「時代や国を異にする人々の文章を精読することにより、その人々の感受性の内部に柔軟にしのびこみ、過去を見る際に歴史の証人ともいうべきこれらの人々の肉眼を借りて歴史をありしがままに見るようにつとめたからである。」

歴史、歴史の読み方、それを読む意味をしなやかな言葉で語ってくれる一冊。
歴史が繰り返しているように見えた時に、「やはり歴史の勉強が足りなかったか」と感嘆する。

2021年3月9日

読書状況 いま読んでる

近代についても、ホロコーストについても、画期的な一冊である。

「近代」の本質は、「効率」への追求だと言える。それによって、人間同士が接し合う経験が分業や様々な括りで間接になっていく。自らの動きの端末に、どのような人がその影響をどう受けているのかを想像できなくなる。そういう意味では、ホロコーストの発生は、偶然ではなく、近代そのものを反映している。

今の私たちは、近代化を進めようとしているのか、それとも近代化を止めることができなくなっているのか。

2021年3月8日

読書状況 読み終わった [2021年3月8日]
カテゴリ 開発とモダン

開発経済学の風景を変えた学者、セン。彼の思想的資源の一つとしてのインド。
この本を読むと、西洋に遭遇した国の反応の類似性に驚く。西洋との付き合い方を考えさせられる。

2021年3月8日

読書状況 いま読んでる
カテゴリ 開発と国家

バーリン、評論の天才で、素晴らしい現実感覚の持ち主。
彼の知恵は、自分の中にある複数のアイデンティティと共生している中で生まれたことかもしれません。

このエッセイ集は、全部のエッセイが面白い。
ただ、一番感動したのは、タゴールに対するバーリンの言葉だ。民族主義の波乱に負けず、一番困難な「中道」をただただ取り戻そうとしているタゴールについて、バーリンが言ったこの言葉だ:

“India has heard such voice, Tagore understood this, paid tribute to it, and resisted it.”

タゴールの偉大さと、それがわかっているバーリンの素晴らしさに深く感心する。

2021年3月8日

カテゴリ 思考力系

あなたにとってのあるべき開発とは何か。
作者にとって、「開発とは人々の間における権力のより平等な分配」であるべきだ。
「べき論」に飽きることは成熟のはじまりだが、「べき論」に戻ることは、一種の達観かもしれない。

2021年3月8日

「お互にわかり合えていないことを前提に」コミュニケーションをする。
フィールドワークに限らず、日常生活にも通用する常識である。

2021年3月8日

読書状況 読み終わった [2021年3月8日]

チベット地域に住んでいた時の風景を思い出し、泣きながら読んだ本だった。

「文化を崩壊へと導いていく圧力は数多く、その形はさまざまである。だがそういった圧力の中で、もっとも大きな問題は、進行する開発の真っただ中にいるために、広い視野から何が自分たちに起きているのかという全体像を見ようとせず、または見ることができなくなつてしまっているというつ事実である。」

全体を見えないのは、人類の宿命であろうか。

2021年3月8日

読書状況 読み終わった [2021年3月8日]
カテゴリ 開発とモダン

古典をなぜ、どう読むか。

作者はこういう。古典とは「時代を超えて『肉声』」であり、 「この圧倒的なエネルギーを浴び、心身の奥にそのエネルギーを落積することが古典を読む大切な意義だ」。「強引にでも経験に引きつけ古典との距離を踏み越え」、「我田引水」のように古典と付き合うのは大切だという。

相変わらず、わかりやすくて情熱的な文章。さすが斎藤孝先生。

2021年2月22日

読書状況 読み終わった [2021年2月22日]
カテゴリ 読書

「売れない学術書」を書く技法についての、京大出版会の説明。研究史の取り扱いや書き方についての助言は腑に落ちた:

「1自分の研究の 「売り」(視点や方法論の特徴,意義)を説得的、明示的に示すために先行研究との違いを際立たせるように記述する。
  2 研究の大きな枠組を示すために,必要な範囲でグランドセオリー(広く適用可能な一般的理論)を紹介する。
 3 領域独自の細かな研究史は、読者が読みとばしてもよいよ刃こ工夫する。」

読者目線で作者に助言する貴重な一冊。

2021年2月22日

読書状況 読み終わった [2021年2月22日]
カテゴリ 読書

日本の毎年の新刊書籍量は7万冊を超える。しかし、読書の現状は悲惨だ。

4割以上の日本大学生が、読書しない(<1min/month);
2000年以降、読書法・読書術(多読・速読)が著しく増加し、「わかりやすさ」が強く求められる→知識の情報化;
98%の人文学・芸術学の論文、74.2%の社会科学の論文が引用されない(SCI,SSCI,ACCI)→知識が量的に評価される;


どのような本をいかに読むか?読書にとどまらず、現代における「知識」の本質を捉え直すための一冊となる。

2021年2月22日

読書状況 読み終わった [2021年2月22日]
カテゴリ 読書

読書に関する名著。異なる種類の本とどう付き合うかについて詳しく解説。
先行研究レビューとは、様々なお客さんを自分が用意した宴会に参加してもらうこと。面白い比喩で頭がスッキリ。

2021年2月22日

読書状況 読み終わった [2021年2月22日]
カテゴリ 読書

毎月300冊以上の本に目を通している、読書の鉄人。

「筆者が原稿を書く場合、まず冒頭を書き、その後 末尾をどうするか徹底的に考える。そして末尾の文章が思い浮かぶと、途中の文章はすでに頭の中で出来上がっているので、それをキーボードにたたいて活字にするのが主な作業になる。…原稿に行き詰まったときは、思い切ってその原稿を書く作業を中断する。そして、外国語か数学の練習問題を解くようにする。」

2021年2月22日

読書状況 読み終わった [2021年2月22日]
カテゴリ 読書

読むという行為を考え直そう。

「われわれには他人に向けた真実より、自分自身にとっての真実のほうが大事である。後者は、教養人に見られたいという欲求ーーわれわれの内面を圧迫し、われわれが自分らしくあることを妨げる欲求から解放された者だけが接近できるのである。」

「読んでいない本について語ることはまぎれもない創造の活動なのである」。

2021年2月22日

読書状況 読み終わった [2021年2月22日]
カテゴリ 読書

テキストへの視線の豊かさと可能性を教えてくれる一冊。

社会科学にも大きな影響を与えている脱構造主義の視点は、文学評論では具体的にどう活かされているのかを教えてくれる。脱構造批評とは、「テクストとは論理的に統一されたものではなく、不一致や矛盾を含んだものだということを明らかにするための批評」だというのである。

2021年1月30日

読書状況 読み終わった [2021年2月22日]
カテゴリ 思考力系

開発と科学、創る者と創られる者の関係を考える一冊。
200年前の19歳の少女が書いた本と想像し難いほど、余韻がある。

印象深い一文:「私の教訓はともかく、せめて私の実例を見て、学んでいただきたい。知識を得るのがいかに危険なことが、そして、自分の故郷が全世界だと思っているような人間のほうが、自分の本性が許す以上のものになりたいと憧れる人間よりも、どれだけ幸せかということを」。

2021年1月30日

読書状況 読み終わった [2021年2月22日]
カテゴリ 小説

1990年代、チェコ出身のクンデラは中国に紹介されはじめ、一時的に中国の「文青」の絶賛を博していた。「文青」とは、「文芸青年」の略語で、生活にゆとりが出て、一般大衆とやや異なる趣味や生活志向を求める人たち(良くいえば「深い」、悪くいえば「わざとらしい」人たち)のことを指す。哲学的思考、性的場面の描写や分析的な書き方を特徴とするクンデラの文章が、「文青」に愛されるのは想像し難しくない。クンデラの代表作の『存在の耐えられない軽さ』は、ニーチェの虚無主義をめぐる議論を再燃し、「人間は考え、神は笑う」というユダヤ諺も、クンデラの『小説の技法』を通して中国で流行っていた。

私が初めてクンデラのを読んだのは、彼の小説そのものではなく、ある韓国の学者の引用だった。クンデラが「速度」を通して「技術」と「私」の関係を描いた文章であった。

「緩やかさと記憶、速さと忘却のあいだには、ひそかな関係がある。ある男が道を歩いているという、これ以上ないほど平凡な状態を想起してみよう。突然、彼は何かを思い出しそうとするが、思い出せない。その時、彼は機嫌的に足取りを緩める。逆に、経験したばかりの辛い事故を忘れようとするものは、時間的にはまだあまりにも近すぎるものから急いで遠ざかりたいとでもいうように、知らぬ間に歩調を速める。」
ミラン・クンデラ、西永良成訳(1995)『緩やかさ』集英社、p50

韓国の学者はクンデラを引用しながら、韓国社会の変化はなぜそれほど早く、しかも止められなかったかを考えていた。人間は、過去の苦痛を忘れるために、社会の素早い変化を求めようとしたのではないか。逆に、社会変化が早ければ早いほど、そこにいる人間はこれまで自分と離れていくのではないか、と。当時の私はそれを読んで、クンデラを文学と現実の境で踊っている巨人に見えた。

『生は彼方に』は、ある詩人の短い人生を描いたもので、ざっクンデラを感じてもらう一冊である。題名通り、この本における人間は、自分が生きている此方を否定しようとし、「ならなかった自分」や「なったかもしれない自分」という想像こそを「本当の生活」とする、つまりほかの生活を仰ぎ望いで今を過ごしている存在として描かれた。この本の背景には、20世紀におけるチェコスロバキアの社会変動がある。しかしクンデラは、それを「〇〇主義」、「〇〇運動」の名を借りて語っていたわけではない。詩人の一生を通して、個人の運命は、どのように社会、家庭、政治、思想、主義などいった抽象的な言葉に具体的な意味をつけたかを描いた。歴史に対する文学の笑いといえる。

本書を勧めた理由はここにある。開発や国際協力の教科書を開いてみればわかるように、世界に生活している人々は様々な援助・開発アクターに分類され、社会を動かす様々な政治・経済はそこに登場する。こうした大きな物語を聴き慣れていくと、ごく普通な人の微細な現実を感じ取れなくなる(そして、この力の乏しさは、専門家や理論家の、理性が溢れた言説や科学的根拠に編み直された嘘を維持し続けている)。クンデラは、人間が過ごした1秒1秒の中の、あまりにも見逃されやすいキッチュ、矛盾、自己合理化、狡知、不条理をそのまま書き留めた。それは、人間を人間として普通に感じ取るための教材であり、開発を勉強する若者を自らの滑稽な姿を向かわせる力を持っている。

(東京大学大学院新領域創成科学研究科 博士課程 汪)

2020年4月15日

読書状況 読み終わった [2020年4月15日]
カテゴリ 小説

世界の動きをゲームに例えてみれば、何を思い浮かぶか。
哲学者のJames Carseによると、人間社会のゲームは、「有限のゲーム」と「無限のゲーム」という2つの種類がある。
「有限のゲーム」は、ゲームの参加者から優勝者を出すことが目的であり、そのためゲームのルールを変えてはいけない。「無限のゲーム」は、ゲームを継続させることを目的としており、人々が参加し続けてもらうことは重要である。そのため、「無限のゲーム」の参加者が認めてくれるように、ゲームが進んでいる中でルールを変えたり調整したりしなければならない。「有限のゲーム」は、決められた境界線の中で行われているのに対して、「無限のゲーム」は境界線自体が遊びの対象だ。
社会、演劇、自然、性行為、神話…。 Carseは2つのゲームの違いを様々な場面からひもとき、「有限のゲーム」の内なる矛盾を指摘してきた(例えば、「有限のゲーム」が存在する目的は、ゲームの終結に導く)。それを踏まえて、人間社会におけるゲーム感覚の大転換を呼びかけていた。

本書をはじめて読んだ時に、「何回も読み直すべき本だなあ」と思った。今日の世界はまさにCarseがいう「有限のゲーム」のロジックに縛られており、それ以外の発想はできなくなっていると感じたからである。「無限のゲーム」に関して、ルネッサンスはその一例と考える。「ルネッサンスとは1つの時期ではなく、1つの人間の集まりである。その集まりには、境界線がない。したがって、敵もいない。ルネッサンスは誰かと抵抗しようとしない。たとえあなたがその集まりの中にいる人でなくても、ルネッサンスを反対することができない。ルネッサンスはただ1つの「誘い」だから。その集まりに入ってもらうとする誘いだ」(第47節)。Carseはこういう。

短い一冊ですが、「有限のゲーム」のルールに巻き込まれている国際開発を考え直すヒントがたくさんあった。

(東京大学大学院新領域創成科学研究科 博士課程 汪)

2020年4月2日

読書状況 読み終わった [2021年2月22日]

Scottの関心の種のほとんどは、この本から読み取ることができる。第9章の知の違いの議論は、個人的に好きだった。
響きのある一文:“ Every general knowledge that is actually applied, then, requires some imaginative translation. ”

2021年1月30日

「国を守るために悪事を行わざるをえないときは、非難されてもひるんではいけない。あらゆることを考え合わせてみると、美徳と見えた物が実際は命取りになったり、悪徳と見えた物が安全と繁栄につながったりするからだ」ーー『君主論』

マキャヴェッリの『君主論』は無数の名言を世に残った一方、その批判も数え切れない。「マキャヴェリアニズム」という言葉すら存在しているように、マキャヴェッリの言論は、統治のために大衆を操作し、道徳的な関心を持たない政治思想の代名詞ともなっている。こうした先入観を持っていた私は、次の言葉を読んだ時に驚いた。「窮屈。死。恐れることはない。私は古人に魅了された」。40歳の頃に、やむを得ず隠遁生活を過ごしていたマキャヴェッリが言う。その言葉は、私が『君主論』、そしてそれを書いたマキャヴェッリが置かれた時代背景をもう一回読み直すきっかけとなった。先人の知的蓄積を人生のエネルギーの源にしていた彼は、決して冷酷非道な人ではないと考えたからである。

メディチ家はどのような時代背景の中で登場したか。マキャヴェッリの時代の「大衆」はどのようなものなのか。彼が話しかけている「君主」とは誰か。『君主論』の背景を調べてみれば、解説の本や文章はたくさんある。マキャヴェッリがそれを書いた動機に対しても様々な分析が行われてきた。それらの説明を省略して、『君主論』と開発について2つの側面から考えていきたい。

1つ目は、開発のメカニズムを誰の立場から解明すべきかである。人類学的な調査で一般大衆の「声なき声」を描き出すのは、一種の研究者の「正義」といえる。しかしそれと同時に、弱者が自分の戦略がばれてしまったことで被害を受ける可能性も高い。それに対して、マキャヴェッリは一見民衆を操作する技法を書いたものの、実は権力側の働きかけや操作の解明ともなっている。結果的に、民衆が権力者の技を看破し、その統治から脱出するに役立つのではないかと考える。知を武器にする研究者の矛先に、実は意図せざる相手が立っている。

第2に、開発援助の「脱道徳化」は可能か、必要かどうかである。世界中の開発援助、なかでも村レベルのボランティア活動などは「善意」のもとで行なわれているように見える。「活動経験の共有」や「教訓」などの言葉は多く聞くが、プロジェクトを成功させるために、どのように「相手を上手く操作するか」に関する議論はあまりない。例えば、ラオス政府を動かすためにどのようにプレッシャーをかけたら効果あるか、のような経験を必要とする援助側が多いかと思うが、どこか耳ざわりが悪いと感じる。道徳感覚は、結果的に開発援助の「失敗」につながると言いたいわけではないが、それを議論できる空間が存在すべきではないかと考える。

振り返ってみて、15世紀頃のフィレンツェに、人類の星の時間がながれていた。後世に政治学の父と呼ばれているマキャヴェッリは、そのながれの中で輝いている知的巨人であることは間違いない。

(東京大学大学院新領域創成科学研究科 博士課程 汪牧耘)

2020年3月23日

読書状況 読み終わった [2021年2月22日]
カテゴリ 開発と善意

人の素質の中で、どのような素質が、どういう条件の下で変化するのか。変化していく方向とは何か。本書は、伝統的個人が近代的個人になっていくメカニズムを社会学の方法で明らかにする試みである。筆者らは、ある国の特殊性を乗り越えて普遍性のある結論を得るため、ナイジェリア、インド、バングラデシュ、イスラエル、アルゼンチン、チリ、という6つの「発展途上国」を対象にアンケート調査を行った。

本書を読んで印象的点は2つがある。1つ目は、研究方法に対する詳細な記述である。研究の枠組み、アンケート調査の質問項目、相関関数の分析、ありうる反論へのディフェンスなど細かく説明されている。社会学の研究方法、中でもアンケート調査は実際にどのように使われているかを学びたい人におすすめである。

2つ目は、多くの研究では、近代化を経済発展や産業振興として論じてきたのに対して、本書は人間の素質に着目した。興味深いことに、筆者らが12の側面から近代的個人を定義付けた。例えば、新しい経験や変化に積極的であること、計画性、地位の低い人への尊重、自分の意見を持ち、かつその意見を支えるための情報を収集する能力、などがある。それらの素質の形成と調査協力者の生活環境とどのような関係があるか、さらにそれらの素質(=ある物事への態度)はどれほど調査協力者の行為に反映されているか。こうした問いかけをもとに、近代的個人の形成を「客観的に」解明するアンケートが作成された。

全書を通して、筆者は、近代的個人を近代化の結果や副産物ではなく、近代化の必要条件として指摘した。個人の近代化を促す環境は、学校、工場などがある。したがって、都市化は必ずしも人の文化や道徳を壊すわけではなく、個人の近代的な素質を洗練する場として非常に有効である。他方で、農村部で生活している人であっても、十分な教育機会や働く環境が揃えていれば、近代的個人になり得るという。

近代化と深く関わる開発という行為を考えるときに、本書が示したように「近代的な場所と人の連動」に着目することが重要ではないかと考える。

(東京大学大学院新領域創成科学研究科 博士課程 汪牧耘)

2020年3月22日

読書状況 読み終わった [2021年2月22日]
カテゴリ 開発とモダン

(日本語訳:『ハマータウンの野郎ども―学校への反抗・労働への順応』1985年)

本書は、イギリスの人類学者Willisによって書かれた民族誌の名著である。主人公は、1970年代のイギリスにある工業エリアの野郎ども(The lads)と呼ばれる男の子たちである。Willisは、文化を集団的実践と定義した上、学校における野郎どもの反学校文化(Anti-school culture)がいかに工場労働者の階層の再生産につながったのかを考察した。

ほかの民族誌と同じように、本書においても貶されていた人びとの行動を解釈することを試みた。すなわち、野郎どもが学校教育を反抗していたのは、学位は彼らの未来を担保できないだけではない。教育や知識を通して未来を勝ち取るために、彼らが自らの時間、行動や独立性などを犠牲しなければならないと見抜いたからである。実は、野郎どもの反学校文化は、工場労働者が属している階級の文化との類似点が多くあった。彼らの学校文化への厳しい洞察は、ここまでの工場労働者の経験やそれに求めらている性格に基づくものであり、社会の形を(再)生産している。つまり、野郎どもは、薄々感じている自らの将来的可能性をもとに、今の生き方を決めたようにもいえる。それを踏まえて、Willisは労働力が労働者の文化に依存していると指摘した。このような意味において、文化の生産は、物理的な生産と等しい。

本書の面白さは、野郎どもの能動的側面を描くという人類学者の正義感にとどまらないことにある。それは、野郎どもの能動性に限界がある結果、彼らは皮肉にも自ら抵抗しようする社会構造の維持者になっている、という指摘である。結局、労働者は強い意志と独自の見解を持ち、たくましく生きているものの、国家や制度の変化に左右されやすい。

そのほか、興味深い考察が本書の中に散りばめている:
・合理的な目標があってから人が努力したのではなく、人が(やむをえず)努力した結果、ある目標設定が合理化されたのである。
・教育事業の目的や計画の設計が「優れている」ため、すべての失敗は教育を受ける側のせいに見えるようになった。
・資本主義の自由とは、潜在的で真の自由であるにせよ、その自由を支えているのは下層階級の存在である。抑圧は確かに存在している。しかし、それはあくまでも人間がおかれた環境の中で偶然に現れることの一部に過ぎない。本当の罠は、資本主義ではなく、人間の本性にある。資本主義は、あくまでも自由の獲得を「不確定性」にかけている。


開発における他者、開発における自分の姿を見直す良い一冊である。


(東京大学大学院新領域創成科学研究科 博士課程 汪牧耘)

2020年2月23日

読書状況 読み終わった [2020年2月23日]
カテゴリ 開発と教育
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歴史を様々な出来事の集合として考える場合、どの出来事は重要だといえるか。注目すべき活動、社会構造や文化様式をどのように選び出すべきか。ある地域の現在における開発と、その過去の経験を結び付けようとする時に、私はこのように疑問を感じたことは少なくない。

本書は、それらの疑問を考えるヒントを与えてくれる。作者のSewellは、歴史学・社会学・人類学などといった多くの分野を横断し議論を行った研究者として知られる。Sewellは本来、計量的アプローチで歴史を研究していた実証主義者だったが、その後に解釈的文化史・社会史の研究に重きをおくようになった。本書においてSewellは、いかに歴史学と社会学の知見をいかして、人間社会の変化のメカニズムを深く理解できるかを答えようとした。そのために、時間の流れを描き出す歴史学と、構造を解明する社会学の対話可能性を、抽象的な議論と具体な描写を合わせて編み上げた。

本書を読んで印象深かったことは2点ある。1目は、構造(structure)との関係から、事件(event)を洗い出すという方法である。事件と構造は常に対立したもののように語られている。すなわち、事件は偶発的なものであるのに対して、構造は連続的なものである。一方で、歴史学における事件とは、既存の社会構造を変える重要な出来事と定義する。Sewellは、事件/非事件の判断基準は、その時の社会構造への解釈に依存していると指摘した。

2目は、計量データの解釈的側面に問いかけ、歴史認識を深めることである。Sewellは、計量的データを実体化する傾向を批判する。何をどのカテゴリーのデータとして計るかは、実は解釈に基づくものだからである。こうした「計り方」自体は、計った結果よりも、社会に存在していた価値観や構造を教えてくれる。

開発研究は、ある現象を解明するために学際的なアプローチを取り入れることは特徴である。そのゆえに、方法論・認識論的な一貫性に戸惑いが生じやすい。その際に、一見して異なる方法論・認識論に基づく分野の学知を根底から結びなおそうとしたSewellの工夫は、非常に参考になると考える。

(東京大学大学院新領域創成科学研究科 博士課程 汪牧耘)

2020年2月9日

読書状況 読み終わった [2020年2月9日]
カテゴリ 開発と歴史

 私が考える理想の研究者とは、人類がこれまで歩んできた歴史とともに、現在の社会を見つめ、少し先の未来までをも見ようとする「優しい研究者」です。
 「持続可能な開発(SDGs)」という概念が近年注目されていますが、「持続可能な開発」とは、おそらく「次世代を見ようとする努力そのもの」なのではないかと考えています。持続可能な開発とは、言い換えれば、次世代まで継続して豊かな社会を築くことです。そのため、これまでの歴史を振り返りながら、今起こる現象を読み解き、次世代まで豊かな社会を築くには何が必要かを問う姿勢が重要なのです。
 しかし、これから起こりうる未来を想像することはそう簡単なことではありません。そこでお勧めしたいのが『未来を読む‐AIと格差は世界を滅ぼすのか』です。この本には、『銃・病原菌・鉄』の本で有名なジャレド・ダイアモンド氏や『サピエンス全史』の著者であるユヴァル・ノア・ハラリ氏など、名立たる知の巨人たちが予想する未来が分かりやすく書かれています。そして、歴史や現在を紐解くことで浮彫となる、次世代まで豊かな社会を築くための重要なヒントやモチーフが、この本のあらゆるところに散りばめられています。
 例えば、ダイアモンド氏は、最先端のテクノロジーが普及していく社会だからこそ、「伝統的社会」の叡智に着目することの重要性を説いています。なぜかという点は、実際に本を手に取って読んでみてください。この他にも、次世代まで豊かな社会を築くために重要となるヒントがたくさん隠されています。特に開発について研究をする人たちには非常に有益となる本となるでしょう。
 次世代まで豊かな社会を想像(創造)できる「優しい研究者」が増えることを、切に願うとともに、私自身もそういった研究者になれるよう日々努力をしていきたいと思っています。(名古屋大学大学院国際開発研究科 博士課程 綿貫竜史)

2020年1月31日

動と静の二元対立を超えて、現実を現実のままに認識し理解することは可能であろうか。作者は問いかけた。そしてその問いを解ける鍵は、中国の「勢」の概念にあるという。

政治思想、詩、画、書道、小説……作者は様々の分野を横断して、歴史的に駁雑な意味や使い方を持ってきた「勢」に共通している概念の軸を描こうとした。中国の行動原理は何であろうか。中国人に馴染んでいた現実・歴史感覚とは何か。中国と西洋の考え方に、どのような「重要な差異」があるのか。こうした疑問を感じた方は、ぜひ本書をご一読いただければと思います。

本書と「開発」と関連するところは、開発援助のアクターとしての中国を理解することだけにあるわけではない。中国の哲学・美学から示された、目的論や因果律から切り離された説明原理は、本書のみそであり、我々に現実を捉える視点を与えてくれる。すなわち、「実在するのは、これまでも、そしてこれからも、作動する相互作用だけであって、現実はそのたえざるプロセスにほかならない」のである。そして、それに根付いているのは、「働いている勢いに沿うことで、それに運ばれながらも、勢いを自分のために働かせる」という中国的な実践理性であり、順応主義である。

本書をはじめて読んだ時、すぐにハーシュマンの可能性主義や、ブルデューの実践理論を思い出した。西洋思想の根底にある二元対立を様々な角度から問い直すことは、学問の世界における一種の「勢」でもあり、現実に近づくための一方法論ともいえよう。

(東京大学大学院新領域創成科学研究科 博士課程 汪牧耘)

2020年1月27日

読書状況 読み終わった [2020年1月27日]
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