「著者の思いつきが待ち受ける罠のような入門書」

全体として見れば大変ひどい出来です。
読む際の基本方針は「哲学の解説はまあまあ信用してよく、他分野の引用は基本ウソだと思うべし」です。
論理の飛躍を確認する上では理想的な反面教師ですが、
わざわざそんなことを楽しむなら真っ当な本を読む方が建設的です。
もし暇と退屈について真面目に興味があるなら増川宏一『日本遊戯史―古代から現代までの遊びと社会』が具体的に解説していますので、まずそちらを読むのをおすすめします。

第一章
この本の良い部分の5割がこの章にあります。
パスカルによる退屈論をはじめ、非常に興味深い情報と暇と退屈の重要な基礎情報が確認できます。
この章以降は誤情報と常に格闘せねばいけないことを考えれば、この章だけで読書を終えるのは真面目に選択肢として考えられます。
もし続きを読む場合でも、第五章まで飛ばすのをおすすめします。

第二章
ここから読者は著者の根拠のない思いつきと、根拠のある別分野の研究を選り分けねばなりません。
この章は西田正規『人類史のなかの定住革命』を底本とし、退屈の起源を探るとされています。他方、西田の本は人類史の本であって、退屈の起源を書く本ではありません。
では著者の國分はこの問題をどう関連づけているかと言えば、憶測によってです。
「遊動生活がもたらす負荷こそは、人間のもつ潜在的能力にとって心地よいものであったはずだ(p.107)」
この一文のみが「退屈の起源」を説明した國分の文章ですが、この文章の根拠はこの本のどこにも見当たりません。
強いて言うなら「大脳に適度な負荷をもたらす別の場面をもとめなければならない(p.104)」という文章とその前後を引用文がそれらしいですが、あくまでこれらの文章は「遊動生活(いわゆる狩猟採集生活)には、その状況に即して人間の能力が使われる」という以上の意味を持ちません。つまりは、西田が専門的見地から明らかにした「定住革命」を読んだ國分の「感想文」が上記文章です。言うまでもなく、感想文に根拠はありません。
この辺を読者は今後も注意深く読み、その文章は根拠があるかを常に問わねばいけません。

そして事実、定住した人類が「大脳に適度な負荷」を受けなくなったかは甚だ疑問です。
たとえば山本 紀夫『先住民から見た世界史 コロンブスの「新大陸発見」』はアメリカ史を植物史などの観点から見直した本ですが、この本の中ではトウモロコシ等の現在の人々の主要な作物が栽培当初は粒も小さく、可食部も少なかったことが指摘されています。
現代よりはるかに過酷な環境でなんとかして「食えることを可能にする」模索をする初期の定住民は、「大脳に適度な負荷」を受けなかったのでしょうか?
國分は定住に触れながら農業について一切触れていません。このことからも定住革命から退屈を読み解く視点は机上の空論であり感想文の域を出ないと考えられます。

第三章
この章は経済を扱った分野であり、それゆえ資料自体の読み間違いが多々確認できます。
そのため、結論部分も当然怪しくなってきます。
特に怪しいのが國分が描くフォード観です。
國分によればフォードは「労働者の労働効率を最大化し、余暇を消費させる(p.142-143の要旨)」存在として描かれています。
他方、私が知るフォード研究はそうではありません。

ロバート レイシー『フォード 自動車王国を築いた一族』ではいかにフォードが過酷な経営者であり、そのために”余暇もなく、どれだけ労働者が過酷に働かされたか”が克明に記録されています。
いわくフォード社の家族が「あなたの社員である夫は家に帰ると死人のようになっています。どうか過酷な労働から夫を解放してください」とフォードに...

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2024年9月11日

読書状況 読み終わった [2024年9月11日]
カテゴリ その他

簡素なナチ・ドイツの入門書。
100ページちょっとで終わるのはありがたい。

まず目次から。
第一章 ナチズムとは?
第二章 ヒトラーはいかにして権力を握ったのか?
第三章 ドイツ人は熱狂的にナチ体制を支持していたのか?
第四章 経済回復はナチスのおかげ?
第五章 ナチスは労働者の味方だったのか?
第六章 手厚い家族支援?
第七章 先進的な環境保護政策?
第八章 健康帝国ナチス?

パッと読んで感じるのは、文章はそれなりに難しいこと。
第一章のナチスを国民社会主義と呼ぶ理由の下りは、
慣れてれば問題ないが読書初心者には難しそう。
他方、「はじめに」が非常に読みやすくまとまっているので、ここで読者が脱落しないのは好印象。

100ページの範囲にナチ関連の入門書をきれいに落とし込んでいるのは非常に有意義な試み。
第四章の経済周り、「ナチスが経済回復させた」という話はネット上で未だに根強いし、
第五章のフォルクスワーゲンやアウトバーンのお話も定番だ。

しかし、今までこうしたナチスの噂の裏を取ろうとすると入門書を通読する必要があり、多少手間がかかった。
本書ではこの辺の情報へのアクセスが楽になっていて、
自分が調べるのはもちろん、他人に勧めやすいのも大きな利点。

第一章が気持ち難しいぐらいで、他の章は割合くだけた文章なのも好印象。

もし読書初心者が読むなら章のはじめ、
つまり「世間ではこう言われている」の所は読み飛ばすのも手。
おそらくみなが気になっているのはその次、
「本当はどうだろうか」の部分だからだ。
この部分は実にワクワクさせられる読書体験だった。

巻末にはブックガイドもあり、この本でナチ研究に興味を持った人は続けて石田勇治、ウルリヒ・ヘルベルト、リチャード・ベッセル等の定番入門書まで手を伸ばしてもいいだろう。

2023年7月8日

読書状況 読み終わった [2023年7月8日]

この本の特徴は事実や根拠よりも、著者の主張が地の文の大部分を占める点だ。
一般的な歴史書ならまず当時の資料を引き「◯◯という可能性が伺える」とでも書くぐらいだろう。

この本はこの資料と解説の割合がおかしい。
たいていの本なら3:7で、要するに資料が中心となる。
この本はこれが逆転し、7:3となっている。
ここまで主張に重きを置いた「歴史本」は初めて見た。

資料の割合が少ないので、著者の事実を確認することはできない。
まさにこうした問題を回避するために資料の量が大事なのだが……

食肉の歴史に興味があるなら他の本を当たるのが賢明だろう。

2023年6月12日

読書状況 読み終わった [2023年6月12日]
カテゴリ その他

類書が思いつかない良書。
心霊スポットを扱う民俗学の本。

学問として心霊スポットを扱う試みは大変興味深い。

心霊スポットの条件として「幽霊に会えなくとも良い」と語るのは、
単純だが鋭い指摘。
心霊スポットは殺人現場ではない。
観光地であり、またその恐怖を語る対象が「友人の友人」という指定も、
仕組みを聞けばうなづける部分が多い。
恐怖を体験した本人では信ぴょう性が問われる。
あまりに縁が遠いと切迫感に欠ける。

心霊スポットがどのように誕生するか、
あるいはどのように心霊スポットに”専門家”、
すなわち稲川淳二のような語り部や宜保愛子のような霊媒師が関与するのかの部分も面白い。
過去の心霊研究では科学を土台としてこういう「山師」の作用をうまく把握できていなかった。
しかし、現実に彼らのような「心霊の専門家」は一定の地位を得ている。
どのような仕組みか? 彼らがある種の専門性を持つという指摘は説得力がある。
そして専門性で語られることがあるなら、非専門的な語りもありうる。
心霊スポットを「ただ訪れ」「解釈しない」非専門的なカジュアルな心霊番組の立ち位置をこう読み解くのかと感心させられる。

科学読み物でもなく、単なるオカルト愛好の本でもない。
正しく民俗学の系統の本だと、心得のある人には楽しめる本だろう。
繰り返すが、類書がないのはやはり大きい。

情報源として一部旧2chを使う場面もあるが、
インターネット上の情報とマスメディアの情報を突き合わせることで、
情報の信ぴょう性を確保しているの重要。

「心霊スポットとはなにか」という問いを持つなら、
まず読むべき本だろう。

2023年8月4日

読書状況 読み終わった [2023年8月4日]
カテゴリ 民俗学

この本の素晴らしい所は、いままでの無宗教研究をまとめ、
また明治-現代まで無宗教がどう語られてきたのか、その資料をまとめている点です。

1.いままでの無宗教研究まとめ
阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』と礫川全次『日本人は本当に無宗教なのか』が
冒頭文で紹介され、こうした先行研究を踏まえていることが伺えます。
実際本文でも前掲書の理論の簡単に紹介した後、その論理を歴史上の事実から難しいと指摘、
その上で、より現実的な論理として「無宗教だから悪い」という欠落説、
「無宗教だから良い」という充足説、「無宗教は日本固有の宗教」という独自宗教説という
3つの分類で無宗教に切り込んでいきます。

2.豊富な資料
以上の3分類も、根拠がなければ意味がありません。
この本では明治-現代まで非常に手厚く情報を集めていて、
当時の時代の空気を伝える新聞記事等を様々確認できます。
仮にこの本の分析に改める箇所があったとしても、
こうした資料は今後も参照され続けるでしょう。
そのため無宗教研究の決定版であり、今後の基礎となる本と言えます。

3.独自の分析
以上のように豊富な資料を扱うことになったのは、
この本の視点が「無宗教が良い/悪いという事実があるのではなく、
無宗教が良い/悪いと他のものと紐づけて論じられてきたのではないか」というものだからです。
明治時代は無宗教だから列強国でないと知識人が危機感を持ち、
またある時は無宗教だから日本人は道徳心に欠けると嘆きます。
他方、無宗教だから日本は先進国だと言う人もいれば、
無宗教だから道徳心があると言う人まで記録されています。

以上の事実からわかる通り、
「無宗教だから……」という語りは無宗教の話をしたいのではなく、
日本が列強国か、日本人に道徳心があるかなど、他の問題を話題にしたい時に使われる、
そしてなぜそれがあるのか、ないのか説明がつかないので「無宗教だから……」と説明される、
それが豊富な資料により裏付けられています。

4.レビューおわり
以上、この本を読むと「無宗教だから……」となにかを論じる前に、
かつての人々が繰り返した「こじつけ」に陥っていないか自然と注意が向くようになるでしょう。
本書のおわりに書かれているように、「無宗教だから」の話をする前に
「そもそも宗教はどこで区切るのか」という問題も、今までの無宗教研究で行われてきませんでした。
こうした部分も顧みられるべきでしょう。

最後に本書で目についた「無宗教」関連の事件の名前を挙げておきます。
これらの名前に関心がある人は、本書に目を通してから語った方がいいでしょう。
廃仏毀釈、国家神道、津地判決、葬式仏教。

2023年6月5日

読書状況 読み終わった [2023年6月5日]
カテゴリ 聖書学・宗教学

E・H・カーの『歴史とは何か』については清水幾太郎訳(岩波新書)のものがすでに存在する。
なので清水訳と今回の近藤訳を比較していく。

本文の読みやすさについて。
・清水訳が良い

理由は単純で、近藤訳のしばしば入る[笑]という表現が著しく読了感を損ねる点である。
たとえば近藤訳のp.4には以下のような記述がある。
「しかしながら、一九五〇年代の文章ならすべてかならず意味が通ると信じるほどに先端的ではないのです[笑]」

これが清水訳ではこうだった。
「しかし、何によらず、一九五〇年代に書かれたものはみな意味があるという見方を信じるところまでは私もまだ進んでおりません」

近藤は清水の訳に本作でも言及しており、
その意味で清水に誤訳があったなら、近藤が直している可能性が高い。
しかし、意味の忠実さを求めるなら原文を読むべきで、
訳文として求める「一定程度のわかりやすさ」なら清水訳でも困ることはあまりない。
それよりはページによっては1ページ内に[笑]が4つも書く近藤訳の方が大変読みにくい。

注釈の読みやすさ
・近藤訳が良い
清水訳では注釈は巻末にまとまっており、
わざわざ読もうとしない限り目に入らない。
これに対して近藤訳では注釈の内容がほぼ必ず同じページにあり、
「わざわざ読む」という手間無しに読み通すことができる。
注釈の内容も原注だけでなく、近藤の足したと思われる注釈、
それこそ2022年のウクライナ情勢にまで軽く触れたものがある。
また、より重要なのはE・H・カーの間違いを指摘する注釈である。
『歴史とは何か』は歴史学を志すものならどのような形であれ大いに重視する文献だが、
カーを崇拝せずに済む、という意味ではこの注釈は重要である。

資料としての充実具合
・近藤訳が良い

清水訳では新書ということもあり、『歴史とは何か』の本文の訳のみを収録している。
これに対し、近藤訳ではR・W・デイヴィスによる「E・H・カー文章の解説」がある。
これはE・H・カーが『歴史とは何か』の次回作を構想し、
しかし執筆が間に合わなかったカーの資料を解説するという野心的な試みである。
更にカーの自叙伝など、「本を読むための資料」にも事欠かない。
この意味で近藤訳は価値がある。

総評:読者層によって勧める訳が異なる

初学者、大学生
・清水訳
本文が素直で、また単純に文字数が少ないのは最初にふれる上で、
読書のハードルを下げることができる。
E・H・カーの『歴史とは何か』に最初にふれるなら、清水訳が今でもおすすめである。

院生、歴史研究者、清水訳読破者
・近藤訳に目を通すべき
清水訳の良い所は文字数が少ない所であり、欠点は文字数が少ないことである。
文字数が少ないということは読みやすいが、情報量が少ないということでもある。
すでに清水訳を読破した人には近藤訳の追加部分や、
本文を改めて読んで『歴史とは何か』への考えを深めてもらいたい。
真剣に歴史学をやるつもりなら、近藤訳を新品で買うのは高くないどころか安いと言える。

ネタバレ
読書状況 読み終わった
カテゴリ 世界史

全体としてあまりに中途半端な本です。

この本は専門書ではありませんし、最後まで読んでも
「日本人はなぜキツネに騙されなくなったのか」わかりません。

転機は1965年にあると著者は断言しますが、その根拠は不明です。
著者はいくつかの説、高度経済成長期であったとか、
敗戦の経験、森林の扱いの変化などをあげてはいます。
しかしそれぞれの説は説と呼べる根拠をもちません。
「著者はそう思う」以上の情報がありません。

さて、この本は民俗学の本に近いですが、
エッセイに分類されるものでしょう。
理由はすでに書いているように、確度の高い情報があまりにも少なすぎることです。

この本で確実なのは群馬県の上野村の記述です。
この部分は著者が長く滞在し、地元民からしか聞けない民話などを記録しています。
他方、江戸時代、仏教史、西洋史、歴史学そのものを通して著者は
キツネを解説しようと試みますが、そのすべてが「私はそう思う」で終わっています。

こう断言する理由は2つあります。
1.参考文献がない。参考文献がないため、読者は著者がなぜそう考えた確認できない
2.あとがきでも「なぜキツネに騙されなくなったのか、その内容は解き明かされていない(要旨)」と記載があり、著者も認めるように、なんと表題が未解決なまま終わる

他、多くの部分で著者は重要な問題を提起しながら、そこへの考察と根拠を示すことなく「私はそう思う」で話を進めます。
たとえば145ページにて「ヨーロッパ的ローカルな精神(キリスト教や歴史学の精神)ではキツネと人間の関係を捉えることができない(要旨)」との記載があります。
他方、まさしく西洋史で妖精や神話の再評価が行われています。
これは著者が本書で常々主張している「森とともに生きる人」を想起させるものです。
しかし著者はあっさりと「西洋と日本」で区切り、西洋式の考えではキツネはわからないと検討を切り上げてしまいます。
しかもややこしいのは、この検討はあとがきの通り途中なのです。
この箇所だけ読んで「そうか、ヨーロッパにはキツネを理解する精神が無いのだな」と思わせるなら、これは非常に誤った文章だと指摘せざるを得ません。

著者はベルクソンやマルク・ブロックなど有名な学者の名前を列挙して思想史や歴史学を説明していますが、この部分も非常に中途半端です。
すでにあげた著者がいう「西洋的な考え方」はまず西洋史内で克服されていますし(E・H・カー『歴史とは何か』)、日本の歴史学者の井上智勇がこの問題を取り上げ、西洋対日本と簡単に分けられる問題ではないことも1951年の講演ですでに説明済みです。

これからこの本を読む人はぜひ覚悟をして読んでください。
基本的に「それは本当だろうか」と考えても、本文中にその答えはありませんし、
参考文献がないので著者の考えをたどることもできません。

おそらく著者の他の本であれば、こうした配慮はされているのでしょう。
しかし残念ながらこの本はそうした配慮がされていません。
読みながらファクトチェックをしなければならないのは相当なストレスです。

2023年3月24日

読書状況 読み終わった [2023年3月24日]
カテゴリ 民俗学

タイトルに反して堅実。
要旨は「うちの病院は医療ミス起こさないよう頑張っています」
もっと批判的な意味もあるが、省略。

2019年11月9日

読書状況 読み終わった [2019年11月9日]
カテゴリ その他
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