忘れられた巨人 (ハヤカワepi文庫)

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本棚登録 : 990
レビュー : 127
制作 : 土屋 政雄 
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カズオ・イシグロさんの作品はやさしい言葉でリーダブルなのに、その内容は奥が深くて驚嘆します。それを支えている翻訳者土屋さんも素晴らしい♪
夫婦の究極のラブストーリーという個別の物語と、マクロで巨視的な物語をうまく綯いあわせるイシグロの手法はここでも健在です。さらに世界中で読まれている騎士物語を駆使しながら、圧倒的な「物語」(隠ゆ)で現代の世相を映し出そうとするイシグロに脱帽。やはりノーベル文学賞を受賞する人ですね~。

ブリトン人の老夫婦アクセルとベアトリスは、生き別れになった息子に会おうと決意するのですが、その記憶はじつに頼りない。あれ? 歳のせいかしらん? 小首を傾げながらぐいぐい引き込まれていくうちに、どうやらそんなものではないことがわかってきます。移民のサクソン人とかつかつ平和裡に暮らしていた時代、人々の記憶の欠損が霧のように広がっていることにいぶかりはじめた老夫婦の冒険が始まります。

人々に悪さをする鬼、妖精、竜や巨人といった、おなじみケルト神話や北欧(ゲルマン)神話・寓話の融合した舞台に心躍ります。それを支える自然描写も見事で、樹木生い茂るおどろおどろしい森、冷たい風になぶられる草の荒れ野や茫漠とした岩々の山、まがまがしい湖沼やたちこめる灰色の霧……ブリテン特有の自然と巧い描写が、どこか魔術的感覚やファンタジーを醸しだします。そこにアーサー王や円卓の騎士カヴェイン、あるいは賢者(呪術師)マーリンといった人物が華を添え、あっという間に古きよきブリテンの世界に浸ってしまいました。

ニュースをながめれば、世界中のどこかで紛争があり、人が死に、人種や民族や宗教間のいざこざを目にしない日はありません。恐怖や怒りをあおり、人々を分断する不穏な流れが世界を席巻し、人類はどうやっても負の連鎖を断ち切ることはできないのかと途方に暮れてしまいます。いっそのこと対話や努力を打ち捨てて、「竜」の吐息(霧)で人類の記憶を埋めてしまい、さわらぬ神(巨人)に祟りなしとしたほうがいいのかしら…笑?
でもそうなれば、記憶を喪失した人間とは一体何なのか? アイディンティティの根を失った人々や民族や人類の存在は単なる根無し草? すべての歴史を失った人類は虚無からふたたび負の鎖を編んでしまうのか? 殺した巨人の骨や肉から国を作った神々のように……。

降り積もっていく雪のように時の経過は鮮烈だった記憶を覆い、哀しい思い出や苦しい出来事の記憶を淡く和らげてくれます。そこには苦悩とともに赦しや愛があるのかもしれない、あるいはまた未来を照らす一筋の光や希望があるのかもしれない。そうでなければ歳を重ねるということはなんと辛いことか……。
本を読んでいると、今も昔も洋の東西問わず、会ったこともないような人々の生き様や人生やそれらが降り積もった歴史の中に命の兆しや輝きをみつけて感銘を受けます。それも善きにつけ悪しきにつけ人々のもつ記憶というものがあってこそなんでしょう。

神話の舞台やアーサー王伝説を巧く借用しながら、世界の悩める事象を現代版物語に再構築したイシグロの手腕に唸ります。物語の世界に身をゆだねながら、それこそ神話や民話を読むようにすべてを無理に「回収」せず、ある種の「ばらけ感」を楽しんでみてください。深く哀しく切実で、愛に溢れた物語……こんな作品が書けるイシグロさんの今後にも大いに注目したい(^o^)

***
ちょっと余談と備忘かねて追記。
この物語には山査子(さんざし)の木がよく出てきて私の興味をかきたてていました。冒頭あたりの村の情景では、

「村人の言う「棘の木」とは、誰もが知っている山査子の古木のことだ。村から歩いてすぐのところの山腹に大きな出っ張りがあり、その縁にある岩から直接生えているように見える」

まるで本のカバー絵の木のようですね。
また、著者の優しさや切なさが行間やページ全体から匂い立つようなシーンが数々ありますが、このシーンもその一つ……死にゆく竜のねぐら。

「この巣穴で竜以外の唯一の命あるもの、あの山査子が、竜にとって大きな慰めになっているのではなかろうか、ということだ。いまも、竜はその心の眼でこの山査子を見、手を伸ばしているのではなかろうか。愚にもつかない空想であることはわかっていたが、竜を見ていればいるほど、ありうる話のように思えてきた。なぜなら、こんな場所で山査子が一本だけ育つなどということに、ほかにどんな説明がつくだろう。竜の孤独を慰めるものとして、マーリンその人がこの山査子の成長を許したのではなかろうか」

ちなみに、山査子の花言葉は「希望」「ただ一つの恋」「成功を待つ」だそうです。

レビュー投稿日
2018年2月4日
本棚登録日
2018年1月31日
3
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