シリーズのファンなので。面白かった。
「青条の蘭」が一番好きかな。黄朱(国に属さない山人)の技術と気概が好き。青条の蘭がついに王に届く所を書いて欲しかったけど、陽子が出過ぎてしまうか。「丕緒の鳥」は式典の設定がとても美しい。民の苦しみを伝えたくて、式典を華美にしたくない。でも陰惨にしても伝わらない。最後、たどり着いた表現のモチーフが、素晴らしい。
「落照の獄」は死刑制度を巡る是非について会社の仲間と話して盛り上がった。読み終わるまで自分の中でも答えは出ていなかった。刑法の目的を十二国記の中でどう設定しているかによって答えが異なると思う。教育を目的とするなら死刑は行えないし、報復を目的とするなら、死刑を是とするだろう。終盤になってきちんと法の役割がどう設定されているかに触れてきて、素晴らしいと思った。
曰く―殺人罪には死刑、が理屈でなく反射なのと同様殺人としての死刑に怯むのも理屈ではない反射である。この根源的な反射は互いに表裏を成しており、これこそが法の根幹にある。殺してはならぬ、民を虐げてはならぬと天綱において定められている一方で、刑法に死刑が存在するのは、多分それだからなのだろう。刑法はもとより揺れるものだ。天の布いた摂理そのものがそのようにできている。両者の間で揺れながら、個々の訴えにおいて適正な場所を探るしかないように。
さて会社で死刑制度反対は私一人で、他(5名くらいかな?)は死刑容認であった。うちの奥さんも。どこで一線を引くかは異なるけれど、どこかで一線を越えれば殺すしかないだろう、との意見。税金で終身刑囚を世話すべきなのか。
いや、分かるんですけど、そもそも法律は何をすべきか、社会生活で他に危害を与えることを禁止するものであろうと思うのです。
その敵対が大規模で、国家間の戦争となったり、終身刑囚があまりに多くて養えなければ、殺しても仕方ないと思います。きっと周囲の人を守りたいと思うでしょう。
でもとりあえず、社会における法律は他に危害を与えることを禁じ、守れないものは他に危害を与えられないようにするまでにとどめるべきだと思います。さもないと、どこに線を引くかによるかは異なりますが、道徳上のある一線を越えれば死刑を執行しても良いという選択を行うことになります。
その一線は今は「複数人を悪意をもって殺害し、更生の余地が無い」という所に引かれていますが、お国を守るために勇敢に戦わないとか、キリストを排斥したユダヤ人である、とかにいくらでも引き直せるのではないでしょうか。だから、刑法は道徳上の価値判断をすべきではないと思います。
村上春樹訳の「心臓を貫かれて」で、ゲイリー・ギルモアが自己のパーソナリティを作ったものは何だと思うか、と訊かれた時義父からの虐待でも家庭環境でもなく、”小さい時に学校帰りに遠回りをして山側の道から帰ろうとした。そこで籔にはまってしまい、一晩近く抜け出せなかった。その時に、ああ、世界に自分は一人ぼっちなんだ、と思った。それが自分を形作っている”と語った。
(森晶麿に勧められて読んだ。この衝撃は自分のパラダイムを変えた。)
ジョーゼフ・キャンベルの好きな言葉に「そして、孤独だと思いこんでいたのに、実は全世界がともにあると、知るだろう。」というものがある。この認識とゲイリー・ギルモアの認識と。果たしてその結果を死刑という形で当人に問えるものなのだろうか。
話しが、逸れましたね。思索が発展するのは良い小説です。
- 感想投稿日 : 2013年8月28日
- 読了日 : 2013年8月28日
- 本棚登録日 : 2013年8月28日
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