情緒的な意味を含んだこの世界を生きているわれわれの実存のありようを明らかにするとともに、そうした立場に基づいて結婚・家族・国家の意味についての考察を展開している本です。
前半は、著者の実存主義的な立場が、「いる」という日本語を手がかりに説明されています。著者が手がかりとするのは、ハイデガーの「現存在」とは日本語の「いる」のことにほかならないという、詩人の菅谷規矩雄のことばです。「いる」という語はふつう、「あそこに猫がいる」「彼は走っている」「壮麗な伽藍が並んでいる」のように用いられます。著者はこうした「いる」の用法に検討を加えて、「いる」とは「話し手の身体それ自身が、言葉で直接指示された状況に……参入していることを示している」と述べています。つまり「いる」ことによって、自己と世界は生き生きとした情緒を含むような仕方で結ばれているのです。このことが著者の実存的な立場の根底をかたちづくっています。
次に著者は、結婚・家族・国家の意味を、実存的な身体をもつわれわれがエロス的・社会的な相互承認を形成してゆくプロセスにそくして解明しようと試みています。ヘーゲルは『法の哲学』において、人間の精神が家族から市民社会へ移行し、さらに国家へと進んでいく弁証法的なプロセスを描きました。しかし著者は、これは起源論的な発想に基づいた叙述ではなく、「より高い精神を持った共同体を、私たちは理念としてもたなくてはいけないという、一種の思想的な呼びかけだった」と解釈しています。
近代市民社会の中で「成熟」を問題にする著者の議論の大枠はそれなりに理解できたのですが、ジェンダー論批判などに見られる著者の「結婚」や「家族」についてのセンスは少し窮屈すぎるようにも感じました。
- 感想投稿日 : 2017年10月3日
- 読了日 : -
- 本棚登録日 : 2017年10月3日
みんなの感想をみる