最初観たときは、完全に”作り手”の話だと思った。戦闘機大好きだけど戦争には反対、という宮崎監督の葛藤のうちに生まれた「自分が好きでやってるんだ」という強烈な自覚が、逆ギレのように表れた作品だと…。
しかし鑑賞後に、この映画がほとんどフィクションであり、実際の堀越二郎は妻を亡くしたりしていなかったことを知り、これは”作られる側”についての物語でもあるのではないかという気がしてきた。”カプローニさんの妄想をする二郎>そんな二郎の妄想をする宮崎監督”という、重なった構造が見えてきたからだ。
二郎が自分の勝手さを、「カプローニさんが”美しい夢”だと言っていたから」という風に心の中のカプローニさんから許されているのと同じように、宮崎監督は、心の二郎をドラマチックに描くことで、「戦争のことなのに、楽しそうに描いてごめん」という罪の意識から解放されようとしているのではないか。
こう考えたときチラつくのが、そんな宮崎駿を思い描く、後世の存在である。まだ亡くなっていないとはいえ、巨匠として、十分妄想される側の人間である宮崎監督が、妄想する側として最期に作った作品がこれ、ということなのではないだろうか。すると、自ら姿を隠し、”美しい夢”の住人となった菜穂子とも、重なるのだ。
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- 感想投稿日 : 2014年6月7日
- 読了日 : -
- 本棚登録日 : 2014年6月7日
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