現象学 (岩波新書 青版 C-11)

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  • 岩波書店 (1970年9月21日発売)
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現象学の概説書、1970年。

□ Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ章

フッサールの現象学を、彼の思想の変遷に沿って、かなりの駆け足で解説している。

①現象学は、その初期において、当時の支配的な思潮であった実証主義(心理学主義、人間学主義、生物学主義など)に対する批判として出発する。実証主義は、数学や論理学などのイデア的な対象を、経験的実在的なもの(レアールなもの)に還元する誤謬を犯しているとして、批判される。実証主義に対いて、学問一般のイデア的なものの可能性を追究する純粋論理学としての現象学が構想される。初期の『論理学研究』(その第一巻は「純粋論理学序説」)では、ブレンターノの心理学主義を批判する。なお、意識の本質的な性質としての「志向性」(対象化作用)の概念は、ブレンターノによる着想。

②自然主義や歴史主義を、方法的仮定によって学の対象を予め特定の仕方で規定してしまうことで、学として求められる無仮定性を放棄している、として批判する。こうした誤謬の根底に、認識する主体に対して真の意味では与えられていない対象を素朴に存在すると断定してしまう態度、ひいては世界の存在を無根拠に断定してしまう態度、が見出される。この「自然的態度」を「超越論的還元」(「現象学的還元」)によって判断中止する。還元によって、一切の経験的前提が排除された「純粋意識」(「超越論的意識」「超越論的主観性」)が獲得される。この「純粋意識」の場で、世界や他の経験的な対象がどのように構成されていくか(「超越論的構成」)、を反省する。この絶対的な認識批判である「超越論的現象学」によって、厳密な学の条件を追究し、諸学を基礎づける基礎学の構築を目指す。

③「超越論的還元」によって見出される「超越論的意識」が世界そのものをも能動的に構成するのだとすると、この構成的主体それ自体は無世界的で無規定的なものとなってしまう。世界は、「超越論的意識」による能動的な構成に先立って、予め受動的に与えられていなければならない(「受動的総合」)。「超越論的還元」によって判断中止されるべきなのは、「自然主義的態度」(世界が、例えば数学や物理学によって規定された自然科学的世界のように、何らかの理論によって客体化された世界=理念化された世界であるにもかかわらず、そうした恣意的な規定性に無自覚なまま、それを自然な世界であると無反省に見なす態度)であって、「自然的態度」(世界の存在を無根拠に断定するが、その世界に対して「それが存在する」ということ以外の一切の規定を付与しない、則ち如何なる理論によっても客体化しない=理念化しない、則ちそこにおいて一切の主体-客体関係を設定することのない、そのような自然な世界経験)は、世界をその生きられるがままに生きる態度として、寧ろそこに立ち戻るべきものとされる。「自然的態度」によって生きられる「生活世界」は、それ自体は無根拠であるが、それによってあらゆる対象の構成を可能にする根底的な前提条件として、則ち客観的な学を可能ならしめる根源的臆見として、要請される。その「生活世界」において、受動的なしかたで「意味の発生」が起き、能動的な意味付与はこの発生しつつある意味に対して二次的に行われる。

現象学の解説を読むたびに、中期において高らかに掲げられる厳密学の理念と、世界の存在をも宙吊りにする厳格な現象学的手続きに、この哲学のもつ先鋭的な徹底性を見せつけられるようで、実に魅了されまた厳かな心持ちになるのだが、と同時にそれが後期になると、急に趣が変わるというか、生活世界なるものが根源的臆見などと言い訳がましく導入され、他者の問題も共同主観性という概念でごまかされたような気持ちになり(初めて現象学に触れたとき、それが独我論の問題をどのように扱うのか期待していた)、ヨーロッパ的理性だとかいう如何にも西欧中心主義的な概念が云々され、何とも微温的といおうか、保守化したような印象を拭えず、残念な気持ちになる。超越論的哲学が不可避的にとらざるを得ない、それこそ根源的な矛盾としての、自己関係性の機制を、明るみに出してほしかった。

フッサールは晩年、「厳密学の夢は見果てた」という覚書を残したという。

□ Ⅳ章

フッサールの現象学とハイデガーの存在論は、二人が師弟関係であったにもかかわらず、その趣が全く異なっていることを、予てより奇妙に思っていたのだが、両者がどこまで一致していてどこからその差異が生じたのか、概略的にではあるが分かった気がする。

中期フッサールは、世界を構成する「超越論的主観」を、事実的な存在としての人間の意識に帰属させることに反対した。なぜなら、世界に属する事実的人間が、自身の前提となる世界そのものの構成に関わることは、不可能であるから。この点を批判しながら、ハイデガーは自身の哲学を展開していく。則ち、「超越論的構成」の可能性を、あくまで事実的な存在である人間(「現存在」)の在り方(「実存」)のうちに、見出そうとする。

哲学は、存在者を存在者たらしめている存在そのものの意味を問う「存在論」でなければならない。ところで、人間は、「存在とは何か」と問い得る特権的な存在者であり、存在者を通して存在がその意味を自己開示する場であるため、「現存在」と呼びうる。よって「存在論」としての哲学は、この「構成的主体」としての「現存在」の固有の在り方である「実存」を分析すること(「基礎的存在論」)から始めなければならない。この「基礎的存在論」において、「超越論的構成」が「現存在」の「実存」の可能性として捉えられる。こうした「実存」の存在構造を通して、「現存在」によって遂行される、存在一般の意味を問う試みが「現象学的存在論」である。

こうして、フッサール現象学の主題であった「超越論的主観」は、ハイデガー存在論においては「実存的な現存在」として捉え直される。則ち、フッサールにおいて学の基礎づけとしての現象学の目的とされた「超越論的構成」の解明は、ハイデガーにおいては「現存在」の「実存」の解明として捉えられることになる。ところで、ハイデガーにとって「現存在」とは、あくまで世界の内に事実的に存在するものとされる。こうした謂わば「日常性」に埋没している「現存在」が、存在の自己開示の場としての「実存」に覚醒するために、フッサール的な「現象学的還元」(「自然的態度」から「現象学的態度」へ)を、その上に キルケゴール的な「実存的決断」(「非本来的実存」から「本来的実存」へ)というハイデガー独自の問題意識を重ねながら、遂行していくことになる。

なお、公刊された『存在と時間』は、「現存在分析」の部分のみで、「存在一般の意味」を論じる部分は未完に終わった。



Ⅴ章ではサルトル、Ⅵ章ではメルロ=ポンティの思想を、それぞれ取り上げている。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 人文科学
感想投稿日 : 2020年5月2日
読了日 : 2020年5月2日
本棚登録日 : 2020年5月2日

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