或る少女の死まで 他二篇 (岩波文庫 緑 66-1)

著者 :
  • 岩波書店 (2003年11月14日発売)
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詩人だった室生犀星(1889-1962)がものした自伝的小説三部作、いずれも1919年の作。

「幼年時代」

他家に遣られた子どもの、生母や姉への愛しさや寂しさや哀しさが、その子どもの透明ささながらに、淡々と静謐な文体で描かれている。主人公に子どもの無邪気さで仲良しになったお孝さんという女の子と知り合っても、

"私はお孝さんと姉とは別々に考えていた。お孝さんには姉さんと異なったものがあった。つまり「可愛さ」があって姉さんにはかえって「可愛がられたさ」があった。"

胎違いであるということとは全く無関係のところにある、姉への思慕の深さ。その憧憬が、孤独なこの子の全てを支えているかのようだ。姉と一緒で、一つの全体でいられる。姉の純朴な優しさも静かに美しい。

"私はときどき隣の母の家へ行くと、きっと姉の室へ這入って見なければ気が済まなかった。いつも黙って、静かにお針をしている傍に寝そべっていた私自身の姿をも、そこでは姉の姿と一しょに思い浮かべることが出来るのであった。その室には、いつも姉のそばへよると一種の匂いがしたように、何かしら懐かしい温かな姉のからだから沁みでるような匂いが、姉のいなくなったこの頃でも、室の中にふわりと花の香のように漂うていた。"

"姉なしには私の少年としての生活は続けられなかったかもしれない。"

なお、思慮深く感受性のある子どもが「男の子」になってしまうときに覚える苦味も、そっと挿し込まれている。それを包んでくれるのも、姉だった。姉が嫁き、主人公の少年時代は終わる。

三篇中の白眉と云える詩人の処女小説。小説というのはこうでなくては、と思わせる。

「性に目覚める頃」

賽銭泥棒を犯す若い女に性欲の昂揚を覚える主人公。男のセクシュアリティのエゴイズムにとって障壁となる女の主体性を物化すると同時に、近くて遠い性の小宇宙を換喩(メトニミー)で剥製品にして陳列棚へと手繰り寄せるのがフェティシズムと云う暴力の魔術か。

"何ということなしに、その雪駄の上にそっと自分の足を・・・のせれば、まるで彼女の全身の温味を感じられるように思われた・・・。私は子どものときから姉の雪駄をはいてよく叱られたものであるが、それよりも、もっと強い烈しい秘密な擽ぐったいような快さが、きっと私が雪駄に足をふれさせた瞬間から、私の全身を伝ってくるにちがいない。ちょうど、踵からだんだん膝や胸をのぼってきて、これまで覚えたこともない美しいうっとりした心になるにちがいないと、私は雪駄を恨めしく眺めたのであった。"

肺病で死んだ友人の女がもたらす嫉妬。エロティシズムは、日常でありながら非日常、凡庸でありながら秘境的、見えていながら隠されている、すぐそこに在りふれていながら隔絶されている、空間を同じくしながら全く異なる世界に並行している、一方の側の全員がそれを平等にもっていながら同時に全員がそれを可視的に不可視化する作法をも併せもっており、実際は可視的でありながらさも不可視であるかの如く相互に振舞うことを暗黙裡に強いられる、そんな微妙な薄い被膜のあちらへ向かわんとするこちらの狂態。

"そして私はすぐに表[主人公の友人]と彼女との関係が目まぐるしいほどの迅さで、二つの脣の結ぼれているさまを目にうかべた。あの美しい詩のような心で眺めた二人を、これまでいちども感じなかった或る汚さを交えて考えるようになって、妬みまでが烈しくずきずきと加わって行った。今ここで真面目な顔をして話をしていながら、いろいろな形を亡き友に開いて見せたかと思うと、あの執拗な病気がすっかり彼女の胸に食い入っていることも当然のように思えるし、また何かしら可憐な気持ちをも起させてくれるのであった。"

「或る少女の死まで」

都会の・大人の・生活の醜悪かつ卑小で散文的な現実の泥濘に塗れた詩人の魂を浄化したのは、屈託も邪気も無い瑞々しい九歳の少女だった。そしてこの"小さな救い主"は題名の通り死んでしまう。もはや「救い主」に、決して永遠が約束され得ない、いつだって予め仮初の「救い主」でしか在り得ない、という現代的な暗示が感じられた。主人公たる犀星は、この作品を発表後、四十年以上も生きることになる。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本文学
感想投稿日 : 2012年7月27日
読了日 : 2012年7月27日
本棚登録日 : 2012年7月27日

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