セラピスト

著者 :
  • 新潮社 (2014年1月31日発売)
3.88
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本棚登録 : 982
感想 : 112
5

☆5(付箋43枚/P345→割合12.46%)

一体カウンセラーとは何をしているのかという著者の疑問から始まった本。そもそも著者にもメンタルでの悩みがあり、かの中井久夫先生に直接カウンセリングを実演してもらいながら(羨ましい!)、カウンセラーの日本の系譜をたどる。
そもそも僕がカウンセラーの本に接したのは河合隼雄からで、日本でカウンセラーが有名になったのも、河合隼雄からだと思う。スイスのユング研究所で直接カウンセリングを学び、箱庭療法を確立して文化庁長官まで務めた人だ。河合隼雄は少し前に亡くなったので、その河合から始まったカウンセリングの技法の実際を周囲の人たちの証言から浮かび上がらせる。
僕は、箱庭も河合も中井久夫も山中康裕も神田橋も読んでいて、この著の中でも生き生きと出てくる。だけど、この最相さんというライターは本当に凄い。河合や中井久夫、山中康裕に神田橋、カウンセラー(精神科医でもあります)本人が書いた人と接する技法の豊饒さはとても深くて味わい深いのだけれど、さらに明快に、カウンセリングとは何かという主題の軸にそってまとめている。というか、そのために集めた資料の膨大さを想像して気が遠くなる。
そこから最相さんが選んだ素材もまたユニークで、著者が直接中井先生に技法を教わっているシーンと、30代で視力を失ったクライアントに箱庭療法を行ったというセッションが圧巻(そのクライアントさんから直接証言を取っている)です。視力を失うと、自己イメージが人の形では無くて膜に包まれた球体のようになるとか。

では、セラピストとは一体何なのか。
僕が思うにそれは、精神的な悩みという考え方のわだかまりを抱えてしまった人がその悩みをもたらす考え方に向き合うことを手助けする人なのです。だから、アドバイスするのではなくて、本気で聞くことが必要なのです。
それはしかし、徐々に分かってきたことでした。特に箱庭療法が奏功することは、当初精神科医達の間で受け入れがたいものだったようです。

“「箱庭療法」は、治療者が見守る中で、クライエントがただ黙々と置いていくだけで、ただそれだけで、他の幾多の方法などより、はるかに立派な成果を上げる。
この治療法が教えたことは、実に大きい。すなわち、「治療者の臨在」の意味の大きさや、「敢えて言語化せずとも、癒されうる」こと、つまり、必ずしも「意識」を通過せずとも、心理療法は成立しうること、言語や意識の代わりに、「イメージ」が治癒にあずかっていることなどを知らしめたのである。”

そのセラピストの技法は本書から触れてほしい。
最後に、セラピスト達の対人の接し方についての言葉を引いておきます。

“僕はね、自分の意見を言うということはめったにないです。大体その人の言いたいことをなんとか僕がよい言葉にしようとしています。その気持ちは強くありますね。
―河合隼雄”

“カウンセリングでの話の内容や筋は、実際は、治療や治癒にはあまり関係がないんです。それよりも、無関係な言葉と言葉の“間”とか、沈黙にどう答えるかとか、イントネーションやスピードが大事なんです。
―山中康裕”


***以下抜粋***
・一番困るのは、ある程度の成功例を背景に恣意的な“解釈”をまき散らす人である。

・クライエントが「やる気が出ません」と訴えた場合、頭部外傷やその後遺症である可能性もあれば、統合失調症やうつ病の可能性もある。食生活の偏りが原因かもしれないし、職場や学校の対人関係がうまくいかないことが影響している可能性もある。手術や薬で改善するはずの人をずるずるとカウンセリングし続けて症状が悪化した場合、責任はカウンセラーにあることはいうまでもない。

・「カウンセリングでの話の内容や筋は、実際は、治療や治癒にはあまり関係がないんです。それよりも、無関係な言葉と言葉の“間”とか、沈黙にどう答えるかとか、イントネーションやスピードが大事なんです。」―山中康裕

・村瀬がスーパーバイザーを務める事例研究会に出席したことがある。発表者は、地域の福祉センターで相談員をしている人で、クライエントはうつ症状に苦しむ40代の女性だった。クライエントに対し、発表者は聞き役に徹している。話し相手ができてほっとしたといってクライエントは笑顔を見せるが、家事や育児の苦労も重なって至高の悪循環が続き、面接を重ねてもなかなか好転しない。私が聞いていても、身の上話に時間を費やすばかりでなかなか進展の見られない単調な面接にくたびれてしまい、この発表者はいったいどこを目指してクライエントに会っているのだろうと疑問に思わざるをえなかった。
このとき、村瀬が指摘したのは、愚痴をただ聞くのではなく、クライエントの言葉を手がかりに、クライエントが現在置かれている立場や望んでいることを理解し、クライエントの現実の生活の中で何ができるのか可能性を探りなさい、ということだった。
たとえば、「自分のことを責めてらっしゃるけど、案外よくやってらっしゃるのではありませんか」といったポジティブな言葉を伝え、クライエントの自尊心を支えていく。人の心にレッテルを張るのではなく、言葉にできない思いを汲み取って相手の心の深層に近づいていく。

・とはいえ、ひたすら共感し、受容するだけではどうにもうまくいかないケースが存在するのもまた事実である。もし、クライエントが親を殺したいという願望を述べたとき、それをそのまま受容できるだろうか。妄想に苦しんでいたら、妄想をそのまま受け入れるのか。あるいは、人生に絶望し、自殺したいといわれたらどうか。沈黙したまま言葉を発しなかった場合はどうすればいいのか。

・(盲目の人のための白杖で歩く)訓練を終えてから、四日市の教会に出かけてみたんです。礼拝を終えた帰り際、玄関で神父が一人ひとり見送っておられました。私も靴を履いて玄関を出ようとしました。すると、神父さんが、お気をつけて、と声をかけてくださった。普通ならば、大丈夫ですか、といわれるところです。大丈夫、の主語はあなた、YOUですね。エスカレーターや会談でも、大丈夫ですか、Are you OK?といいますね。主語がYOUの言葉にいちいち傷ついていたものですから、お気をつけて、Please take care,というYOUのつかない言葉をかけられたことがとても嬉しかったんです。
※32歳で網膜色素変性症を発症。結婚とほぼ同時期だったが離縁される。その後しばらくして失明。

・失明してから、私は自分の体が眉間を中心とする透明な卵の殻の中にいるような気がしていたんです。卵の大きさや形は、その時々で異なります。元気なときはパンと張りがある感じ、疲れているときは少しへこんでクニャッとした感じでしょうか。卵の大きさも周辺の様子や私の体調で大きくなったり小さくなったりします。人と人は一定の距離をあけています。パーソナル・エリアというのでしょうか、その枠を越えて人が入ってくると自然によけます。私の場合も、突然誰かに触れられると怖い。見えない距離があるのです。
(意識して思い出さないと色彩も忘れそうになるそう)

・面接室に入ると、木村はまず、箱庭療法についてどの程度知っているかと伊藤に訊ねた。まったく知らないという返事だったため、目の見えない伊藤が箱庭を作ることについて考えたこと、特に、自分が作った世界を自分の目で見ることができないために悲しい思いをすることにならないか心配していると伝えた。
(他にも治療室に入り、おもちゃを眺めて自然にそれを手に取るような玩具との偶然の出会いが存在しない)
「それでもお引き受けしようと思ったのは、一つには、箱庭は視覚と同時に触角の要素を併せ持つといわれているからです。触角はあなたの分野。砂は箱庭の大事な要素です。砂が表現の主役になることも考えられるし、そこに可能性を見つけることができるかもしれない。お引き受けしたもう一つの理由は、全盲者がどれほど可能性を延ばせるかの実験だといわれたあなたの言葉です。箱庭という素材がその一つの試みになればと思いました。」
木村がそう話すと、伊藤は嬉しそうにうなずいた。

・第四回目の面接で、伊藤は切り立った高い崖に一人の女の子の人形を置いた。眼下には花が咲き乱れ、果実が収穫されている。家から家をつなぐ道がある。緑が豊かで衣食住の足りた世界は、伊藤の憧れである。だが、少女はそこにはいない。崖を下りたいが、行くことができないでいる。バケツを持った農婦が家の前に立ち、こちらを眺めている。
「崖を下りる勇気がないのではなく、盲目の私は永遠に崖の上に一人でいるべきだと思っているんです」
伊藤がそういうと、木村は「行けるよう、道はついているのにねえ」と応じた。

・この間、伊藤は現実の生活での悩みや苦しみを木村に打ち明け、相談していたわけではない。早急な問題解決を目指すのであれば、年単位の時間を必要とする箱庭療法はじれったい。だが、伊藤のように、一度は死を考えるほどの絶壁や人生の大きな転換点に立たされた場合、クライエントが望むのは目の前の悩みや苦しみを取り除くことだけではない。ただ話を聞いてもらうことでもない。伊藤が必要だったのは、自分の人生を自分の力でゼロから紡ぎ直すことだった。
(普通の人はここまで必要としない。本当に。)

・後日、木村の論文に掲載されている伊藤の箱庭の写真をこの本のために提供してもらえるかどうか相談したところ、二人とも快諾してくれた。だがしばらく考えて、写真は使わないことに決めた。伊藤自身が見えない伊藤の箱庭を、どうして第三者が見ていいだろう。写真でわかる玩具の色やデザイン、配置されている場所が、伊藤の心が見ている箱庭と同じである保証はどこにもない。晴眼者が知り得ない色、見えない構図を伊藤は見ているかもしれない。

・ある日、山中は統合失調症の成人患者に「隣にいてもいいだろうか」と声をかけてみた。その患者は「ま、何もしなければいいですが」と答え、「何しに来たんですか」と質問してきた。
「教えてほしいんやけど、病院に入院してて毎日つらいと思うんやけど、本当はこういうことがしたいと思うことがあると思うんだ。それがなになのか、聞いて回ってるんです」
「本当にしたいことをいったら、本当にさせてくれますか」
「それは私個人では簡単に答えられへんけど、ぼくにできることだったら一緒にしたいね」
すると、患者はいった。
「これが自分でやったことだ、といえることがしたいです」

・この研究を通して山中が認識したのは、絵は防衛手段である、ということだった。絵によって、真実が自分に迫るのを防御する。絵があれば、本当の自分を見せずに済むという意味だ。自ら絵を描きたいと願い出た患者たちには、うまいと褒められることへの期待があった。それは、表面的な自己満足である。本当の自分に肉薄し、さらけ出し、そこからもう一度、自分を再構築するという考えをもちにくい。そのため、いつまで経っても治らず、むしろ社会復帰療法で体を動かしことでようやく退院することができたのだった。彼らに対しては、描画は有効ではなかったというのが山中の実感であった。
看護師を困らせてばかりいた第二のターゲット患者たちの退院が早かったのは、山中との個人面接を通して、ネガティブな自分は仮の姿であることを発見したからだった。これからは本当の自分を生きてもいいのだと気づくと目に見えて回復していった。

・三回目の診察のとき、太郎は前回の箱庭にエネルギーを吸い取られてしまったようにしばらくぼうっと突っ立っていた。十分以上してようやく棚に手を伸ばしたかと思うと、ぱらぱらっと家の玩具を四軒だけ置き、あとはもう何もせずに放心したように立っていた。前回の箱庭に衝撃を受けていた山中は、期待のあまり、「箱庭を知りたいんじゃないかなあ」と太郎にいった。すると、そこまで山中の発表を黙って聞いていたカルフが、突然、「何いってるの、山中さん」と口を開いた。
「屋根が、赤い屋根が、一つ出ているじゃない。これ、ものすごく大事よ」
カルフは四件の中の一つの家を指さした。
「この屋根が赤いでしょ。どう思う?」
屋根の色は、灰色、黒、茶色、赤だった。
「感情が出てきたと思わない?彼は三年間ほとんど感情が表出できなかった。じーっと沈黙していて感情の出し方もわからなくなって口無しになっちゃった。それなのに、色が出た。これはすごいサインよ。色に注目してみたらどう?」

・山中が夢を語り終えると、河合はいった。
「壮絶ですな」
「…この人たちは、実に何年も私が関わった方々です。自殺は同時に起こったのではなく、この数年の中でちらほらと…。1人は、何とご自身で作ったピストルで、たった1発の弾丸で頭を打ち抜かれて。1人は、自宅の松の木で首吊り。1人は高いビルから飛び降りて亡くなられました。私の配慮がどこかで足りなかったのだと…」
「何とも言えませんな。あなた方精神科医は、こういう場面に出会わねばならんことが我々よりは多いね」
(こんなに苦しんでいたとは。この山中康裕の著「こころと精神のはざまで」では、完全に消化しているように感じた。
―引用― 読者は、筆者を感傷的でありすぎる、と非難されるであろうか。治療関係とは、ほとんど、恋愛や殺し合いにも似たこころの深さの次元にまで、踏み込むことのある、だから、極めて危険な営みでもあることを、これらの記載から、深く知ってほしい。だからこそ、彼らとの「関係性」を結ぶとき、私は、かたくななまでに、料金や時間や場所を限定するのである。
それ以外の、クライエントとの、現実上での、コミュニケーションは、ただ治療室での、もっぱら絶対聞法のみであり、それ以外はこころのなかでのみ、ファンタジーの中でのみ行われ、かつ、同時に、そこで何がおこっているのか、何が行われているかに、可能な限りしっかりと、気づいていなければならないのである。)

・中沢: たとえば先生が言ったことに対して、クライアントが「違うんです」と反対したときは、どうされるんですか。別のほうから攻めるんですか。
河合: 僕はね、自分の意見を言うということはめったにないです。
中沢: それは、特殊なケースですか。
河合: そうでしょうね。大体その人の言いたいことをなんとか僕がよい言葉にしようとしています。その気持ちは強くありますね。

・河合の分析を通じて山中が得心したのは、ユングやフロイトがいったように、夢は人間の無意識に至る王道であること、自分の無意識から生まれる内容を慎重かつ丁寧に観察し、それによって自分の生き方を決めること、そして、心理臨床の営みの目的は悩みを取り去ることではなく、悩みを悩むことであるということだった。

・「箱庭療法」は、治療者が見守る中で、クライエントがただ黙々と置いていくだけで、ただそれだけで、他の幾多の方法などより、はるかに立派な成果を上げる。この治療法が教えたことは、実に大きい。すなわち、「治療者の臨在」の意味の大きさや、「敢えて言語化せずとも、癒されうる」こと、つまり、必ずしも「意識」を通過せずとも、心理療法は成立しうること、言語や意識の代わりに、「イメージ」が治癒にあずかっていることなどを知らしめたのである。

・絵や箱庭に表現するだけで、なぜ言葉が引き出されるのか。
「言葉は引き出されるんじゃないんですよ。言葉というものは、自ずからその段階に達すれば出てくるものなんです。引き出されるのではなくてね。5歳ぐらいまで一言も話さない子どもたちはよくいます。それは、言葉以前のものが満たされていないのに、言葉だけしゃべらせてもダメという意味です。言葉は無理矢理引き出したり、訓練したりする必要はなくて、それ以前のものが満たされたら自然にほとばしり出てきます。事実、私のケースはみなそうでした」

・入門書を作らないもう一つの重要な理由は、絵画療法のわかりやすさにある。紙を渡し、指示にしたがって絵を描いてもらうのは一見、容易な作業である。ぐるぐるなぐり描きするのも、分割するのも、川、山、田、道…と順に描いていくのも、とてもやさしくて簡単だ。医師や臨床心理士、作業療法士など資格をもたなくても、方法さえ身につければ誰でもすぐに実施できるだろう。国家資格はなく、短期間の講習を受けただけでアートセラピストを自称する人もいる。だからこそ危険であると中井は考えた。とくに、学校の先生にふんだんに利用されることを危惧するという。どういう意味かと訊ねたとき、中井の返事はこうだった。
「先生って、子どもの秘密、知りたがるでしょう?秘密を尊重するところから、始めるのです」

・こういうふうに二つに仕切って半分だけに色を塗ったのは、私の長い生活を通してカトリックの修道女でかなり高齢のえらい人だけです。

・私の考えでは、妄想というのは統合失調症の人の専売特許ではなくて、自分との折り合いの悪い人に起こりやすいかなあ。ほかのことを考えるゆとりがないとか、結論をすぐ出さなきゃいけないというときです。でも恐怖がなくなると、妄想はかさぶたのようにはがれていきます。語られなくなる。たとえば今、この部屋にはヒーターの音がしていますけれど、あれが周期的に人の声に聞こえても不思議ではない。でも恐怖がなければなんということはないのです。

・「山も田も家も木も、右にばかり寄っていますね。なにか意味はあるのでしょうか」
「右が空いていると絵は明るく見えるんです。どうですか?」

・そんな疑問を抱いた中井が、患者と面接を重ね、看護日誌を読むうちに気づいたのは、回復していく過程では、患者があまりものを話さなくなるということだった。幻覚を見たり、妄想に苦しんだりしている非常時には、自分の状況をなんとか言葉にして伝えようとする。医師や看護師も注意深く対応する。ところが症状がだんだん落ち着いて消えていく回復過程では、病との闘いでエネルギーを消耗しきっているため、めったに語らなくなる。

・破瓜型統合失調症(思春期から青年期にかけて発症し、感情表現の欠落が主な症状)の青年は、社会復帰を間近に控え、いつもコンクリートのビルと高速道路から成る風景ばかり描いていた。
ところが、枠のある画用紙に描かれた絵はまったく違った。大きな川が左上から右下に静かに流れ、川には中流に三つの中洲がある。中洲に生命の兆しはないが、両岸には草がそこそこ生えている。この青年がこれまで描いてきた生硬で幾何学的な線と違って、ひそやかで寂しみを感じさせる構図で、色合はやわらかく淡かった。川に橋は架かっていないが、青年は「橋はずっと上流にあります」といった。
青年は続いて枠のない画用紙にも絵を描いた。それは、これまでと同じ市街風景で、左側に民家、右側にビルがあった。真ん中の道路には車が走り、左側の家の軒下に一人の人間が押し寄せられている。「道路をむこう側に渡りたいが渡れません」と青年はつぶやいた。

・粗雑を覚悟で表現すれば、たとえば枠のあるほうに患者の内向的な面が、枠のないほうに外交的な面が表されている。たとえば「枠なし」には鳥を「枠あり」には魚を何週間か描きつづけている場合、「この鳥は今飛び立とうとしているのだろうか、もう少し羽をあたためてからにしようか迷っているのだろうか」と訊ねると、答えはいつも後者であった。

・山中はこのときの会話を鮮明に記憶している。中井は、自分がなぜ風景構成法を着想したのか、芸術療法研究会での河合との出会いにさかのぼり、青木病院の患者に箱庭療法をやってもらったときの話をした。
「それで山中君、どうなったと思いますか」
「先生、悪くなったでしょう」
「そうなんです。全員悪くなった。だいぶよくなって社会復帰が射程に入ってきたなと思う患者にやってもらったのですが、それが全部悪くなった。どうして悪くなったと思いますか」
「砂が問題じゃないでしょうか。砂が崩れる。崩落するイメージがある。」

・臨床を積み重ねる中で山中がとりわけ感銘を受けたのは、ある破瓜型統合失調症患者が描いた風景だった。22歳のその男性は、指示するアイテムをことごとく、画用紙の左下隅に、しかも、山中が描いた枠の外側に描いた。枠と紙の端までのごく狭い空間にである。山も、川も、木も、人も、とても小さく、しかし、形態はそのままに丹念に描き込まれていた。そして、最後、「あとほかに描きたいものがあればどうぞ」といったときである。男性は、その左下隅の小さな絵から枠の内側に向けて小さな橋を架け、こういった。
「先生、ボクもみんなと同じ世界にいたいのです」

・ところが、問題をとりあえず局地化して捉えることが苦手な統合失調症の患者は、不意打ちの出来事に遭遇したり、長期的な予測を強いられる状況に置かれたりするとき、もっとも破綻を起こしやすい。いわば、世界の全体像の修正を迫られる事態に陥る。
そんな彼らの認知世界を考慮すれば、診療においても日常生活においても、「(心理的に)空間的距離をとることによって、出来事を相対的に矮小化すること、(心理的に)時間的距離をとることによって、悪夢化しやすい長期的予測をさけること」といった配慮が必要ではないか。

・まず、中井が患者を診察室に呼ぶところから目を瞠った。通常、意思は次の患者の名前を看護師に伝え、患者は看護師の案内で診察室に入っていく。だが、中井は違った。診察室の扉を自分で開けて顔を出し、待合室をざっと見渡しながら、「〇〇さ~ん、お待たせしました」と患者を招く。患者を呼ぶのではなく、自ら招き入れるのである。
患者が着席すると、通常なら、医師は「どうしました」と声をかけ、症状を訊こうとするだろう。教授の木村敏の場合は、患者にわからないドイツ語を使って、後ろに並ぶ研修医たちに説明しながら診察していた。ここでもまた、中井は違った。患者が黙っているならば、自分も黙っていた。
十分ほど経った頃、中井はやさしく患者に語りかけた。
「しゃべるのが苦手みたいね」
「…はい」
患者は初めて口を開けた。
「いいよ、そのままで、いいよ」
中井がそういうと、再び、沈黙となった。
さらに十分ほどして、患者はようやくなぜここに来たのか語り始めた。
「…先生、ぼく…、みんなに嫌われてるんですよ。ぼく…、いてもいなくても同じなんですよ」
「そうか、それ以上、今あわてて言葉にしなくてもいいよ。そのままでいいよ」
診断のための質問は一切しない。立ち居振る舞いから、一目瞭然、統合失調症の患者であることはわかるからだ。

・沈黙に耐えられない医者は、心理療法家としてダメだとぼくは思います。―山中康裕

・日本語で、「精神障害の診断と統計の手引き」と訳されるDSMは、第三版以降、これまでの精神医学の分類を塗り替え、現在、世界標準として君臨している診断基準である。第三版というからには第一版、第二版があるわけだが、第三版がこれまでの版と違うのは、公式の診断基準として初めて操作的診断基準を採用したことだった。それまでの診断では、たとえば、気分が沈んでいても内分泌系の異常でなければうつ病とは診断されない。気分が沈む原因は、内分泌系以外にもいろいろ考えられるからである。

・たとえば、“これはDSMでは精神病症状を伴う統合失調症だけど、使う薬の適用を考えると、保険病名は統合失調症で出しておこう。しかし、たぶんこれはパーソナリティ障害だけどなあ”という具合です。

・中井の理想とするのは、7床あたり一人の医師である。この本が書かれた1982年の基準は、50床に一人だった。現在はどうかというと、内科や外科などを有する百床以上の総合病院や大学病院の精神科で16床に一人、それ以外は48床に一人である。医師の数は1998年からの10年間で2割増え、個人クリニックの数も増加しているが、患者数の増加には到底追いつかない。

・「途中でどっちいくか、あっちいくか、というためらいが出てくると、かなりよくなってくるのです」
「そうなんですか」
「患者さんには、どう、この前より描きやすかった?と尋ねるといい。アセスメントは自分でいったほうがエンパワーされるのです」

・「絵画や箱庭が治療的だとされるのは、そこに物語が作られるからなのでしょうか」
「物語を紡ぐのは非常に重要なんですが、忘れがちなことが僕はあるような気がします。一見話が飛ぶようですが、判決文ですね。あれは裁判官が物語を紡ぐわけですが、親しい弁護士によると、被告人が納得して刑を受けるような名判決というのはなかなかできないのだそうです」
「そうなのですか」
「物語を紡ぐということは、一次元の言葉の配列によって二次元以上の絨毯を織る能力ですからね。そこに無理もあるのです。言葉にならない部分を言葉のレベルまで無理に引き揚げることですから」
「ええ」
「言語は因果関係からなかなか抜けないのですね。因果関係をつくってしまうのはフィクションであり、治療を誤らせ、停滞させる、膠着させると考えられても当然だと思います。河合隼雄先生と交わした会話で、いい治療的会話の中に、脱因果的思考という条件を挙げたら大いに賛成していただけた。つまり因果論を表に出すなということです」
「ええ」
「箱庭も、あれは、全部物語を紡がない、ということも重要なのでしょう。河合先生はよく、ふーんって関心してしていればいいとか、私はなにもしないことに努力しているのです、といっておられた。あれは、そういうことを念頭においておられたんでしょうね」

・よく学生たちにも言うんですけれども、われわれに一番大事なのは感心する才能ですね。「はあー」とか「うわー」とか、ともかく感心するんです。そうするとつくる気が出てきますから。それを、「これは何ですか」とか、「ここがあいてますね」なんて言うのは一番下手なやり方です。

・箱庭療法はやりにくくなっています。絵画療法もそうです。箱庭や絵画のようなイメージの世界に遊ぶ能力が低下しているというのでしょうか。イメージで表現する力は人に備わっているはずなのですが、想像力が貧しくなったのか、イメージが漠然としてはっきりしない。内面を表現する力が確実に落ちているように思います。ストレスがあると緊張は高まって、しんどいということはわかる。だけど、何と何がぶつかっているのか、葛藤が何なのか、わからない。主体的に悩めないのです。
最近多いのは、もやもやしている、といういい方です。怒りなのか悲しみなのか嫉妬なのか、感情が分化していない。むかつく、もない。むかつく、というのはいら立ちや怒りの対象があるということです。でも、最近は対象がはっきりせず、もやもやして、むっとして、そしてこれが一定以上高まるとリストカットや薬物依存、殴る、蹴るの暴発へと行動化、身体化していきます。でも、なぜ手首を切りたくなったのか、その直前の感情がわからない。思い出せない。1、2年ほどカウンセリングを続けて、そろそろわかっているだろうと思っていた人がわかってくれていなかったことがわかる。それぐらい長く続けてもわからないのです。悩むためには、言葉やイメージが必要なのに、それがない。

・ユングにしろ、フロイトにしろ、彼らは自分の心の探究を徹底させて理論を作ったわけです。でも、それはたとえば、ニュートン力学の法則とは違うわけです。ニュートンが作った力学の法則はどんな物体にも適用できる。ところが、ユングが作った法則は適用してはいけないんです。適用不能なものなんですね。そやけど、何にも役に立たないかというと、そんなことはなくて、あなたが自分の心を考え始めたとき、ユングの理論はあなたにとってものすごく“有用”なときがあるんです。それは、しかし、あなたにとってですよね。すべての人にとってではないです。
ユングの理論をあなたに“適用”するとか、フロイトの理論をあなたに“適用”するというのは間違ってるというのが、僕の考え方なんです。でも、それをやるサイコロジストがすごく多い。それでみんな迷惑するわけ。―河合隼雄

・歴史的な発見や発明をした人物が発達障害だったのではないかとはよく指摘されるが、そんな天才でなくとも、昔の職人のように、人とのコミュニケーションがあまりうまくなくても自分の仕事に没頭し、人生をまっとうできた人たちは多くいた。特定のものへのこだわりや収集癖があっても、それが彼らの個性とみなされた。家族関係においても、それぞれの役割分担が明確だった時代には、その役割に徹すればよく、とりたてて主体性を発揮する必要も必然性もなかった。
ところが、近代に入り、「主体の確立」が要請されるようになって、それに応えられない人たちが出てくるようになった。第二次産業化が、それに適応できない人たちを統合失調症としてはじき出し、第三次産業化が、発達障害を生み出した。つまり『これまで物を相手にしていたらよかった人たちが、仕事で人を相手にすることによって破綻していった』ことが、近年の発達障害増加の背景にあるのではないか。

・このときクライエントは三学期より登校を決意していたが、そのような決意に伴うかなしみの感情を、この夢はよく示しており、そのような点についても二人で話し合うことができた。治るためには必ずといってよいほど、かなしみを味わわねばならないようである。
…人が回復するときのかなしみというのは、僧の大きな鼻が小さくなってしまったときの、なんともいえぬさみしい気持ちと似ているのではないかと思うのです(芥川龍之介の鼻を引いて)。

・自分はこう見てしまうというバイアスや、相手にこういうことをしゃべらせたいという自分なりのストーリーを自覚するということでしょうか。

・パソコンと大きなテーブルが医師と患者を隔てており、そもそも患者の話を聞こうというレイアウトになっていない。もっと直接向き合って話を聞いてほしかったのに、もしかしたら人生の分かれ目になるかもしれないと覚悟してやってきたのに。肩を落として診察室を出ると、待合室にずらりと患者が並んでおり、ああ、これもやむをえないことなのかと思い直す。

※付随して読みたい本
カウンセリングの実際問題 河合隼雄
心理臨床の実践 村瀬嘉代子 (図書館あり)
カウンセリングの技術―クライエント中心療法による 友田不二男
仏教が好き! 河合隼雄×中沢新一
精神病者の魂への道 シュヴィング
発達障害への心理療法的アプローチ 河合隼雄他
ユング心理学と仏教
新版 心理療法論考 河合隼雄

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 心理・カウンセリング ☆4,5
感想投稿日 : 2014年8月22日
読了日 : 2014年8月22日
本棚登録日 : 2014年8月22日

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