による解釈。神の目的論的証明(設計論法)。
第13章 帰納的に妥当な推論について。期待値による解釈。パスカルの賭け。合理的意思決定。
第14章 チューリングの停止問題の決定不可能性について。チャーチ=チューリングのテーゼ。
第15章 ゲーデルの第1・第2不完全性定理について。ヒルベルト・プログラム。

2020年8月2日

読書状況 読み終わった [2020年8月2日]
カテゴリ 哲学

20世紀アメリカの哲学者・論理学者ソール・クリプキ(1940-)が『ウィトゲンシュタインのパラドックス――規則・私的言語・他人の心』(1982年)で展開した「言葉の意味の懐疑論」「規則のパラドクス」について解説している。初版2004年、改訂増補版2016年。

アメリカの哲学者ネルソン・グッドマンが帰納的推論に関して提示した「グルーのパラドクス」や、クリプキ自身が『ウィトゲンシュタインのパラドックス』の中で提示した「クワス算」を取り上げながら、以下のことが示される。われわれは、ひとつの定まった意味をもつものとして或る言葉を使用したり、ひとつの定まったルールをもつものとして或る規則に従ったりしているように見えるが、実はそうした意味や規則は、常にそれとは別の任意の意味や規則へと、それまでのものと整合性を保ちながら、ずらしてしまうことが可能であるということ。則ち、ひとつの定まった意味や規則などというものはあり得ないということ。つまり、およそ意味や規則といったものは成立不可能であるということ。このような逆説が示されてしまう。

ここでの議論は、一見するとつかみどころのないもののように感じられる。そのため、はじめのうちは、どこが深刻なパラドクスなのか、どうしてそれが問題であるのか、分かりにくいかもしれない。しかし、ややくどい文体ながらも丁寧な説明であるため、虚心になって読み進めれば理解できる。



パラドクスというものは、人間知性に本質的な裂け目が走っていることを暴露し、以て人間というものの在り方と世界の存立構造とを転覆してしまいかねない、その意味で絶対的であり超越的であり徹底的であり極限的であり危機的であり英雄的であり非日常的であり急迫的なものを感じさせるがゆえに、異様な魅力をもっている。それに対して、パラドクスを回避しようとする議論は、卑小であり微温的であり弥縫的であり中途半端であり小市民的であり、酷くつまらないものに感じてしまうことがしばしばある。

同じような「落差」の感覚を、これまでも何度か感じてきた。たとえば、「厳密学」を志向した中期フッサールと「生活世界」を持ち出した後期フッサールとの対照にも、あるいは『論理哲学論考』の前期ウィトゲンシュタインと『哲学探究』の後期ウィトゲンシュタインとの対照にも。まるで哲学の使命が、人間と世界の根源的な在りようを解明することにあるのではなくて、結局はありふれた常識をより微細に分析して迂遠な技術的用語へ置き換えていくだけであるかのように感じられてしまい、期待外れの物足りなさを覚えたのだと思う。

畢竟こうした「哲学観」は、過激思想に傾倒しがちで、病的という意味でロマン的な、そういった青年的心性が抜けずにいる、衒学的素人が陥りやすい典型なのだろうと思う。極端で、観念的で、独善的。要するに、不全的な生であるということの症候。

2020年7月26日

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読書状況 読み終わった [2020年7月26日]
カテゴリ 哲学

ドイツの児童文学者ミヒャエル・エンデ(1929-1995)の代表作、1973年。



近代以降における科学技術の発達は、あらゆる社会機構を合理化・官僚制化し、そうした社会では、一切の存在は目的合理的連関のうちに位置づけられる限りにおいてのみ、資源として意味を与えられる。そこから帰結するのは、ニヒリズムしかない。

「人生でだいじなことはひとつしかない。・・・。それは、なにかに成功すること、ひとかどのものになること、たくさんのものを手に入れることだ。ほかの人より成功し、えらくなり、金もちになった人間には、そのほかのもの――友情だの、愛だの、名誉だの、そんなものはなにもかも、ひとりでにあつまってくるものだ」(p141)。

そこでは、時間ですらも、即物的(無)価値に奉仕する資源として目的合理的連関のうちに組込まれてしまっている。「けれど時間とは、生きるということ、そのものなのです」(p106)。則ち、人間の生そのものが、物質的な(無)価値を最大化するための手段に貶められてしまっている。これが時間泥棒の正体だろう。

生産に従属する手段としての時間ではなく、生の目的そのものとしての時間を取り戻すこと。生の意味、生の内実を取り戻すこと。



しかし、意味だとか内実だとか言ってみたところで、それらは一体何のことであるのか。本当にそんなものがどこかにあるのか。ニヒリズムという情況に逆照されることで見出された、ひとつの陰画でないと言い切れるだろうか。

「人間はひとりひとりがそれぞれじぶんの時間をもっている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ」(p225)。

この「生きた時間」それ自体が、新たな商品として、時間泥棒によって売買されてはいないか。現にぼくらは、本書を「よりよく生きるための指南書」として消費してしまっているのではないか。「資本主義の外部」という幻想は、「資本主義」にとってはもっともありふれた売れ筋商品ではないか。本書を資本主義のマッチポンプで終わらせないとするならば、これをどのように受け止めたらいいのか。



生の意味というのは、ぼくらの中に満たされていくものなのではなくて、ぼくらが外へと解消していくその先のことではないか。

「それは、太陽と月とあらゆる惑星と恒星が、じぶんたちそれぞれのほんとうの名前をつげていることばでした。そしてそれらの名前こそ、ここの<時間の花>のひとつひとつを誕生させ、ふたたび消えさらせるために、星々がなにをしているのか、どのように力をおよぼしあっているのかを、知る鍵となっているのです」(p243)。

「そのとき、とつぜんモモはさとりました。これらのことばはすべて、じぶんに語りかけられたものなのです! 全世界が、はるかかなたの星々にいたるまで、たったひとつの巨大な顔となってモモのほうをむき、じっと見つめて話しかけているのです!」(p243-244)。

ここは本書で最も美しい。

2020年7月19日

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読書状況 読み終わった [2020年7月19日]
カテゴリ 児童文学

現代フランスの作家ミッシェル・ウエルベック(1958-)の第一作品、1994年。資本主義的な「自由」が到り着いている地点を描く。

資本主義社会では、すべてが同一平面上に並置させられてしまう。すべてがフラット化してしまう。超越的なものが引きずりおろされてしまう。即物的無価値(金、力、快感、効用)へと還元されてしまう。世界がひとつの巨大な商品陳列棚、ランチプレートに成り下がってしまう。則ち、一切のものが貨幣という統一の尺度で比較され計量化される商品と化す。コミュニケーションは互いに商品ラベルと値札を貼り付け合うだけ。外部はありふれた商品として内部に繰り込まれ、消費されるだけ。一切の出口は予め塞がれている。

「生」の在りようが「自由」の追求にあるとする。資本主義社会において、「自由」とは「資源を選択する自由」である。しかし、「資源の有限性・希少性」ゆえに、「資源を選択する自由」は「資源を獲得する競争」として現実化する。こうして、「自由」は「自由競争」へと転化する。則ち、「生」のあらゆる局面において「自由」を追求するということは、「生」のあらゆる局面において「自由競争」に晒されることを意味する。つまり、「自由」の追求は、不断の「闘争領域の拡大」として現実化する。「絶対的窮乏化」が、経済的な自由競争(物質的資源の獲得)だけでなく、性愛の自由競争(性的資源の獲得)の局面においても引き起こされることになる。

こうした云わばありふれた地獄の、その出口の無さを、この作品は描いている。



自分がいつか感じていたような焦燥、嫉妬、絶望、倦怠の言葉が見つかる。

「しかし、なにをしたところで本当の逃げ道にはならない。次第に、どうしようもない孤独、すべてが空っぽであるという感覚、自分の実存が辛く決定的な破滅に近づいている予感が重なり合い、現実の苦悩に落ち込むことが多くなる」(p17)。

「要するにあらゆる逃げ道が塞がれていた。彼女にできることは、黙って臍を噬みながら、他の娘たちが解放されていくのを見ていることだけ。少年たちが他の娘たちの周りで蟹のようにひしめき合うのを眺めることだけ。他人のあいだに関係が結ばれ、ことが行われ、オルガスムが広がっていくのを感知することだけ。他人が悦びを誇示する傍らで自分が静かに崩壊していくのを徹底的に味わうことだけ」(p114)。

「その気になれば、毎週だって女は買えるだろう。[略]。でも同じことをただでやれる男もいるんだぜ。しかもそっちには愛までついている」(p125)。

「君はいつまでも青春時代の恋愛を知らない、いってみれば孤児だ。[略]。君には救済も、解放もない」(p149)。

「僕はがむしゃらに、うろうろと歩きまわる。いてもたってもいられない。しかしなにもできない。なにをやっても失敗する気がする。失敗。失敗だらけ。自殺だけが遠く埒外できらめいている」(p169)。

「僕は裂け目の中心にいる。自分の肌を境界のように感じる。そして外部の世界を壊滅的な圧力のように感じる。分離はすみずみまで行き届いたようだ。このさき、僕は自分という檻の囚人だ。崇高な融合なんて起こらない。生存の目的は達せられなかった」(p202)。



ところで、とかく日本では文学研究や社会学などでしか顧みられることが稀なフロイト精神分析は、どうやらフランスの一般的な社会の中に根を下ろしているような描写があるのだが、それはどのように位置づけられているのか。

2020年7月11日

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読書状況 読み終わった [2020年7月11日]
カテゴリ フランス文学

フランス文学者である澁澤龍彦(1928-1987)の広くエロティシズムにまつわるエッセイ集、1985年。



本書を購入した当時は、下世話な内容を知的に粉飾して読もうという魂胆であったのだと思う。にもかかわらず、これまで何度も本棚から取り出しては、そのたびに途中で投げ出していた。冒頭「少女コレクション序説」の内容がいくらなんでも男性中心主義に過ぎて、読むに堪えなかったからだ。しかしいま改めて読めば、ここには男による女性蔑視が典型的に現れているのがよくわかる。

「コレクションに対する情熱とは、いわば物体[オブジェ]に対する嗜好であろう」(p11)。

「なにも私たちが剥製師の真似をして、少女の体内に綿をつめ、眼窩にガラスの目玉をはめこまなくても、少女という存在自体が、つねに幾分かは物体[オブジェ]であるという点を強調したかったのである」(p11)。

「小鳥も、犬も、猫も、少女も、みずからは語り出さない受身の存在であればこそ、私たち男にとって限りなくエロティックなのである。女の側から主体的に発せられる言葉は、つまり女の意志による精神的コミュニケーションは、当節の流行言葉でいうならば、私たちの欲望をしらけさせるものでしかないのだ。[略]、女の主体性を女の存在そのものの中に封じこめ、女のあらゆる言葉を奪い去り、女を一個の物体に近づかしめれば近づかしめるほど、ますます男のリビドーが青白く活発に燃えあがるというメカニズムは、たぶん、男の性欲の本質的なフェティシスト的、オナにスト的傾向を証明するものにほかなるまい。そしてそのような男の性欲の本質的な傾向にもっとも都合よく応えるのが、そもそも少女という存在だったのである。なぜかと申せば、前にも述べたとおり、少女は一般に社会的にも性的にも無知であり、無垢であり、小鳥や犬のように、主体的には語り出さない純粋客体、玩弄物的な存在をシンボライズしているからだ」(p12-13)。

女から一切の人格や主体性を剥ぎ取り男の観念の標本箱に少女のまま永遠に閉じ込めておこうとする暴力的な欲望は、まさにミソジニーそのものであるし、さらにそうした欲望を、自分の人格や主体性が無化されてしまうかもしれないという恐怖など微塵も感じないでいられる特権的な位置から、やれ文学だの芸術だのと衒学的な御託を並べながら仲間内の読者や文学者連に語るとき、それは男性性からくる自己の欲望をホモソーシャルな関係性の中で正当化しようとしているようにも見える。とすると、エロティシズムについて広範に語っていながら男性同性愛についてほとんど触れられていないのは、彼のホモフォビアを逆照しているということか。



本書をなかなか読む気になれなかったもうひとつの理由は、澁澤は自分が妊娠させた妻に複数回中絶を要求しついに妻は子を産めない身体になってしまった、という逸話をどこかで聞いたからだ。本書収録の「インセスト、わがユートピア」の冒頭で自分が子どもを作らない理由を述べているが、自分の観念的な遊戯に他者の身体を巻き込むなと言いたい。

澁澤には女性読者もいたと思われるが、どのように彼の文章を読んでいるのだろうか。主体性を奪われる女の側に同一化して読むのか。主体性を奪う作者の側に同一化して読むのか。或いは作者に現れている男のセクシュアリティに半ば呆れ半ば憐れみながら読むのか。



「君が何であるか、いま判ったよ。君はぼくの自己愛なのだ!」(p97)。

2020年6月28日

読書状況 読み終わった [2020年6月28日]
カテゴリ エロティシズム

魔法使いやドラゴン退治といったファンタジー(無から有を生み出す論理)でおなじみの設定が、じつは身も蓋もない資本主義(有限性の論理)の中にがっちりと組み込まれてしまっている、という独特の世界観。しかし、この落差を利用して資本主義の世界を徹底的に突き放して戯画化するほど振り切れているわけでもなく、ファンタジーとしてもアイロニーとしても中途半端な代物になってしまっているような気がする。期待していたほど面白くなかった。「敵は竜ではなく資本主義!?」という表紙カバーのコピーが巧かったということなのかもしれない。カバーイラストの主人公ジェニファー・ストレンジの表情がいい。

2020年6月21日

読書状況 読み終わった [2020年6月21日]
カテゴリ 幻想怪奇小説

20世紀カナダの英文学者でありメディア論研究でも知られるマーシャル・マクルーハン(1911-1980)の代表的な作品、1967年。本書はデザイナーのクエンティン・フィオーレとの共同制作であり、テクストとイメージとがポップに織り交ぜられている。彼が考察の対象としている当時最新の電気技術とはテレビのことであろうが、そこで述べられている内容は、インターネットとデジタルメディアが全地球的に浸透しつつある21世紀においていっそう当てはまるものであり、本書は予言的な文明批評となっている。

□ 「下部構造」としてのメディア

「メディアはメッセージである」という有名なテーゼが、マクルーハンのメディア論の根底にある。メディアは、決してメッセージ(内容)を伝達するための単なる容器(形式)なのではなく、それ自体が或るメッセージを不可避的に含意してしまっているということ。則ちメディアとは、人間が世界を知覚しその上で社会関係を構築していくための前提条件、いわば世界の認識と世界への実践とを規定する「下部構造」である、ということを意味するのではないか。

「あらゆるメディアはわれわれのすみずみにまで完全に作用する。メディアがもたらす帰結は、個人的にも政治的にも経済的にも美的にも心理的にも道徳的にも倫理的にも社会的にもすみずみまで浸透するので、われわれのあらゆる部分が例外なしにメディアによって接触され、影響と変更を被ってしまう」(p28)。

「マクルーハン教授が言っているのは、人間が作り出したメディアという環境が、逆に人間の役割を定義するってことだよ」(p159)。

マクルーハンのもうひとつ有名なテーゼに「メディアは人間の身体の拡張である」というものがあるが、そこから導かれるのは、いかなるメディアが社会において主要なものとして位置づけられるのかに応じて世界の知覚の仕方も変わってくる、ということである。

「メディアは、環境に変更を加えることで、それ固有の感覚知覚の比率をわれわれ人間のうちに生み出す。どのひとつの感覚が拡張されても、われわれの思考と行動の仕方――世界を知覚する仕方――は変更される。感覚知覚の比率が変わるとき、人間は変わる」(p43)。

こうして、メディアが人間や社会にどのように作用するのかを究明することが、人間文化を理解するための必要条件として位置づけられる。

□ 活字メディア/電子メディア

メディアによって人間の感性は具体的にどのように変容するのか。時代ごとのメディアの変遷を、非常に大雑把に、古代の口承メディア、近代の活字メディア、現代の電子メディアと区分けしてみる。マクルーハンは、とりわけ19世紀的な活字メディア中心の社会が20世紀の電子メディアの登場によってどのように変容したのかについて、詳しく述べている。以下、この二つの社会の対比を簡単にまとめておく。

活字メディアの時代では、人間は直線的に配列された文字を眼で追って読む。よって、五感のうちでも視覚に絶対的な優位性が与えられる。そこでは、適切な順序に従って線形的に配列された連続的な思考過程が、合理性のモデルとされる。こうして、世界を均質で連続的な空間として視覚的に捉えようとする態度が定着する。さらに、印刷技術が生み出した書物によって、人は他者からの直接的な口承に依存することなく、他者から分離独立した個人として私的に思考することが可能となる。つまり、人間の個別化、個人主義が促され、自他分離の矛盾律が自他関係の基礎となる。こうした主観の孤立化は、ルネサンス期に発明された遠近法において観察者の世界からの分離として現れている。あらゆる事物は、主観が眼差す空間のうちに、それが存在すべき場所を一意的に割り当てられ、そこに静的に配置される。

これに対して電...

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2020年6月14日

読書状況 読み終わった [2020年6月14日]
カテゴリ 思想

20世紀フランスの作家、思想家であるジョルジュ・バタイユ(1897-1962)の論考、1957年。エロティシズムの究明を通して人間存在の根源を見出そうとする。一般にバタイユの関心は、人間が理性の裂け目において覗かせる非合理性(エロティシズム、死、暴力、狂気、悪、瀆聖、神秘主義など)に向けられているようにみえる。これは、青年期に第一次大戦を経験し、人間を理性的存在として規定する近代の合理主義的人間観の破綻を目の当たりにした世代に共通する傾向であるかもしれない。思想的にはサド、ニーチェ、フロイト、シェストフ、ヘーゲル(コジェーヴ)らの影響を受けているとされる。また、一時的にシュルレアリストや共産主義者のグループとも関係をもっていた。

□ 不連続性/連続性

「エロティシズムは死に至るまでの生の称揚である」という冒頭の有名な文句にエロティシズムの本質はよく表現されており、本書全体がこの文句の意味を詳説することに費やされていると言える。序論において論じられる「不連続性/連続性」の概念は、エロティシズムの根幹に関わる。

存在は自己から逃れることはできない。自己=自己、A=Aという自同律は存在を絶対的に拘束する。世界において、自己は自己として在るところの或る範囲に限定される。その範囲の内部においてのみ自己は自己であるのであり、その外部は非自己の領域である。存在は、自己を確定する隔壁によってその内と外が絶対的に区別されてしまっている。存在とは不定態の否定である、則ち限定である。存在は一個という形式で個体化されており、それは他の存在と隔絶した別個の存在として、他者との不連続性のうちにある。自己でありかつ非自己であるということは不可能である。¬(A∧¬A)という矛盾律は存在を絶対的に孤立させる。「独我論」という問題が発する条件もここにあるといえる。自己が非自己へと自己を脱却することは論理的に不可能である。にもかかわらず/それでもなお/それゆえにこそ、この自己というものは自己自身にとってなんとも我慢のならない仮象のように思えてならない。自己は、無際限に自己否定を繰り出す無限運動のその果てに空無化していきながら、なおその空無の縁としての自己に包囲されたままである。自己はどこまでも自己を自己化する以外にない。自己は不連続性によってどこまでも断絶され続け、極点化する。

この絶対的な不連続性を連続性へ接続するという絶望的な不可能事の可能性がエロティシズムに賭けられている。たとえばもし存在が水滴であったなら、それは別の水滴と接触した瞬間に、個々の水分子はひとつの水滴のうちに溶け合い、もはやどの水分子がどちらの水滴に由来するのかという区別は意味を為さず、先のふたつの水滴はそのどちらとも異なる別の水滴のうちに解消されてしまう。エロティシズムは、自他分離を自他融合へ橋渡ししようとする。

「生の根底には、連続から不連続への変化と、不連続から連続への変化とがある。私たちは不連続な存在であって、理解しがたい出来事のなかで孤独に死んでゆく個体なのだ。だが他方で私たちは、失われた連続性へのノスタルジーを持っている。私たちは偶然的で滅びゆく個体なのだが、しかし自分がこの個体性に釘づけにされているという状況が耐えられずにいるのである。私たちは、この滅びゆく個体性が少しでも存続してほしいと不安にかられながら欲しているが、同時にまた、私たちを広く存在へと結びつける本源的な連続性に対し強迫観念を持ってもいる」(p24-25)。

エロティシズムがもたらす生の連続性というものが、暴力、死、聖性といったものと結びついているということは、以下の記述がよく示している。連続性の鮮烈なイメージを与えてくれる。

「供犠においては、生贄をただ裸にするだけではなくて殺してしまう...

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2020年6月7日

ネタバレ
読書状況 読み終わった [2020年6月7日]
カテゴリ エロティシズム

カール・マルクス(1818-1883)による19世紀フランスの階級闘争に関する同時代批評、1852年初版。1848年の二月革命に始まる第二共和制が、如何にして1851年のルイ・ボナパルトのクーデタによる大統領独裁と第二帝政を帰結することになってしまったのか、を論じる。19世紀フランス政治史について相当程度精通していないと、マルクスの文意を正確に捉えることは難しいが、巻末の年表(「政治党派と階級的基盤」「時期区分と階級闘争の構図」)が補助として役に立つ。

刻々と変化する情勢の中で繰り広げられる各階級の政治闘争の錯綜した様態が、マルクスの一種異様な情念とともに描かれており、それがいっそう本書を読みづらくしているのだが、この語りの騒々しさが、ちょうどドストエフスキーのあの喧騒じみた文体を思い出させる。本書はまるで異形の文学作品のようにも映る。

巻末に付論として柄谷行人「表象と反復」が収録されているが、歴史や政治の事象を考察する上で「反復強迫」「抑圧されたものの回帰」「象徴界」といったフロイトやラカンの精神分析の概念を援用することの意味がよくわからない。それは学問的に妥当性が認められるような議論なのか、或いは尤もらしいだけで根拠のないただの「解釈」に過ぎないのか。

□ 代議制の果ての独裁制

「同様に、民主派の議員たちはみな商店主であるか、あるいは商店主を熱愛している、と思い描いてもいけない。彼らは、その教養と知的状態からすれば、商店主とは雲泥の差がありうる。彼らを小市民の代表にした事情とは、小市民が実生活において超えない限界を、彼らが頭の中で超えない、ということであり、だから物質的利害と社会的状態が小市民を[実践的に]駆り立てて向かわせるのと同じ課題と解決に、民主派の議員たちが理論的に駆り立てられる、ということである。これがそもそも、一つの階級の政治的・文筆的代表者と彼らが代表する階級との関係というものである」(p67-68)。

「分割地農民の間には局地的な関連しか存在せず、彼らの利害の同一性が、彼らの間に連帯も、国民的結合も、政治的組織も生み出さないかぎりでは、彼らは階級を形成しない。だから彼らは、自分たちの階級利害を、議会を通してであれ、国民公会を通してであれ、自分自身の名前で主張することができない。彼らは自ら代表することができず、代表されなければならない」(p178)。

代議制において、「代表される者」と「代表する者」との結びつきは恣意的なものでしかない。自らを代表することができず、恣意的な誰でもいい誰かによってしか代表され得ない者が、代表されるということそれ自体に幻滅して、媒介的な代表=表象=再現前ではなく直接的な自他融合を求めることになる。「代議制/独裁制」の対立は、「主知主義的・理性的な熟議/主意主義的・暴力的な決断」「合理性/非合理性」「納得/陶酔」「逡巡/突破」「媒介性/直接性」「再現前/現前」「自他分離/自他融合」の対立であり、代議制を否定する者は前者の価値を否定して後者に魅せられていく。こうして、代議制に倦んだ果てに、代議制を超越した絶対的権威による強権的な支配体制、則ちファシズムを招来してしまう。これは、優れて現代的な現象ではないか。シュミットの議会主義と独裁に関する議論や政治的ロマン主義の議論にも通じる話なのだろうか。尤も、ボナパルティズムとファシズムをどこまで同一視し得るのか分からない以上、粗雑な連想に過ぎないが。

「決まり文句の権力に対する文句抜きの暴力の勝利」(p173)。

□ 唯物史観の実例

正統王朝派とオルレアン派は、それぞれブルボン家とオルレアン家の王政復古を掲げ、その理念によって相互に対立しているのだと自他ともに思い込んでしまっているが、実際は土地所有ブルジョ...

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2020年5月27日

読書状況 読み終わった [2020年5月27日]
カテゴリ 政治思想

本書の目的は、「実数の連続性」や「関数の連続性」という概念を、直観に頼らず厳密に捉え直すことにある。これらは、高校数学では感覚的な理解にとどめているが、大学初年度の微分積分学の講義で最初に扱われる内容であり、いわば大学数学の入り口部分である。記述が丁寧で文章も読みやすく、高校数学から大学数学への橋渡しとしてちょうどいい。

ただし、本書の証明の一部には、論理の飛躍が感じられる箇所もある。



以下、本書の概要を記しておく。

第1章では、まずロルの定理の証明を検討することから始める。ロルの定理は微分積分学にとって最も根本的な定理のひとつである。というのも、微分はその定義からわかるように関数の局所的な性質を調べるための理論であるが、それを大域的に広げていく根拠となるのが、このロルの定理だからである。事実、ロルの定理の一般化として、平均値の定理、テイラーの定理が証明され、さらに、第1次導関数の符号と関数の増減や、第2次導関数の符号とグラフの凹凸など、微分法に関する基本的な定理が導かれることになる。

このロルの定理の証明において、「閉区間上の連続関数は最大値・最小値をもつ」(ワイエルシュトラスの定理)という、直観的には明らかな命題が前提されていることを確認し、これを厳密に証明することが、本書の目標として設定される。以下の章では、実数の連続性の概念や、関数の連続性の概念を、直観に頼らず厳密に定義していくことになる。

第2章では、実数の連続性をデデキントの切断公理によって定める。それが、上限・下限の存在定理、有界単調数列の収束定理、区間縮小法の原理と同値であることが確認される。第3章ではε-N論法によって数列の極限を、そして第4章ではε-δ論法によって関数の極限と連続性を厳密に定義する。こうして、連続関数の性質として、最大値・最小値の定理が証明されることになる。また、中間値の定理の証明も与えられる。第5章の前半では、ボルツァーノ‐ワイエルシュトラスの定理、ハイネ‐ボレルの定理の証明が与えられ、ここまでの内容が概ね高木貞二『解析概論』第1章と重なる。

第5章の後半では、連続関数の性質として原始関数の存在定理が証明される。第6章では、一般的な位相の概念が導入され、最大値・最小値の定理が位相空間におけるコンパクト性という広い観点に立って見直されることになる。

2020年5月23日

読書状況 読み終わった [2020年5月23日]
カテゴリ 数学

異性愛男は、女との関係性において男としての自己同一性を確立しようとする。則ち、自己を性的主体として確立しようとする。ここから、男は性的なものにまつわる他者との関係性において「ミソジニー misogyny」「ホモフォビア homophobia」「ホモソーシャル homosocial」という形式をとることになる。

①女との関係性における「ミソジニー」 ・・・ 異性愛男は、女によって自己の内に強い性的欲望を喚起され、それに翻弄される。則ち、異性愛男の性的主体性は、女との関係性において危機に晒される。よって、異性愛男は、女を性的に屈服させ、女の主体性を無化し、女を全き客体に貶めることで、自己の性的主体性の回復を図る。つまり、異性愛男は、女を、男の性的主体性を確立するための手段とする。そこでは、女は、独立した固有の人格や感性を具えたものとは見なされず、男の欲望に従属する限りにおいて、その存在が認められる。ここには、女という他者への根深い恐怖と、そこからくる憎悪がある。ミソジニーとは、こうした女性蔑視、女性憎悪、女性恐怖を指す。

②同性愛男との関係性における「ホモフォビア」 ・・・ 同性愛男は、その性的欲望を男であるこちら側へ向ける可能性がある。そのとき、同性愛男の性的欲望の対象となった男は、女が異性愛男によって性的客体に貶められるのと同様に、その主体性を無化される懼れがある。つまり、同性愛男は、異性愛男の性的主体性を脅かす存在であり、それゆえに男のコミュニティから絶対的に排除されるべき存在とされる。ホモフォビアとは、こうした同性愛嫌悪を指す。いわば、異性愛男が女へ向けるミソジニーの裏返しであるといえる。

③異性愛男との関係性における「ホモソーシャル」 ・・・ 異性愛男は、女を性的に客体化することによって仮構した自己の主体性を、異性愛男同士で承認し合うことによって、男としての自己同一性をさらに強化しようとする。そこでは、女を少なくとも一人以上所有することが、価値ある男として認められる必要条件となる。ホモソーシャルとは、こうした異性愛男同士の連帯を指す。この結びつきは、ミソジニーとホモフォビアという価値を共有し確認し合うことで維持される。

「ミソジニー」「ホモフォビア」「ホモソーシャル」は、確かに性にまつわる多くの事象を説明できる便利な概念であると思う。私が男として「男ぎらい」であるのは、男を男たらしめようとする男同士のホモソーシャルな関係性に対する、特にそこで共有されている力(腕力・金力・権力・精力)への志向性に対する、嫌悪ゆえであったことが改めて納得できた。

「東電OL」は、女を性的客体に貶めることで自身の主体性を幻想する男に対して、主体的に自らの性を売ることで、男のほうこそ女の性に依存した性器的存在でしかないということを暴露し、以て男への復讐を果たそうとした、という解釈は興味深かった。
 
男の性欲とは、自分が男であるということへの復讐であると、私は以前から漠然と感じていた。「男性性の現象学」のような試みが必要であると感じる。

2020年5月19日

読書状況 読み終わった [2020年5月19日]
カテゴリ フェミニズム

所収の「厳密な学としての哲学」についてのみ記す。

現象学の創始者であるフッサール(1859ー1938)の論文、1911年。フッサールの主要著作は以下の通りであり、この論文は彼が自身の現象学を体系的に展開していく「中期」思想に位置付けられる。

1891『算術の哲学』
1900ー1901『論理学研究 純粋現象学序説』
1904ー1905『内的時間意識の現象学』(講義録、出版は1928)
1907『現象学の理念』(講義録、出版は1952)
1911『厳密な学としての哲学』
1913『純粋現象学と現象学的哲学の構想(イデーン)』
1929『形式論理学と超越論的論理学』
1931『デカルト的省察』
1936『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』

同時代の思潮である自然主義と歴史主義を批判しながら、あるべき哲学の理念を解明し、自身が構想する現象学の主題と方法とその妥当性を論証することを試みる。自然主義であれ歴史主義であれ、学である以上は、当然のことながら「客観的な認識とはなにか」「それが成立する為の条件はなにか」という問題の解明が要求されることになるが、それを問題化し追究する「超越論的」な機制が欠如している或いは不徹底であるという点が、批判の要点になっている。そして、この超越論的要求に耐えうるのはただ現象学的方法のみである、と論じられる。

ざっと流し読みするような仕方では、かなり難しく感じられる。その理由は、文中のひとつの句や節に後続してその言い換えを「すなわち」「つまり」で幾つも並列させていく書き方によって一文が長くなり主-客関係や修飾-被修飾関係や分節の入れ方などの文章の骨格が捉えにくくなるという構文論的なものと、文中で述べられる諸用語の区別が曖昧に理解されたままになりそれらの対比関係が読み取れなくなってしまうという意味論的なものと、を挙げることができる。しかし、さすがに「厳密な学」を提唱するだけあって、時間をかけて精読すれば、一文ごとの趣旨は必ずしも捉えがたいものではなく、議論の流れもかなり明確に組み立てられていることが分かってくる。小見出しをつければ、さらに理解しやすいものになるのではないか。「文学的」「詩的」な文体とは一線を画する。

以下、論の流れをまとめておく。

□ 序論部分

哲学は「あらゆる学問のうちで最高にして最も厳密な学」「純粋で絶対的な認識に対する[略]人類の不滅の要求を代表する学」(p104)であり、歴史上の哲学はいずれもこの条件を満足していない。よって目指されるべきは、この厳密な学である為の条件を解明し、それに基づいて哲学を基礎づけることである。

自然主義も歴史主義も懐疑的な相対主義に陥っており、普遍的な妥当性という要件を放棄している。これらの哲学は、その帰結としてともに循環論法や自己否定に陥ることが示されるが、むしろここで必要なことはこうした消極的な批判ではなく、あるべき学の理念を明確化しそれが要求する問題機制(問いの立て方)と対象規定(対象の捉え方)と方法とに照らし合わせるという、積極的な批判である。

□ 自然主義批判

 ○ 自然主義の自己矛盾

【自然主義】にとって存在しているものは、時間空間の内に位置を占め、因果法則などの自然法則に従う、物的なもののみである。よって、自然主義においては、意識も理念も自然化される。矛盾律などの普遍的な論理法則も自然法則として解釈される。さらには、真善美など理念的なものの普遍的な価値も自然科学によって基礎づけることができる、と主張する。しかし、これは自己矛盾を導く。なぜなら、自然主義はrealなもののみを存在と認める。そして、realなもの(経験的なもの、自然)からidealなもの(理念的なもの、真善美)の存在を...

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2020年5月5日

読書状況 読み終わった [2020年5月5日]
カテゴリ 哲学

現象学の概説書、1970年。

□ Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ章

フッサールの現象学を、彼の思想の変遷に沿って、かなりの駆け足で解説している。

①現象学は、その初期において、当時の支配的な思潮であった実証主義(心理学主義、人間学主義、生物学主義など)に対する批判として出発する。実証主義は、数学や論理学などのイデア的な対象を、経験的実在的なもの(レアールなもの)に還元する誤謬を犯しているとして、批判される。実証主義に対いて、学問一般のイデア的なものの可能性を追究する純粋論理学としての現象学が構想される。初期の『論理学研究』(その第一巻は「純粋論理学序説」)では、ブレンターノの心理学主義を批判する。なお、意識の本質的な性質としての「志向性」(対象化作用)の概念は、ブレンターノによる着想。

②自然主義や歴史主義を、方法的仮定によって学の対象を予め特定の仕方で規定してしまうことで、学として求められる無仮定性を放棄している、として批判する。こうした誤謬の根底に、認識する主体に対して真の意味では与えられていない対象を素朴に存在すると断定してしまう態度、ひいては世界の存在を無根拠に断定してしまう態度、が見出される。この「自然的態度」を「超越論的還元」(「現象学的還元」)によって判断中止する。還元によって、一切の経験的前提が排除された「純粋意識」(「超越論的意識」「超越論的主観性」)が獲得される。この「純粋意識」の場で、世界や他の経験的な対象がどのように構成されていくか(「超越論的構成」)、を反省する。この絶対的な認識批判である「超越論的現象学」によって、厳密な学の条件を追究し、諸学を基礎づける基礎学の構築を目指す。

③「超越論的還元」によって見出される「超越論的意識」が世界そのものをも能動的に構成するのだとすると、この構成的主体それ自体は無世界的で無規定的なものとなってしまう。世界は、「超越論的意識」による能動的な構成に先立って、予め受動的に与えられていなければならない(「受動的総合」)。「超越論的還元」によって判断中止されるべきなのは、「自然主義的態度」(世界が、例えば数学や物理学によって規定された自然科学的世界のように、何らかの理論によって客体化された世界=理念化された世界であるにもかかわらず、そうした恣意的な規定性に無自覚なまま、それを自然な世界であると無反省に見なす態度)であって、「自然的態度」(世界の存在を無根拠に断定するが、その世界に対して「それが存在する」ということ以外の一切の規定を付与しない、則ち如何なる理論によっても客体化しない=理念化しない、則ちそこにおいて一切の主体-客体関係を設定することのない、そのような自然な世界経験)は、世界をその生きられるがままに生きる態度として、寧ろそこに立ち戻るべきものとされる。「自然的態度」によって生きられる「生活世界」は、それ自体は無根拠であるが、それによってあらゆる対象の構成を可能にする根底的な前提条件として、則ち客観的な学を可能ならしめる根源的臆見として、要請される。その「生活世界」において、受動的なしかたで「意味の発生」が起き、能動的な意味付与はこの発生しつつある意味に対して二次的に行われる。

現象学の解説を読むたびに、中期において高らかに掲げられる厳密学の理念と、世界の存在をも宙吊りにする厳格な現象学的手続きに、この哲学のもつ先鋭的な徹底性を見せつけられるようで、実に魅了されまた厳かな心持ちになるのだが、と同時にそれが後期になると、急に趣が変わるというか、生活世界なるものが根源的臆見などと言い訳がましく導入され、他者の問題も共同主観性という概念でごまかされたような気持ちになり(初めて現象学に触れたとき、それが独我論の問題をどのように扱うのか期待していた)、ヨーロッパ的理性だとか...

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2020年5月2日

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カテゴリ 哲学

レヴュはⅠにて。

2020年4月29日

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カテゴリ 哲学

20世紀を代表する人類学者であるクロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)による、ブラジルのインディオ社会への民族学的調査旅行に関する記録、1955年。

1935年サン・パウロ大学へ講師として赴任し、1939年フランスへ帰国するまでの間、レヴィ=ストロースは南米ブラジルのカデュヴェオ族、ボロロ族、ナンビクワラ族、トゥピ=カワイブ族の各社会に対してフィールドワークを実施しており、彼らの文化や社会構造に関する厖大かつ詳細な観察記録と、それに基づいてなされる人類学的、文明論的、歴史学的、社会学的ときには美学的な思索が、本書の中心的な内容をなしている。しかしそれにとどまらず、現代アメリカ、インド、イスラムなどに関する考察、自身の知的遍歴への回想、さらには当初は小説の一部として構想されていたもの(「日没ノート」)や、調査旅行中に書いた未完の戯曲の素描(「神にされたアウグストゥス」)なども組み込まれており、内容は極めて多岐にわたる。 濃密な書。

□ 西欧の鏡映しとしての「未開」

レヴィ=ストロースは冒頭に近い「力の探求」という章で、現代西欧の民族学者の眼差しは「未開世界」の「本当の姿」を捉えることができないという事態について、悲痛な調子で繰り返し言及している。また、「神にされたアウグストゥス」の章でも、レヴィ=ストロース本人に準えられる人物であるシンナに、同様のことを語らせている。

「旅よ、お前がわれわれに真っ先に見せてくれるものは、人類の顔に投げつけられたわれわれの汚物なのだ」(Ⅰ、p47)。

「私は、「本当の」旅の時代に生まれ合わせていればよかったと思う。旅人の前に展開する光景が、まだ台無しにされていず、汚されても呪われてもいず、その有丈の輝かしさのうちに自己を示していたような時代に」(Ⅰ、p57)。

「旅というのは偽りだったのだ」(Ⅱ、p363)。

「すべてが虚しいこと、これらの出来事のひとつひとつが無意味であることを、私が話して解らせようとしても無駄だろう。それが物語になるだけで、聞き手はもう眩惑され、夢見心地になってしまうのだから。けれども、それは何物でもなかったのだ。大地はここの大地と似たようなものだったし、草の一本一本もこの牧場のものと変りがない」(Ⅱ、p364)。

「無垢なる未開世界」という観念は、二重の意味で欺瞞的であろう。第一に、「未開世界」は植民地主義の暴力によって既に徹底的に毀損してしまっており、その傷跡は覆うべくもないから。大航海時代から帝国主義を経て現代に到るまで、「近代世界」は、「未開世界」をそこから利潤を上げられる「植民地」へと改変し、 その過程で多くの人間の生命を奪い、彼らの人間的営みとしての文化を破壊してきた。かつて「未開世界」と出会った西欧は、自分とは全くかけ離れた文化をもつ者たちを、自分たちと同等の「人間」であると見なすことができず、彼らを自分たちよりも劣った存在として扱い、その差別を正当化するために人種理論という疑似科学まで捏造した。宣教師がボロロ族を改宗するために、ボロロ族に固有の世界観を反映していた環状の集落を破壊し、平行に配置された別の集落に改変してしまったことで、彼らの文化が急速に失われていったという、植民地主義の暴力を考えるうえで非常に興味深い事例が紹介されている(Ⅱ、p49)。

第二に、「無垢」と表象することで西欧文明と対比される単純さや素朴さは、「未開世界」の文化に対する評価として妥当ではないから。「未開世界」の文化は、西欧文明とは全く異な形態をとってはいるが、それと同じくらい複雑で豊かな意味の構造をもっているということを、レヴィ=ストロースは自らの構造主義人類学によって明らかにした。彼は、ヤコブソンの音韻論を通して、ソシュー...

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2020年4月29日

読書状況 読み終わった [2020年4月29日]
カテゴリ 哲学

構造主義人類学を提唱したことで知られる人類学者レヴィ=ストロース(1908ー2009)の生涯と思想の概説。言語学者ソシュールが「一般記号学」を構想する中で到達した抽象的な「構造」の概念が、より具体的な人文諸科学の中でどのように展開されていったのか、そこからどのような政治的態度が導き出されるのか。



1942年、亡命先のニューヨークにて、レヴィ=ストロースはロシアの言語学者ロマン・ヤコブソンと出会い、その音韻論を通してソシュール記号学を知ることになる。ヤコブソンの音韻論の方法論を人類学へと拡張することによって、ソシュールにおける「構造」の概念を、自身の新しい人類学に取り入れていく。そこでは、諸シーニュの否定的な差異の体系によって言語の意味が生成されるとするソシュール記号学の議論と並行的に、インセスト・タブー(「近く」の女性との性関係を禁止する⇔「近く」の女性を「遠く」の男に提供することを命じる⇔「近く」の女性を「遠く」の女性と交換することを命じる)によって「近い」「遠い」の差異としての親族関係が生成し、以て諸人間がさまざまにカテゴリー化されそのカテゴリー間における交換(コミュニケーション)関係が生成するとされる。こうして生成される親族関係は、言語(ラング)と同様に恣意的価値体系=「構造」を具えたものであり、この「構造」によって人間諸集団間の関係性が規定されていく。ここに、自然から文化への移行が見出されることになる。

「固有の意味作用はもたないが、表意作用を形成する手段となる音素と同様、インセストの禁止は、別個のものと見なされる二つの領域のつなぎ目をなすとわたしには思われた。こうして、音と意味との分節に、他の平面で、自然と文化の分節が対応することになったのである。そして形式としての音素が、言語的コミュニケーションを打ち立てる普遍的手段として、あらゆる言語に与えられているのと同様、インセストの禁止は、その否定的表現だけに限るならば、普遍的に存在し、これもまたある空虚な形式を構成する。だが、空虚であってもこの形式は、生物集団の分節が可能になると同時に必須ともなって交換の網の目をつくりだし、これを通して集団相互のコミュニケーションが生じるためには不可欠なのである。そして最後に、音素の存在は、その音的個性のうちにあるのではなく、音素が互いに結ぶ対立的、消極的関連のうちにあるのと同様、婚姻規則の表意作用は、諸規則をばらばらに研究してもとらえられず、それらを互いに対立させない限り浮かびあがってこない」(p126ー127)。

音韻論は、さらに神話の分析においても参照されることになる。

「あらゆる神話の言説を、ある種のメタ言語として扱うことにした。このメタ言語の構成要素となるのは「主題」や「場所」〔シークエンス〕であるが、これらはそれ自体で意味作用をもつものではない。これは言語〔ラング〕における音素のようなもので、体系の中に関連づけられたときのみ意味を持ちうるものである」(p158)。



マルクス主義の学生活動家であった若かりし頃のレヴィ=ストロースは、雑誌『社会主義学生』にて、ポール・ニザン『アデン・アラビア』の書評を書いている。

「私はそこに、似たものの発見以上に異なったものの発見を、人間との出会い以上に世界との出会いを見るのである。ポール・ニザンの経験の価値は、アデンから帰還したことではなく、そこに行ったことにある」(p68)。

来るべき人間倫理は、「他者」と「自然」との出会いの上に拠って立つものでなくてはならない、という極めて具体的で政治的な態度を表明している。それは後年の「反‐自民族中心主義(反‐人種主義、反‐西欧中心主義、反-植民地主義、文化相対主義)」「反‐人間中心主義」「反-理性中心主義」...

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2020年4月5日

読書状況 読み終わった [2020年4月5日]
カテゴリ 思想

フランス語学者である丸山圭三郎(1933-1993)によるソシュール思想の研究書、1981年。本書は、ソシュール言語学に関する研究書であると同時に、一級の解説書でもある。決して平易な内容ではないが、重要な論点に(ややくどいと思われるほど)繰り返し言及したり、箇所によってはソシュール同様に卓抜な比喩(有名なところでは、実体概念と関係概念との対比として持ち出される饅頭と風船の比喩)を用いたりするなど、手堅く丁寧な記述であるため、腰を据えて取り組めば読みこなすことができるだろう。なにより、これが翻訳ではなく自然な文章で直接に読めることが有難い。言語論的転回や構造主義などの20世紀思想に関心のある人は、まず本書を手に取ることを薦める。衒学趣味に陥ることなく正統的な学問の手順を踏んで展開される本書を通して、確かな知識を獲得しかつそれを整序して理解することができる。



スイスの言語学者であるソシュール(1857-1913)は、言語をはじめとする人間的事象を探求するためには、自然的世界に対するように要素還元主義的に措定される実体概念に依拠する方法論では全く不適当であり、関係概念の視点に立つことが必要であることを見抜き、自然的世界から区別される人間的事象の本質を解明するべく「記号学」を構想した。そこには、実体概念から関係概念への転換を図る思想的苦闘があった。

「自然」に還元され得ない自立的な「文化」の領域は如何にして確保され得るのか、という問題意識をもって本書に取り組んだ。以下、本書の構成を追いながら内容を概観していく。

Ⅰ ソシュールの全体像

 第1章 ソシュールの生涯とその謎

ソシュールの生涯を、彼の学究生活の変遷(比較言語学、一般言語学、神話・アナグラム研究)を軸に描く。最初の論文が弱冠14歳のときに執筆されたという早熟ぶり、数学的厳密性に対する志向と同時に持ちあわせていた詩的感性など、興味深い。

 第2章 『一般言語学講義』と原資料

ソシュールがジュネーブ大学にて行った一般言語学に関する講義(1907年、1908ー09年、1910ー11年の3回)の内容は、ソシュールの死後に弟子たちの編集により『一般言語学講義』(1916年)として出版された。ソシュール研究の前提として、『講義』の成立事情にまつわる問題性(弟子たちによる恣意的な改変と再構成)と、その後に発見された「原資料」(実際にソシュールの講義を聴講していた学生による講義ノート)によって可能となったテクスト・クリティークについて確認している。こうした実証的研究の積み重ねによって、初めてソシュール思想の全貌が明るみに出ることとなった。

 第3章 ソシュール理論とその基本概念

本書の中心的部分。まず、ソシュール言語学の基本概念である「ランガージュ/ラング/パロール」が定義される。その最も根底にあるのがランガージュであり、それは「諸個物の無秩序な連続体から或るカテゴリーを切り取りそこに抽象的な概念を構成することで、世界の認識を可能とする、人間にとって普遍的な能力」とされる。このランガージュを具体的に実現するための社会的文化的な枠組み=《構造》がラングであり、この《構造》における個人の実践がパロールとされる。

そして、「ラング(言語)が社会制度のひとつであるのではなく、それとは逆に、社会ひいては文化的事象全体がラング(言語)の体系として捉えられる」という"転回"を通して、「記号学(「恣意的に定めれた価値をあつかう科学」p235)」は、ただ言語研究のみに関わるのでなく、広く人間科学全体をその射程に収めていくことになるだろう。

ソシュールは、上記のランガージュの規定にも見られるように、次のような認識から出発する。則ち、「言語は、言語の外部...

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2020年3月27日

読書状況 読み終わった [2020年3月27日]
カテゴリ 思想

最後まで読み終えたとき、ああそうだったのか、と深い納得感に浸ることが出来ず、種明かしのサイトの解説を見てやっと驚けた次第。恋愛小説には向かない仕掛けであるように思う。静岡大学の学生と思われる主人公が出てくる。作者「乾くるみ」が名前のような可愛らしい女性ではなくて髭面のおっさんだったことが一番の驚き。作者も静岡大出身。

2020年2月23日

読書状況 読み終わった [2020年2月23日]
カテゴリ 現代日本小説

書店員である著者(1979-)の実体験をもとにした実録私小説、2018年。内容はタイトルの通り。著者が、出会い系サイトをきっかけに、本への情熱を武器として、ときに躓きや逡巡がありながらも、それらもひっくるめながら、人間関係を、本との関係を、自分自身との関係を、どんどんどんどん広げ、深め、解(ほぐ)し、そして変容させていく物語。

私にとって読書は、云わば独りになるためのシェルターのようなものなので、この著者が本を通じて世界を拡げていく様子が、眩しく羨ましいと思うと同時に、自分には出来ないなと読んでいて怯むような気持ちにもなる。ゴンチャロフ『平凡物語』の主人公アレクサンドルの次のような言葉に強く共鳴してしまう、自己閉鎖的な傾向が私にはあるので。

「自分の我を相手に話すことは、彼にとって最高の喜びであった。「人間はひとりでおる時にのみ、鏡に映すように自分を見ることが出来る」と彼はある小説の中に書いた。「その場合にのみ彼は人間の尊厳と価値を信ずることを学ぶのである。自分の精神力とこうして対話するときの彼は何というすばらしさであろう! 彼は首領のように自分の精神力を鋭く見回して、聡明に考えぬいた計画に従ってそれを整列させ、その先頭に立って驀進し、活躍し、創造するのだ! これに反して孤独になり得ない人、孤独になることを恐れる人、孤独を避けて常に他人との共同生活を、他人の知慧と心を求めている人は、何という見すぼらしさであろう……」」(ゴンチャロフ『平凡物語』 岩波文庫 上巻p238)。

それでも、自分の人生を自分で不自由にしてしまっている強張りのようなものをずっと自覚しながら「このままでいいのだろうか」と漠然と思い続けていた私にとって、本書は、別の人生への、別の世界への、別の読書体験への、変容の可能性を例示してくれる希望の書でもある。

「そもそもの問いが私の人生の重要な議題とずれていたのだ。こんな問いに立ち向かわされているとき、いつも自分の輪郭は消えそうで、きちんと答えられなくて不甲斐ない気分になることは、自分がいけないのだと思っていた。でも今夜、この今、自分の輪郭は電気が流れそうなほどにくっきりとしてびかびかと発光していた」(p171)。

私も京都での学生時代によく通っていた「ガケ書房」が登場して、読みながら店の外貌、陳列されているクセのある本、悪戯っぽいセンスのちょっとした小物、店内の木の匂いまで、懐かしく思い出された。「自由に弾いてください」そういえばあったなあと。時期もかぶっているので、ひょっとしたら著者とニアミスしていたかもしれない、と想像してみると、自分の過去の時間が、他人の人生とすれ違いざまに、少し違った色合いで見えてくるようで、不思議な気持ちになる。

2020年2月15日

読書状況 読み終わった [2020年2月15日]
カテゴリ 現代日本小説
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