言葉の魂の哲学 (講談社選書メチエ)

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アテナイエさん  未設定  未設定

「言霊がやどる」という神秘的な言葉があります。はたして言葉という記号に魂がやどるということが本当にあるのかしら? 逆に言葉が生命を失ってしまうということがあるのか?

筆者によれば、言葉を理解しているとは、①その使い方を知っている、他の言葉で置き換えることができる、さらに②その言葉を「体験」している、自分の胸の内に感じることができることだと説明します。
そうか! なんだか目から鱗が落ちたような思いです。たとえば蝋燭の火の上に手をかざし、それをゆっくりゆっくり火に近づけていくと……炎が皮膚をあぶり、じりじりと音がして、生臭い匂いが漂いはじめます。その手は実際に炎に焼かれているわけではないのですが、焼かれていく異様さや手の痛みを覚えて顔をゆがめてしまいます。では「痛み」という言葉の使い方を知っているロボットも、はたして私と同じ反応をするのか?

「言葉のゲシュタルト(かたち)構築とは、言葉が生命を得て、言葉が目立ってくるケースである。とりわけ言葉の立体的理解が実現するときには、我々にとってその言葉は多様な意味を抱えるがゆえに、その固有の表情や色合いを宿すものとして体験されている」

また言葉とは人の意志に従わない自律的なもので、ときに言葉だけが暴走してしまう危険性があることも紹介していてとても興味深い。

「君が不意に思いつく言葉は、何らかの特別な仕方で「訪れる」ものである。それゆえ「(いつか)言葉を思いつくまで、とにかくそれを待たねばならない」

世界の作家や詩人たちがたった一つの言葉を探しあぐねて日々苦悩していることを想像すると頭が下がる思いがします。でも、現実の日常世界では、そうやってしっくりくる言葉を忍耐強く待たなくても、言葉を立体的に理解していなくても、日常のコミュニケーションに支障はありません。それではなぜ? 言葉を立体的に理解する必要があるのか?

作家・ジャーナリスト・批評家のカール・クラウス(1874~1936年)の言語論によれば、しっくりくる言葉を選び取れないということは、表現の豊かさや繊細さを失う、ということだけにとどまらない、重要な「倫理」も失ってしまうのだ、というのです。
この点、私の敬愛する作家ジョージ・オーウェル(1903~1950年)の優れた評論が端的に示していて、本作でも紹介されていたので、がぜん嬉しくなりました。

「政治の言葉は、主に婉曲法と論点回避と、朦朧たる曖昧性とから成り立たざるを得ない。無防備な村落が空爆を受け、住民が山野に追い出され、家畜が機関銃でなぎ倒され、家が焼夷弾で焼かれる。これが鎮圧と呼ばれる。何百万人もの農民が農場を奪われ、携行できる物だけを抱えて重い足取りで道を歩かされる。これが住民の移送とか国境線の調整と呼ばれる。人々が裁判も受けぬまま何年も投獄されたり、頭を後ろから銃撃されたり、極北の木材切り出し場に送られてかい血病で死ぬ。これが不穏分子の排除と呼ばれる。物事を名指しつつ、それに対応する心的なイメージを喚起しないことを欲した場合に、こうした決まり文句が必要となるのだ」(ジョージ・オーウェル『オーウェル評論集2-水晶の精神』)。

いやはや、この鋭い切れ味には読むたびに痺れます。確かに、すこし気をつけてみれば、こういったことは身近に溢れています。
わたしたちに明快に謝罪しなければならない為政者や官僚や会社代表者が、「遺憾」という「常套句」を平然と使い、はなはだ他人事のような、さながら遠い火星の出来事のようなイメージを醸す光景。あるいは沖縄上空を飛来していた米軍ヘリがコントロール不能になって海岸浅瀬でバラバラに大破したり、民間地上で黒煙を上げて激しく炎上している。これらが「墜落」(高いところから落ちること=大辞林)ではなく、「不時着」(不時の事故により目的地以外の場所に降りること=大辞林)という常套句で呼ばれる。機体が大破したり炎上しているのに、これを「降りている」と強弁する! なるほど、「不時着」といえば明らかにソフトなイメージです。現実に生じている墜落の衝撃や惨状も薄れ、その結果、重大な責任の所在まであいまい朦朧としてくるのです。

こういった身近にある具体的なことを思い浮かべてみると、カール・クラウスの言う、しっくりくる言葉を選び取れない、あるいはあえて「選ばない」、ということは、たんに表現の豊かさや繊細さを失う、ということにとどまらず、重要な「倫理」も失ってしまうのだ、という意味がわかって膝を打ちます。

ちょうど先日、無事にテロリストから解放されたジャーナリストの日本人を巡り、またぞろ「自己責任」という「常套句」が席捲しています。しかも本人のみならず、その妻まで記者会見で平身低頭の謝罪をさせる、この社会のいびつさと浅はかさに悄然とします。おそらく時々刻々と変化して予測しづらい紛争地周辺で、どこまでの行動が自己責任と言えるのか私にはわかりません。わからないのに匿名という安全地帯から一方的に人を非難することなんて私にはできません。実際に事故や災害が生じている原発や基地や、はたまた地震の恐れのある地域に住む人々にもし災厄が生じた場合、これも「自己責任」というのだろうか? それによって国や為政者は私たちの生命・身体を保護する義務から解放されてもいいのかしら? 

使い古された常套句一つからいろいろ考えさせられます。カール・クラウスによれば、言葉を選ぶ際に悩むこと、迷うことは道徳的な贈り物だと述べています。そしてそれがおろそかになれば、戦争が起こりうるのだ……とも。

彼が危惧したとおり、1921年にはヒトラー独裁体制が確立し、その10年後にはナチス国家が誕生しました。「宣伝省」を設置してマス・メディアを駆使し、プロパガンダを流し、人々の感情に訴え、レッテルを張り、敵・味方の対立構造を単純化して憎悪を煽ります。ユダヤ人を害虫とレッテル張りし、せん滅対象にして、多面性を徹底的に排除しながら、紋切型の言葉や常套句を氾濫させ、人々の考える力を萎えさせてしまったのです。それと似たようなことが、ここ数年のアメリカや世界にも生じていて、全体主義を模したジョージ・オーウェルの『1984年』がはやる背景理由がわかり、思わずうなってしまいます。

本作は、言語哲学者ウィトゲンシュタインや批評家カール・クラウスをわかりやすく解説しながら、中島敦『文字禍』や夏目漱石『門』も紹介しています。わくわく楽しみながら、斬新な切り口で言葉というものをとらえた作品だと感激しました。少々難解なところもあり、少し手ごわい書物ではありますが、言葉の不思議な魅力に興味のある方にお薦めします♪

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「書物は物理的なモノで溢れた世界における、やはり物理的なモノです。生命なき記号の集合体なのです。ところがそこへまともな読み手が現れる。すると言葉たち――言葉たち自体は単なる記号ですから、むしろそれら言葉の陰に潜んでいた詩――は息を吹き返してわれわれは世界のよみがえりに立ち会うことになるのです」
(ボルヘス『詩という仕事について』)

レビュー投稿日
2018年11月10日
本棚登録日
2018年9月26日
11
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