開国のかたち (岩波現代文庫 社会 172)

著者 :
  • 岩波書店 (2008年9月17日発売)
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感想 : 3

☆1(付箋5枚/P380→割合1.32%)

この著者二冊目ですが、テーマが一般的だったからかとても分かりやすかった。
西郷は文明観を持っていて、西郷が好きだという人はそれに共鳴する人だったのか。道理でどういう人だかさっぱり分からんかった。
 
・もともと、象山はアメリカが法の国であると考えていた。イギリスがインドや中国でやったように、あるいはフランスがベトナムでやったように、「干戈」に訴えて他人の国を奪ってしまうようなことを、アメリカはやっていない、という事実を知っている。にもかかわらず、と象山はいう。
―にもかかわらず、六年まえにペリーを使節として派遣したさいには、たくさんの軍艦、大砲を用意して、いわば砲艦外交をしたのはなぜか。のみならず、「和睦合図の白旗」などを送ってくる「無礼」もした。あのとき、幕府が戦争をはじめようとすれば、結果として人民が苦しんだのだ。それを思えばこそ、幕府は「寛容」の途をえらんで、いま両国の間に平和が保たれているのだ。いったい、アメリカはあのときのみ、いつものならわしを失って「干戈」に訴えようとしたのか、それが不審の一つとして残っている、と。
象山は、そのような不審を問いただせば、アメリカはきっと返答に困って、公使の江戸駐在などをいいださなくなるだろう、と幕府に提案しているのである。

・ちなみに、徳川時代の大藩の藩庁所在地で、現在県庁がおかれていないところは、ほとんどが、明治維新のとき賊軍とみなされた県である。会津藩二十三万石の会津若松は、福島藩三万石の福島に県庁をうばわれ、長岡藩七万四千石は、藩の商港にすぎなかった新潟にとってかわられた。
こういった県庁の移動は、明治新政府による賊軍への懲罰措置であるが、それは現在にも大きく尾をひいている。たとえば、会津にはこのあいだまで、国立大学はもちろん、四年制大学さえ許可されなかった。まえに会った元会津若松市長は、会津周辺人口は四十万にもなるのに、女子短大が一つ許可されているだけですよ、福島大学、福島医大などをもつ福島とは雲泥の差です、と嘆いていたほどだ。

・西郷隆盛は、革命家としていえば吉田松陰、政治家としていえば勝海舟、国家戦略家としていえば佐久間象山、思想家としていえば藤田東湖、行動者としていえば坂本龍馬、国家建設者としていえば大久保利通、そのいずれにも及ばない。しかし、かれはそれら一切の中心にある錘しである。そして、かれをその錘したらしめているのが、幕末という時間のなかで磨かれたかれ独自の文明観なのである。
 人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽し、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。
これは言葉であって、言葉でない。西郷という人格のなかにあらわれた「文明」のかたちなのである。

・高杉は「国民軍」などという呼称はまだ使っていないが、中国の清朝軍がまったく国土防衛の役にたっていないこと、これに対して、アジアに進出してきている欧米の軍隊の強さ、志気、技術の高さなどは何に由来するのか、と思いをこらしていたはずである。
たとえば、高杉は上海行への待機中の長崎で、崇福寺に滞在していたアメリカ人宣教師(ムリヤムス)と、次のような会話を交わしている(支那五録)。
 高杉 日本は士官と土民とに階級がわかれているが、貴国はどうか。
 ムリヤムス アメリカでは士と民とがわかれるということはない。国王(大統領)となっても、また土民に変えるものがおり、逆に土民から国王になるものもいる。合衆国の元祖ワシントンもはじめは土民であり、ついに大統領となり、のちまた土民に帰り、後年また再選された。これはほんの手近な証拠である。とにかく、士官と土民が区別されることはないのである。
この「士」と「民」をめぐる高杉の関心は、大きくいえばそのような身分制度をとっている封建国家と、すべてが国民として平等の権利と義務をもつ国民国家とのちがい、に及んでゆくはずである。そして、この関心は、上海で封建軍隊の清朝軍が、農民からの新募集による兵―のちに「新軍」とよばれる―を導入しつつも、農民の革命軍である長髪賊(太平天国)の圧力に抗しきれずに、外国軍隊の力をかりて鎮圧にのりだしている事実を知るに及んで、かれの身分制度をこえた社会全体からの軍隊構想へとむすびついてゆくのである。

・フランスの外交は、当時、幕府に対する軍事的援助に重心があった。鳥羽・伏見の戦いで敗けたあと、大阪から海路逃走した将軍慶喜に対して、フランス公使のレオン・ロッシュは抗戦をすすめたほどである。慶喜もその進言に心を動かされた。
しかし、陸軍総裁つまり国防大臣、というより幕府の命運を握っているという意味では臨時首相となっていた勝海舟は、幕府とフランスとの関係を切った。そうしないと、日本がフランスと薩摩の援助をしているイギリスとの代理戦争の場になる、と判断したからである。
海舟の考えでは、まず幕府がフランスとの関係を切る。そうすれば、イギリス公使のパークスは友好的中立の立場をとるだろう、と踏んだのである。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 歴史・民俗
感想投稿日 : 2015年7月8日
読了日 : 2015年7月8日
本棚登録日 : 2015年7月8日

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