設定が面白くて、どんどん読み進めてしまった。ただ奇をてらっただけではなく、愛の形に可能性を探るため、実験的にあつらえたシチュエーションのようだった。
 発表当初は評価が分かれたそうだが、「主人公の房恵(ふさえ)に感情移入しづらい」という意見があったのではないだろうか。作中には他に朱尾(あけお)という、狂言回し的な役割のキャラクターが居る。彼もまた理解し難い趣味を持っており、人間味に欠ける…というか、人間なのかどうかすらあやふやである。しかし、天から巨大な手を伸ばすように房恵の状況を変えてしまう力や、そうしたときの愉快犯っぽい仕草は、筆者が姿を借りて物語の中に現れたかのようで、わたしはときどき彼の目線から一緒に他の登場人物達を観察している気分になった。

そんな朱尾が”狼”というペルソナを持っていることは、意味ありげで興味深い。第2章からは、彼の主人公に対する態度が豹変する。急に見下し始めたわりには、「わたしは房恵さんの下僕ですね」なんて言ってた頃より、さらに甲斐甲斐しく世話を焼くようになる。浮世離れしたところは相変わらずなのだが、柄にもなく親身になっているようなのが、なんとも滑稽で、微笑ましく、主人公を応援する身としては心強くも思えた。房恵の魂を手に入れたも同然ということで、所有物への責任感が芽生えたのだろうか。それとも、狼だから、犬になった彼女へ、同属としての情を抱いているのか。

この作品では、犬と人間の関係が、人間同士の関係との対比で語られている。言葉を解する人間と比べ、犬とは一見分かり合うことが難しいように思えるが、その実、偏見や都合の良い曲解で分かったつもりになることが無いぶん、直に向き合えるとも考えられる。

 わたしにこの作品を薦めてくれた友人は、性同一性障害(あるいは房恵が自称する”種同一性障害”)について、「自分が何者なのかというよりむしろ誰にどう愛されたいかという、願望に依るところもあるのかも」と言っていた。自分の種や性別に不満は無くても、他人が持つ自分への印象と、自分が認識する自己との間にギャップを感じた経験を持つ方は、沢山居らっしゃるのではないだろうか。嫌われたときはもちろん、好きになってもらえたときでも、勘違いされていたら素直には喜べない。

 房恵は犬を無条件で愛している。犬に仲間として認められたいと願っている。その気持ちは、梓(あずさ)という、同じように犬を愛する人物との出会いで、彼女から犬として愛されたい、という気持ちにシフトしていく。要するに、あまりにも一途に犬を愛しているので、愛される犬が羨ましくなってきたのではないか。

 犬の体を手に入れた房恵は、飼い主となった梓に、偶然にも”フサ”と名付けられ、理想の愛され方を享受する。しかし、人間のままでは決して立ち入らなかったであろう私的な生活の中で、梓が、一番身近な人間からの無理解に苦しんでいたことを知る。梓が受けた暴力は勝手な解釈で正当化され、保護者たるべき存在は加害者の言葉を妄信する。弱り果てる梓を目にし、フサも心を痛める。

 このような事態が予測されていなかったわけではない。まだ人間のころ、房恵は、彼女を犬に変身させようとする朱尾にこう尋ねている。

「梓さんは男運ないみたいだし友達も少ないっていうし、実は幸薄い人かも知れないでしょ。(中略)梓さんのケアをしてくれる?」

朱尾の答えはこうだ。

「それはわたしではなく、あなたの役割でしょう。可愛い犬にしかできないことを徹底的に実践してください」

 後に房恵がしたのは、まさにこの通りだった。愛らしさを振りまき、自らも(性別などとは無関係の)無償の愛で応える。人間だったころ、房恵自身が犬にされて嬉しかったことである。

 物語はハッピーエンドを迎える。だが問題...

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2014年6月2日

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読書状況 読み終わった [2014年6月2日]
カテゴリ 小説
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