こころ (新潮文庫)

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近代日本の小説家である夏目漱石(1867-1916)の後期の長編小説、1914年。

恋愛において、人を恋い初める瞬間、その恋を自覚するかしないか未だ不分明である時期には、何物にも代えがたい幸福がある。自我が世界へ向けて新たな回路を見出し、世界そのものが更新され、以て自我そのものが更新されていく。自我が変容へ開かれてあるということ、恋において自我は自我に対して未知であり得るということ、これは恋が希望そのものであるということだと思う。

「本当の愛は宗教心とそう違ったものでないということを固く信じているのです。私は御嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。御嬢さんのことを考えると、気高い気分がすぐ自分に乗り移ってくるように思いました。もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性慾が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕まえたものです」(p170)。

しかし同時に恋は、自分の中の暗く醜い感情と向き合うことを否応なく強いてくる。不安、焦燥、嫉妬、僻み、劣等感、自己嫌悪、傲慢、優越欲求、独占欲、支配欲、疑心暗鬼、裏切り、自己保身、自己欺瞞、肉欲。こうして、その初めには希望への道筋であったかに見えた恋が、場合によっては当の相手への憎しみにさえ転化してしまうこともある。

「私はいまでも決してその時の私の嫉妬心を打ち消す気はありません。私はたびたび繰り返した通り、愛の裏面にこの感情の働きを明らかに意識していたのですから。しかも傍のものから見ると、殆ど取るに足りない瑣事に、この感情がきっと首を持ち上げたがるのでしたから。これは余事ですが、こういう嫉妬は愛の半面じゃないでしょうか」(p216)。

恋愛には、他者を自己の専有物にしようとする欲求とその必然的な挫折、則ちエゴイズムと孤独とが、最も先鋭的なしかたで現れる。さらにその上、そうした悪感情とその不体裁を自他に対してごまかそうとする欺瞞が加わる。そこでは、先に見た希望への回路などというのは、甘い幻影でしかないように思われてくる。一部の文芸や音楽には、一時そうした醜い感情を雪ぎ落としてくれるかのように錯覚させてくれるものもあるが、エゴイズムと孤独というのは、現代人にとって自他関係の在り方の根本に組込まれてしまっているものであって、容易に逃れられそうにない。自他の透明でそれゆえに調和的な関係を理想としながら、自他という機制のゆえに、予めその可能性が閉ざされてしまっている。以下のようなミクロな言葉遣いひとつのうちにさえ自他に対する欺瞞が入り込んでしまうことからも、その根深さが察せられるように思う。

「私は人間らしいという抽象的な言葉を用いる代わりに、もっと直截で簡単な話をKに打ち明けてしまえば好かったと思い出したのです。実を云うと、私がそんな言葉を創造したのも、御嬢さんに対する私の感情が土台になっていたのですから、事実を蒸溜して拵えた理論などをKの耳に吹き込むよりも、原の形そのままを彼の眼の前に露出した方が、私にはたしかに利益だったでしょう。私にそれが出来なかったのは、学問の交際が基調を構成している二人の親しみに、自から一種の惰性があったため、思い切ってそれを突き破るだけの勇気が私に欠けていたのだという事をここに自白します。気取り過ぎたと云っても、虚栄心が祟ったと云っても同じでしょうが、私のいう気取るとか虚栄とかいう意味は、普通のとは少し違います」(p209)。

エゴイズムによる他者との関係の破綻が、ついには自己自身の存立根拠をも食い破ってしまう。なぜなら、自己は、自己自身の信念に拠ってのみ成立するのではなく、他者の存在とその関係性に本質的に依存することで存立可能であるのに、エゴイズムは他者という基盤を掘り崩してしまうから。

「叔父に欺かれた当時の私は、他の頼みにならない事をつくづく感じたには相違ありませんが、他を悪く取るだけであって、自分はまだ確な気がしていました。世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念が何処かにあったのです。それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです」(p258-259)。

恋愛における幸福がもし可能であるとして、はたしてそれはなにかの錯覚以上であり得るのか。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本文学
感想投稿日 : 2021年8月9日
読了日 : 2021年8月8日
本棚登録日 : 2021年8月9日

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