フローベールが自ら「全生涯の作品」と称している、綺想夢幻劇的小説、1872年。その着想は1845年、イタリアはジェノヴァにて16世紀フランドル(現ベルギー)の画家ピーテル・ブリューゲルの手になる『聖アントニウスの誘惑』を観て受けた感銘にまで遡る。
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聖者アントワヌは、古代神話や異教の怪物・神々・宗教者・悪魔どもの、醜怪にして淫猥な幻覚の狂騒に途切れることなく襲われ続ける。精神的肉体的欲望を刺激され延々と惑乱され続ける。それは殆ど冗長と云っていい。百科全書的博識が繰り出す綺想幻想の羅列。世界についての『知識』もこうして陳列してしまえば、どれもこれも凡庸陳腐な定型句以上では在り得ない。フローベールはそのことを痛感していたに違いない。何故なら、かの『ボヴァリー夫人』の作者が、この近代精神が必然的に到り着かずにはいないニヒリズム・即物主義、その時代精神の普遍的な困難性を、本作品執筆中に意識していないなぞ在り得ないことであるから。自己意識の無際限の否定作用が遂には否定する自己自身をも否定せずにはいないその徹底性。自己意識のこの矛盾そのものとしか(いまのところ)云いようのない自己関係的機制こそが、近代という時代精神のデモーニッシュな末路である。
「わしは形体を嫌悪し、知覚を嫌悪し、認識それ自体までも嫌悪する。――何故とならば、思想は、その発生の因となる過渡の現象が滅びた後まで生き残りうるものにあらず、また精神も他の一切と同じくして、一つの幻にすぎぬものだからじゃ」「しかし、わしは、・・・、もはや生命の旅は放棄いたすぞ。もうこういう疲労は御免蒙りたい! 肉を壁土とし、血で赤く塗られ、醜悪な皮膚に包まれ、汚物に満たされた、わが肉体の穢らわしい宿屋は遺棄いたすぞ。――そしてわが身の労を犒わんがために、絶対の最も深きところ、「虚無寂滅」の中に漸く眠らんとして居るのじゃ」(裸形仙人=ギムノゾフィステ)
勿論、無際限の否定運動の中にのみ、自己否定という機制に於いてのみ、自己が自己たりうる近代の時代精神にあっては、「虚無寂滅」に於ける安息の境地なぞ常に無限遠の先にある成就ならざる成就でしかない。
「この男は、畜生のように、万象の現実性を信じて居るのじゃ。神々を恐ろしがっているがために、反って神々が判らずにいる。そして自分の神を嫉妬深い王の同類にまでおとしめているのだ!」(アポロニウス)
神を殺すまでの否定運動の徹底性に尻込みし、もはやハリボテ以上では在り得ない"何か"を仮構して精神を吊り下げようとする頽落した哀れな近代精神の姿が見える。
「人も獣も神々も、・・・、すべては今や滅びゆくのじゃ。しかり而して、新しき誕生の時みつるまで、崩れ落ちて廃墟と化せし世界の上に、ひとり一叢の火焔ばかり、踊り狂うているであろうぞ!」(仏陀)
人間も世界も即物化した現代にあって、そのガラクタが無限に崩れ落ち続けていくことだけが我らの時代の無-時間性を規定しているのではないか。であればこそ、「新しき誕生」なる事態を【待つ】こと自体が意味を為さない。
「わしには、人間どもの霊なんぞ、もはや要らぬぞ! 大地の神が守ればよいし、人間どもも、土の卑しさに染みきってあれこれと騒ぎ立てるがよい。人間どもは、いまや奴隷の心となり、受けし侮辱を忘れ、先祖を忘れ、起請を忘れ果てている。かくして、到るところにおいて、群衆の暗愚、個人の凡庸、種族の醜悪さが凱歌の叫びをあげて居るわ!」(ジュピテル)
人間存在のどうしようもない根本条件としての「事実性」・「被投性」。あらゆる形而上的価値連関から打ち捨てられ、即物的な俗人 das Mann に頽落するか、或いは、無際限の自己による自己喪失の中でその自家撞着的無間地獄の苦悩によってのみ辛うじて証立てられるトーマス・マン=チェーホフ=ルカーチ的な"それでもなお"の反語に生きるか。
「醒めた後でにがにがしさを味うのだったら、何も楽しみを求める必要はないさね! 楽しみなんぞは、遠くから見るだけで、もう厭気がさすよ。同じような行為ばかりを繰り返す単調さに、日々の長さに、浮世の醜さに、太陽の愚かしさに、あきあきするに極まっているよ」(老婆=死神)「全くだ! 太陽に照らされているものはみんな厭だ」(アントワヌ)
この覚醒に憑かれた人間が、自己意識の無限の否定運動へと、不可避的な自己破壊運動へと、赴いていく。神を殺し世界を徹底的に即物化していく近代という時代精神は、本作品中にあっては、悪魔の形象を与えられている。悪魔は云う「己の名を『知識』という」。
「目的などありはせぬ!/どうして神が目的などもとう!」「言わずと知れたこと、善も悪も、・・・、空間のほんの片隅、ある特定の環境、個々の利害に関係をもち左右されてゆくものだ」「だから、己[おれ]を崇拝しろ! そして、お前が神と呼んでいる亡霊を呪ってしまえ!」(悪魔)
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ところでこの濃厚なペシミズムに覆われた物語の結末は、読む者に唐突の感を与えるだろう。聖者は、幻覚の果てに、万物自然の底流にある神の摂理を見出し、太陽の中に輝くキリストの顔をみて、物語は閉じられる。こんな肩透かしはない。巻末の「解説」によれば、出版に際して教会からの非難を顧慮して削除されたと思しき、本作の結末に続く草稿が存するのだという。それによれば、アントワヌは町なかにキリストを見出す、キリストは人々から呪詛と暴力を浴び、道に倒れ、終には瀕死の心臓だけしか見えなくなってしまう。アントワヌは叫ぶ「あとに何が残るのでしょうか?」
底無しの深淵を堕ち続ける以外に無い近代という時代精神の在りようを見抜いていたフローベールにとっては、こちらこそがこの作品の本当の結語だと云って間違いあるまい。削除前の完全版での本作品の出版を強く望む。
- 感想投稿日 : 2013年11月4日
- 読了日 : 2013年11月4日
- 本棚登録日 : 2013年11月4日
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