オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家 ゾラ傑作短篇集 (光文社古典新訳文庫)

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レビュー : 8
著者 :
制作 : 國分 俊宏 
transcendentalさん フランス文学   読み終わった 

19世紀フランスの作家ゾラ(1840-1902)の短篇集。第二帝政期以降に本格的に立ち現れたブルジョア社会における、人々の生活や欲望を描いている。



「オリヴィエ・べカイユの死」(1879年)

意識はありながらも、肉体的には自らの意志で動くことができず、周囲からも死んだものとして扱われ埋葬されていく男の視点を通して、「死とは何か=生とは何か」を考えさせられる。読みながらすぐにポー『早すぎた埋葬』を想起したが、解説によるとバルザックやゴーチエにも同主題の作品があるという。本作の主人公やゾラ自身が取り憑かれていた死への強迫観念というものは程度の差はあれ多くの人間がもっているのだろうが、「仮死状態のまま誤って埋葬されてしまうかもしれない」という恐怖はそんなに普遍的なものなのだろうか。やや不思議な感じがする。

物語を通して、主人公の「死に対する意識=生に対する意識」が変容していく過程が、興味深い。子どもの頃は、自分の存在を虚無に帰する死を恐れていた(生は有意味であり、それゆえに死は無意味である。生の肯定→死の否定)。しかし、生きたまま埋葬されるという状況に置かれて、生の苦しみを永遠に消し去ってくれる死を切望するようになる(生は無意味であり、それゆえに死は有意味である。生の否定→死の肯定)。そして物語最後の皮肉によって、死は生が無意味であるのと同等に無意味である、という境地に到る(生は無意味であり、それと同時に死も無意味である。生への無関心=死への無関心)。

「僕が子どもの頃からひたすら恐れていたのは、虚無だった。僕は、自分の存在が消えてしまうということが、さっきまで自分だったものが完全に消えてなくなるということが想像できなかったのだ。しかもそれが永遠に続くのだ。・・・。そして、僕が見ることもない、生きることもない、未来のその年が、僕を不安でいっぱいにするのだ。この僕こそが世界なのではないか。僕が逝ってしまったら、この世界は崩れ落ちるのではないか、と。死んでしまっても生きている夢を見続けること。僕がずっと望んでいたのはそれだった」

「ああ! この瞬間、僕がどれほど死を望んでいたか! ・・・。もうどんな虚無だって怖くはない。死は一瞬で、そして永遠に、存在を消してくれるからこそすばらしいのだ」

「死は、もう怖くない。けれども、死神のほうが僕を望んではいないようだ。今の僕には、もう生きる理由がまったくないというのに、死神は、ひょっとして僕を忘れているんじゃないだろうか」

ポー「天邪鬼」や乱歩「目羅博士」にも通じるような、反語的とも呼ぶべき或る種の嗜癖について記されているので書き出しておく。「僕には恐ろしいことをあえて妄想する性質があって、目を開けたままでも、ぞっとするような出来事を想像して、被虐的な歓びを味わうことがあったのだ」。



「ナンタス」(1878年)

産業革命が進行し急速に近代化した第二帝政期以降のフランスで、青年は「利益」と「力」を唯一の価値基準として自らの「意志」と「能力」のみを頼りに社会階層を上昇していこうとする。なぜなら、青年の自我は、自分が本来いるべき場所は、いまの自分の社会的位置とは別のところにあると思っているから。

「それは決して低俗な欲望でもなければ、快楽を求める卑しい願望でもなかった。むしろ、知性と意志の力から湧き出る、とてもはっきりした感覚とでもいうべきものだった。その知性も意志も、本来あるべき場所に置かれていないがために、ごく自然な論理的欲求として、その場所まで上りつめることを当たり前のように望んでいたのだった」

しかし、その上昇運動には終着となる頂点は無く、無際限に上り続けるしかない。そして、ついに人生の終着のほうが先に訪れてしまいそうになったときに気づいたことといえば、上昇の先には生の支えになるような如何なる意味も無いということ。

「あらゆるものが次々と足元で崩れ落ちていった。ただ死のみが、確かなものとして残ったのだ」

終盤、「利益」「力」という即物的な(無)価値観では充足されずにいた生の虚無を埋めるものとしてゾラが提示するのが、「女」からの愛であるという凡庸さ。ニヒリズムからの救済という役割を勝手に要求される「女」。ありふれた物語。



「シャーブル氏の貝」(1876年)

フランス西部の海岸街ピリアックが、空と海の青色と太陽光の白色とで、実に眩く描写されている。不妊に悩む夫とともにパリからやってきた美しい若妻エステルと生命力溢れる地元の青年エクトール、二人の気持ちの交わりが、ピリアックの海水浴や洞窟散策の場面で、性的な暗示を多分に込められながら官能的かつ詩的に美しく表現されており、本短篇集中の白眉。

「自分たちのまわりに、ゆらゆらと広がっては消えていく水の輪を作り出しながら、二人はすべるようにゆっくりと進んだ。こうして同じ波の中に包まれていると、まるで二人だけの官能的な秘密を共有しているようだった。エクトールは、エステルの後を追って進み、彼女が残した水の軌跡の中に身を置いて、その同じ流れの中で、彼女の体の温かさを感じようとした」

「少しずつ水が洞窟の中に入ってきて、透き通った小石がやわらかい音を立てていた。沖からの水が、外海の官能を運び込み、愛撫するような波の音と、欲望を含んだ刺激的な潮の匂いを連れてきていた」

「真っ暗な夜だった。暗い空に白い海が輝いていた。洞窟の入り口で、水がむせび泣くような声をあげていた。丸い天井の下では、夕日の最後の名残が消えたところだった。生き生きとした生命力に満ちた波から、命を生み出す豊穣の匂いが立ち上ってきた」

この後に続く喜劇的な終幕との対照が見事。



「スルディス夫人」(1880年)

芸術家小説。市民的な労働を通してではなく芸術的な才能を通して社会に対して自己の存在証明を突きつけようと目論む者にとって、生活とは苦闘そのものであると思う。芸術上の破格な独創性を備えながら放蕩に溺れ堕落した生活を送ってしまう夫フェルディナンと、創作上は凡庸ではあるが手堅い技術をもち規律ある生活を送ろうとする妻アデル。そんな芸術家夫婦が、それぞれが抱えている野心・自尊心・劣等感を取引し合って危うい均衡を取ろうとする、その異様な緊張関係が凄絶だ。

レビュー投稿日
2019年4月6日
読了日
2019年4月6日
本棚登録日
2019年4月6日
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